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ウィキノミクス成功ルール

『マクロウィキノミクス』より 改革のための基本原則

ウィキノミクス成功ルール1--クリエーターではなく、キュレーターを目指せ

 キュレーターとは、物事がうまく運ぶ環境、ないしはその基盤となるブラットフォームをつくり、自分以外の人間に自由を与えて、彼らが自分で考えて行動し、組織全体の、そしておそらくは社会全体の利益となるものを創造できるよう援助する人間である。ウェブサイトをつくるにしても、発展性のないコンテンツを詰め込むだけでは意味がない。他のメンバーが自分たちでコンテンツを創案し、コミュニティをつくれるよう、そのための枠組みやツールを開発してやる必要がある。

ウィキノミクス成功ルール2--共有財の価値を見直す

 賢い企業が共有を推し進める理由はいくつかある。例を挙げるとすれば、業界内で競争が起きる分野を戦略的にシフトさせる、市場により速くアクセスする、研究開発費を抑える、価値ある後続発明を促す、関連製品の需要を喚起する、コラボレーターのコミュニティと良好な関係を築くといったことだ。

 グリーンエクスチェンジを通してグリーンイノベーションの技術を交換するという決断をしたナイキやベストバイ、あるいは糖尿病の治療薬開発に参加する研究者のコミュニティを拡大させるために、自社の研究結果を公表したノバルティスの例を思い出してみるとよいだろう。

ウィキノミクス成功ルール3--自由にさせる

 強力で、統制が取れ、安全の保証された組織ないし社会を現代においてつくりたいのであれば、「自由にさせる」ことが必要だ。これは一種のパラドックスであり、この「自由」はいろいろな意味を持っている。

 たとえば、自由とはイノベーションやコラボレーションに向けてメンバーが柔軟に対処できるよう、彼らの裁量の範囲を広げることかもしれない。アイデアを募るためにサプライヤーやパートナーを刺激し、製品のデザインや製造についてより緊密にコラボレーションを行うことかもしれない。商売の範囲を広げ、より多くの協力者を集めるために、知的財産の一部を公開することかもしれない。誠実で熱心なマニアたちにDIY精神を発揮させ、会社のブランドを育ててくれるよう仕向けることかもしれない。さらに行政の場合は、政策決定権の独占をやめ、市民に重要な役割を托すことかもしれない。いずれの場合も、「自由」にはある程度のリスクが伴う。計画が準備不足のため、目の前でつぶれてしまう可能性は常につきまとう。

ウィキノミクス成功ルール4--活動を担うヴァンガードを発掘し、強化する

 自分で考えて行動する人材が思い切り活躍できるようになるには、そのためのプラットフォームを用意してやらねばならない。しかしそれだけでは十分ではない。リーダーが必要だ。ビジョンを示し、コミュニティの価値観を確立し、グループ内の意思の疎通を促し、大義のために闘い、生態系により多くの人材を引きつけることのできるリーダーである。

 そしてそのようなリーダーの集まりであるコアグループなしには、コミュニティは決して始動できない。少人数の主要参加者が集結するこのグループは、多くの仕事を一手に引き受け、他の参加者に対して、彼らの活動基盤となる社会資本や技術的なインフラストラクチャーを提供することもある。このような集団を「ヴァンガード」と呼ぶ。自発的組織の力を引き出したいのであれば、ヴァンガードを強化しなければならない。

ウィキノミクス成功ルール5--コラボレーションの文化を創る

 まずは小さく始めることだ。将来ヴァンガードのメンバーになれそうな熱心な社員がいるようであれば、彼らを援助してパイロット・プロジェクトを始めればよい。それによってコラボレーションならびにコラボレーション・ツールの価値を組織に認めさせることができるだろう。またリバースメンタリングを利用して、若いメンバーがベテランメンバーの教師となり、コラボレーションを効果的に進めるための新ツールの使い方を教えるというやり方もあるかもしれない。適切なインセンティブも重要だ。たとえば個人業績ではなく、グループに対してインセンティブを与えれば、より生産性の高い働き方へとメンバーを導くことができる。リーダーは、コラボレーションと情報共有を進める過程で自らが手本を示す。

 実際、ウィキノミクスの原則を取り入れた体制へと組織の体質を転換する場面では、有無を言わせぬリーダーシップにまさるものはない。善良で才気にあふれ、やる気十分のメンバーが他にどれほど揃っていたとしても、組織全体にウィキノミクスの文化を植え付けられるのはCEO以外にない。最終的に企業文化を明確に具体的な言葉で言い表すことができるのはCEOだけである。

ウィキノミクス成功ルール6--ネット世代に権限委譲する

 世界的に見ると、ネット世代は現在人口の四分の一以上を占めており、まもなくワークプレース、マーケットプレース、大学、政治、社会を牛耳るようになる。その力はすでにはっきりと証明済みだ。たとえば、二〇〇八年には米国の大統領選挙で彼らが重要な役割を演じた。また、二〇一五年までには米国の有権者の三分の一を占めるようになって、数が最大であるだけでなく最も強い影響力を持つ世代になるはずだ。十分にその能力を発揮できる世代として、ネット世代は古い秩序を変えつつある。階層的構造を嫌い、コラボレーションを好むことから、人材の採用や補充、開発、監督の方法について、組織は考え方を改めざるを得なくなっている。
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二一世紀の移動は、相乗りが基本になる

『マクロウィキノミクス』より

想像してほしい。あなたは一世紀前の地球によく似た惑星に着陸し、人々の移動を支配する手段を設計するという任務が与えられた。設計条件は次のとおり。燃料を最大限に消費すること。農地や空き地をできる限り使用するなどして、地表面積を最大まで占有すること。毒素を最大限まで排出すること。代替案などは使わず、できるだけ多くの物質(鋼鉄、ガラス、ゴム、革、合成品)を使用すること。できる限り多くの死傷者を生み出すこと(例:どこに向かうかわからない乗り物を、運転資格のない者に運転させる)。見通しを立てづらい仕組みを考案し、目的地への到着時間の見当がつかないようにすること。利用者が増えるほど、移動にかかる時間が速くなるのではなく遅くなること。また、利用者どうしの評いを煽った人、極端なことを言えば、利用者の平常心を失わせるほど激怒させた人にはボーナスポイントが与えられること。このような条件を満たす移動手段となると、内燃機関を搭載した自動車以上に最適な答えがあるとは考えにくい。

あんまりな喩えだ、と思う人もいるだろう。確かに、自動車はアメリカンドリームの象徴的存在だ。赤いコンバーチブルが太平洋沿岸を駆けるシーンは、北米はもちろん、世界中の国々の歌、映画、夢物語に当たり前のように登場する。車は、移動ができて生活の役に立つうえ、ステータスを与えてくれ、一種の自立心を満たしてくれる。車を所有する人が、車が与えてくれる自由を満喫しているのは確かだ。それに、地球には、車を手に入れたがっている人がまだまだ大勢いる。

これだけのメリット(車の所有者や愛好家にとってのメリットという意味だ)があるというのに、車は大きな問題を生み出した。我々はその問題を、未来の世代のために必死で解決しなければならない。一台の自動車を製造するだけで、鋼鉄、鉄、アルミニウムを得るために山を破壊し、ゴムやプラスチックを得るために石油を搾取しなければならない。

さらに、こうした原材料を処理するためのエネルギーや、自動車そのものを組み立てるためのエネルギーも必要になる。平均すると、車一台につき二八トンの廃棄物が生まれ、一四二一立方メートルの大気が汚染される。しかも、これは製造時だけの話である。

組み立てラインを出た後も、エネルギーは使われ続ける。現在、六億台の自動車が道路を走っていると言われ、それらが地球の二酸化炭素排出量の一〇パーセントを占めている。車から排出される有毒ガスの混合物が大気汚染の最大の原因となっていることや、呼吸器官をはじめとするさまざまな健康被害の主な原因となっていることは言うに及ばない。

また、自動車にはお金もかかる。アメリカでは、平均所得の一八パーセントが車につぎ込まれている。この数字は、燃料代、駐車場代、通行料、維持費、保険料などの上昇に伴い大きくなる。また、道路の混雑がひどくなれば、それだけ車の利便性は失われていく。

当然ながら、車が有効にはたらく、つまり、車が移動の自由を与えてくれるのは、走らせる道があるときだけだ。そしてこの事実が、地球をいまだに傷つけ続けている原因となっている。先進国では都市部の約四〇パーセントを道路が占領し、北米になるとその割合はさらに大きくなる。二〇〇八年には、世界にはりめぐらされた道路網が七〇〇〇万キロメートルまで広がった。これだけの長さがあれば、月に向かって高速道路を一八○本つくれる。

都市計画に携わる人々は、自動車保有率が高くなれば都市のスプロール化に拍車がかかると、以前から認識していた。つまり、車への依存が高まれば、道路の渋滞が増えるという現象も同時に拡大していくのだ。また、道路が生態系を破壊し、生物の移動を妨げ、河川の流域を危険にさらす恐れもあるのだと認識している人はほとんどいない。

自動車が先進国で一、二を争う交通手段であることを考えると、どうしても死との結びつきは避けられない。二〇〇四年、世界保健機関(WHO)は、交通事故により年間およそ一二○万人が死亡、五〇〇〇万人が負傷し、世界の死因の一〇番目が自動車事故であると発表した。我々が変わらない限り、この数値は今後二〇年間で約六五パーセント増加するとWHOは予測している。

ここまでで、車の悪影響はもう十分わかったと思うかもしれない。だが、こうしたことは、自動車が抱える問題のほんの始まりにすぎない。中国やインドで中流階級の消費者層が新たに出現したことが、自動車需要の急増を招いている。こうした新興諸国になると、車は先進国以上に混雑した道路を走ることになる。そのうえ、安価な古いエンジン技術が使用されているため、膨大な燃料需要とものすごい量の排気ガスが生み出される。
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あらゆる知がつながる時代に、守るべき五つの原則

『マクロウィキノミクス』より

 ウィキノミクスの原則1--コラボレーション

  グーグルをはじめとする多くの企業や組織は、もっと違う意味でとらえている。新しい発想を生み出し、商品やサービスをつくり、問題を解決する能力を持つ人々をまとめあげることが、彼らにとっての「コラボレーション」である。ソーシャル・ネットワーキングは今や、本当にソーシャル・プロダクションを実現する手段になろうとしている。同じ志を持つ仲間が集まることで、ソフトウェアからオートバイまで、何でも設計・製造することができる。ときには、何千、いや何百万という桁違いの人数を巻き込んだコラボレーションが起こることもある。そうしたネットワークに参加することを学んだ組織は、社内だけを対象に考えていたときとは比べものにならないほど、多様な思考や才能を手にすることができる。シュミットも言っているが、コラボレーションによるイノベーションは今や、予算編成、R&D、計画策定と並ぶ、企業に必須の技能となったのだ。

 ウィキノミクスの原則2--オープン

  「オープン」という言葉は幅広い意味を含み、その多くが好ましい意味合いである。たとえば、率直、透明、自由、真摯、柔軟、拡張的、近づきやすい、などがあげられる。とはいえ、今日の経済活動や社会の制度に「オープン」という言葉が使われることはあまりない。世間との情報共有という点に関しては、ほとんどの組織が「秘密主義を貫くのが当然」という態度だった。

  デジタル時代の到来により、賢明な企業は「オープン」の意味を見直し始めた。これは、従来のビジネスの常識に疑問が呈され、数々の重要な機能や制度が変わろうとしている証拠だ。なぜ変わろうとしているのか? まず第一に、組織に選択の余地がない。世界は透明性を高めていく方向に進んでいる。今では、消費者に商品やサービスの適正価格が伝わり、社員は会社の戦略、経営方針、抱えている問題などを知ることができる。どちらも以前には考えられなかったことだ。

 ウィキノミクスの原則3--共有

  企業、政府などの組織にとっての「オープン」が、利害関係者に適切な情報を開示することだとすれば、「共有」は組織が保有する資産の開放や譲渡を意味する。やり方としては、誰もが使える「公共の場」にそれらを配するか、使用料の発生を条件に使用を認めるかするのが一般的だ。もちろん、これまでの定説は、「組織が所有する資源や技術--とりわけ知的財産--は、特許、著作権、商標の取得という形で管理・保護すべき」というものだ。

 ウィキニミクスの原則4--倫理

  企業の社会的責任を推進する人々は、「善い行いをしていればうまくいく」という楽観的な格言を提唱した。そして、善行に励む企業の前例をつくろうとしたが、賛同を得ることはできなかった。

  だが、状況は一変した。ウィキノミクスの五つの原則が企業に成功をもたらすようになり、「善い行いをしていればうまくいく」は現実のものとなりつつあるのだ。最近では、不正をはたらく企業が破綻するケースが目立つ。企業や非営利組織に、倫理が求められるようになったのだ。それも、法律や利害関係者からだけではない。複雑なネットワーク化時代の到来により、倫理観にのっとった行動や透明性を要求する声が世間でも高まっている。

 ウィキノミクスの原則5--相互依存

  相互依存を鄭楡する意味で「グローバリゼーション」という言葉が用いられることがあるが、WTO(世界貿易機関)反対者ならばきっと、「時間を戻したくても戻せないのだから、グローバリゼーションで世界の公平化を進める必要がある」と言うだろう。「グローバリゼーション」という概念は新しいものではないが(著名な学者から、グローバリゼーションは何世紀も前から人類文明に存在する特徴の一つであり、それを通じて拡大や縮小、繁栄や衰退を繰り返しているとの指摘がある)、現代に見られるほど広範囲に、あらゆる方面を取り囲んでグローバリゼーション(グローバル化)が進められたことはない。広大な商取引ネットワークや世界レベルでの交流のなかで、人、金、技術、商品、サービス、文化、アイデアが、何の躊躇もなく国境を越えていく--そんな今の時代を反映する特徴の一つが、世界規模の相互依存である。
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哲学的な問い・社会的な課題

『科学をいまどう語るか』より 科学の現在から未来へ 科学の近未来を素描する

科学の近未来を見渡すと、いずれの領域の科学も哲学的な問い、社会的な課題に遭遇しそうだということが言える。これらの問題は、専門家だけが囲い込んでおくべきものではない。専門外の私たちに深くかかわるものばかりだからだ。その探究の行方は、私たちが日々の暮らしのなかでなんらかの判断や決断を下すときに、あるいは世の中の制度やしくみを設計するときに大きな影響を与えることになるだろう。

哲学的な問いは、近現代になって自然科学が遠ざけてきたものだ。だがその問いは、物質世界の探究が人知の極限に近づき、人間とは何かという問題を呼び起こしていることで、もはや避けて通れなくなっている。

たとえば、量子コンピューターや量子暗号の開発をめざす量子情報科学の台頭で再浮上した量子力学の観測問題は、認知能力を備えた一人ひとりの観測者がとらえる世界がどのようなしくみで多くの人々と共有されているのか、という難題をはらんでいる。それは「自己と他者」、「間主観性」といった哲学のキーワードなしに考察を深めることはできないだろう。自然科学者と人文科学者の対話が強く求められている。情報科学の進展が科学のあらゆる分野に「モノよりコト」の思想を浸透させつつあることも見逃がせない。これは、どちらかと言えば自然科学者同士が垣根を超えて語り合うべき哲学的な問いだ。これらの対話の舞台を用意して、議論を媒介するのは科学ジャーナリズムの役目だろう。

もう一つの社会的な課題はどうか。こちらも大きな論争の芽が見てとれる。一例は、図1で生命科学の線上に置いた「合成生物学」。人の全遺伝情報(ゲノム)解読で、民間陣営の先頭に立った米国ベンチャー企業のカリスマ、クレイグーベンターが、ゲノムの次に果たそうとしている大事業だ(『ヒトゲノムを解読した男―-クレィグーペンター自伝』野中香方子訳、化学同人)。2010年には、民間研究所のチームを率いて、「人工生物」に限りなく近い細菌をつくったとする論文を発表した。

DNAのかけらを合成してつなげ、生命体一つ分のゲノムを組み立てる。これを器代わりの細菌に入れて、もとからあった細菌のゲノムのように働かせ、増殖させるところまでやってのけたというのだ。ベンター自身は、代替子不ルギーの調達や地球温暖化防止などに役立つ生物をデザインしたいと考えているようだが、いったんこうした技術が広まれば、軍事に転用されたり、食の安全を脅かしたり、生態系を乱したりという懸念が出てくる。ところが、合成生物学が発達した「可能世界」をめぐる議論はまだ、日本の新聞メディアではほとんど聞かれない。

図1で認知科学系の矢印を「内心の透明化」に延ばしたのは、これから脳の探究が進むことで脳内の情報処理が外から見てとれるようになって、その信号が脳外につながる時代が来るように思われてならないからだ。これは一見、とても怖いことのように思われるが、決して悪いことばかりではない。体が不自由な人が心に思っただけで目の前の機械を動かせるシステムなどは進めていきたい技術である。警戒したいのは、内心の思いを人から盗み読みされることだ。

そのハードルがもっとも低いのは犯罪の捜査だろう。米国には戦後、ウソ発見器の開発を積み重ねてきた歴史がある。その流れを読み物にした『嘘発見器よ永遠なれ--「正義の機械」に取り憑かれた人々』(ケン・オールダー著、青木創訳、早川書房)は、脳の組織だけでなくその働きもとらえる装置が出てきたことを踏まえて、最新の技術が「ハイテク装置を用いて嘘の本拠地に--つまり脳に--直接乗り込むという魅カ的な方法を提示している」とみてとっている。

日常生活で心のうちがだれかに勝手に読まれたら、それは重大なプライバシー侵害にあたる。だが、ネット社会では、本人の同意を巧妙に得ながら、パソコン画面を見つめる視線の動きをカメラで追って脳内の反応を読みとり、商品の販売や広告戦略に生かすビジネスが出てくるかもしれない。そんな「可能世界」を思い描いて、いま私たちの社会が十分な議論をしているとは言いがたい。
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あなたの使命の見つけ方

『宇宙からのサイン』より 本当に好きなことをして成り立つ世界へ

それぞれの人が自分の本当に好きなことに没頭するようになると、専門性が際立つので、ひとつひとつの深みが増していきます。

たとえばアメリカでは、テレビのチャンネルが100種類近く(以上?)あります。なかには、朝から晩までゴルフの試合を流しているものや、一日中お料理をしている番組、日曜大工専門のチャンネルもあれば、世界の株価を流し続ける番組もあります。

視聴者は、自分の好きなことに合わせて番組を選ぶのです。

それぞれの人が自分の好きなことを追求しているからこそ、それだけ多くの番組があっても成り立っている……また、それだけ多くの番組があれば、そこには当然雇用も生まれます。

それぞれの人が自分の好きなことに向かい始めたら、仕事の取り合いもなくなるような気がします。

これまでは、社会の決めた同じ価値観を「幸せ、成功」としていたために、それに沿う仕事をみんなが取り合っていましたが、自分の本当に好きなことをして成り立つとなったら、人気は分散するからです。「好きなこと」というのは、人によって本当に様々です。

同じような環境に育っても、まったく違うことに興味を持つこともあるし、はたから見ると、どうしてそれがそんなに好きなのかわからないことも多いでしょ職業というような「形」ではなく、プロセスに感じる「好きなこと」もあります。表舞台に立つことが好きな人もいれば、それを支えることが好きな人もいるし、社会の仕組みをつくることが好きな人もいれば、それを広めることに生きがいを感じる人もいます。常に新しいことを切り開いていくことが好きな人もいれば、その形を維持することが好きな人もいる……それぞれがその道のエキスパートであり、まさに役割分担なのです。

そして好きなことに向かっているときは、誰でも自然と努力をしているし、時間を忘れて没頭できるものです。

この、「とにかくやっていて楽しいこと、それを考えるとワクワクすること」が、あなたの使命であり、役割です。「使命」とは、社会的に大きなことだけを指すのではありません。

その人が、その作業によってワクワクした気持ちで進むと、その人自身が幸せになり、結果的にまわりの人に影響を与えます。そういう人がたくさん集まった地域や国は幸せになるので、最終的に世界の幸せにつながるのです。直接的な影響だけではなく、第1章に書いたような、「人の意識は水面下でつながっているので、こちらの幸せが地球の反対側の人の幸せにつながる」という仕組みも作用します。

だからまず、あなたが好きなことに向かっていいのです。

また、特に苦しさを感じずに楽にできること、知らない間にできてしまうこと、というものも、使命のひとつだと思います。簡単に言えば、得意なことです。

私自身のことですが、よく「毎年何冊も本を書くのって、大変じゃないですか?苦しくなるときがありませんか?」と聞かれることがあります。

もちろん、「生みの苦しみ」がまったくないわけではありませんが、よく考えてみると、それは相手が想像しているような苦しさではありません。

たとえば、「文章が出てこないときにはそこから離れる」とか、「波が来るまでいつまでも待つ」というような、作品づくりに必要なことが、もともとできやすい性質なのでしょう。そして本を書いているときは、書けば書くほど元気になる……と言うと大げさですが、気持ちがよくなるので、仕事に関係ない全体の流れもよくなるのです。

同じように、「その人に向いている得意な作業」というのは、他人から見たら大変そうに思えても本人はそれほど感じていない、ということが多いものです。私がそれをやったら苦しいけれど、あなたには楽にできる、ということです。

なぜ、その能力が与えられているかといえば、そこにその人の役割(使命)があるからでしょう。楽にできるのですから、他の人が感じるような苦しさがなくそれを担当することができるのです。

楽に進めて没頭できるから、超人的な力を発揮できたり、その分野の開拓につながったりするのです。そしてそのときの本人の感覚は、「ただ好きなことをしていただけ」とか「得意なことだから当たり前」とか「自然とそうなっていた」というものであり、そこに無理が少ないのです。

もちろん、はじめから「自分の使命とはなにか?」なんて考える必要はありません(使命感に溢れている人は、まわりに苦しさを与えている場合もあります〈笑〉)。

ですが、自分のワクワクすることに向かっていると、最終的に、「これが自分の役割かもしれない」ということに自然と気付くことが多いようです。

自分がワクワクする好きなことや、自然とできてしまう得意なことの先に使命がある……こんなに楽しいことはないと思います。つまりここでも「ワクワクする」という感覚はサインになっていることを実感できるのです。
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ケインズ vs ハイエク

『1971年』より ハイエク最後に笑う--愛弟子サッチャーの革命

サッチャー自身も「ケインズが死んだと思っていない者にとっては、イギリスと世界が不況に沈みつつある時に支出を減らし借り入れを抑制することは、とんでもないことだった」と、自身が「反ケインズ」の確信犯だったことを認めている。

彼女が信奉したのは、ケインズの論敵だったハイエクである。

彼女は、オクスフォード大学の学部学生のころに、ハイエクの『隷従への道』を読んで感銘を受けたという。この本は、ハイエクの著作で唯一、一般向けと言える本で、第二次大戦中の十九四四年に出版され、英米でベストセラーになった。

ハイエクは、英国の敵であったファシズムも、ナチズムも、そして当時は連合国側だったソ連の社会主義も、経済を計画化しようとする「集産主義」であることに変わりはなく、市場経済を破壊し自由を失わせる、と主張していた。

こんなエピソードもある。保守党党首の時に、党の会合でサッチャーが、カバンからハイエクが六〇年に発表した自由主義についての著作『自由の条件』を取り出し、卓上にドンと置いて言った。「これが私たちの信じるものです」。

サッチャーのハイエクヘの傾倒は、よく知られていて、労働党党首のフッ卜はハイエクを「サッチャーの心を奪ったマッド・プロフェッサー(いかれた教授)」と呼んでいた。

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクは、一九世紀末の一八九九年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで、学者の家庭に生まれた。第一次大戦に出征し、戦場を体験している。戦後ウィーン大学で法学と政治学(経済学も含んだ)の学位を得た。学生時代は穏健な社会主義に共鳴していたが、経済学の師となった、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの話を聞いて、宗旨変えした。

ニューヨーク大学で短期間、研究助手として働いた。ウィーンに戻って景気研究所所長、ウィーン大学講師などをしていたが、英国の経済学者で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の経済学部長だったライオネル・ロビンズに招かれ渡英、LSEの教授になる。以降二〇年ほど英国に住み続け、一九三八年に英国籍もとっている。七四年にノーベル経済学賞を受賞。晩年はドイツに住んだ。

二、三年前だが、動画サイトで「ケインズ VS ハイエク」をネタにした米国の創作ビデオが人気を博したことがある。現代によみがえった二人が、ラップ(リズミカルなしゃべくり歌唱)で対決する。市場への介入を勧めるケインズ、市場に任せよというハイエク。二人が「この一世紀、オレたち行ったり来たり」と声をそろえる。

原人な経済学者として知らぬ者はいないケインズと六歳年下のハイエクの関係は微妙である。もともと、ケインズはハイエクのあこがれの存在だった。第一次大戦の講和条約(ベルサイユ条約)の敗戦国への過酷な仕打ちを攻撃した『平和の経済的帰結』を書いたおかげて、ケインズはドイツ語圏では英雄だった。

二人の最初の出会いは二八年、ハイエクが訪れたロンドンでの研究会でだが、初顔合わせから二人の意見は衝突したようだ。三一年にハイエクが英国に移住した後は、交流が増えた。特に戦時中、LSEがケンブリブソに疎開していた時期には、頻繁に顔を合わせて芸術、文学、科学などを話題に、友人としての交流を深めている。

しかし、経済学に関しては、ハイエクはケインズをほとんど評価していない。ケインズの死後に書かれた短いエッセイを読むかぎり、ケインズの主著である『雇用・利子および貨幣の一般理論』も「時事論説」という評価だし、ケインズが受けた経済学の訓練は偏っていて、集計量で考える傾向や、全体的な見積もりを好む「弱点」も指摘している。

また、ケインズが、名演奏家が楽器を奏でるように、世論を操ることができると信じていて、その天分と気質からして、学者や研究者より、芸術家や政治家であった、とも評している。

しかし、大恐慌後の英国で、経済学者として脚光を浴びていたのは、ハイエクではなく、圧倒的にケインズだった。ケインズは折に触れ不況克服のための方策をぶちあげた。

ハイエクは、財市場の均衡をもたらす自然利子率を実際の利子率が下回ると、過剰投資が起きバブルとなって、バブル崩壊が不況をもたらす、という景気循環理論を唱えていた。しかし、彼は不況からの脱出策のアイデアを披露することはなかった。民衆が知りたかったのは、大不況が起きた理由ではなく、どうすれば大不況を脱せるかの処方箋だった。新聞への寄稿などで具体的な景気対策を世間に訴えるケインズに比ベ〝自然治癒派″のハイエクの影は薄かった。

戦後、ケインズ経済学が、特に米国で「ケインズ革命」と言われるほどの影響力を示し、主流派経済学の座についてからは、ハイエクはほとんど忘れられた経済学者だった。ところが、先進国がおしなべてスタグフレーションに苦しみ、福祉国家の行き詰まりが隠せなくなり「ケインズの論敵」に再びスポットライトがあたるようになった。
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エコット「市民」会議

クルマの存在

 クルマというのは本当に不便です。というか、悪です。なぜ、これだけの体積を持たないといけないのか。

環境哲学の必要性

 こんなに人間が故に、矛盾を秘めているのに、なぜ、行動しないのか。考えないのか。やはり、多面化すること。これがない限り、個人は小さすぎます。

 それと環境哲学です。あまりにもなさすぎる。

コミュニティ・パワー

 コミュニティには場所が要らない。場所があると邪魔です。依存します。

 どう見ても、「市民」会議ではない。市民が居ない。クラブ活動の発表会ならば、他のボランティアを徹底的に巻き込んだ遣らない意味がない。環境では誰も動かないでしょう。結局、交流館でのクラブ発表とほとんどかわりがない。存在に甘えています。

 Mさんは辞めるそうです。「ふつうの人」に戻るそうです。豊田では存在理由がない。希望の星が消えます。やはり、豊田の人は贅沢なんでしょう。全てを揃えても動かない。

 このままでは、豊田市はデトロイトになります。市民の力が支えたピッツバーグにはなれません。やはり、行政と会社を動かさないといけない。力になりえない。

 暇な市民だけを集めても何の役にも立たない。それとやはり、理念です。何のためにやるのか、それをいかに伝播するのか。

 クーポンが必要とか、そんな話しかないです。人が前面に立たないと、NPOはなりたたない。NPOに必要なのは、知恵ではなく、知識です。それでないとつながらない。つながらないと力になりえない。発信と言っているけど、何も発信していない。共有もしていない。

  結局、交流館でのクラブ発表とほとんどかわりがない。存在に甘えています。
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