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イエスの教え

『世界文化小史』より

イエスは、ティペリウス・カエサルの治世下にユダヤに現われた。彼は一予言者であった。彼は以前のユダヤの予言者たちの流儀にならって説教をした。彼はほぼ三十歳くらいの男であったが、説教を始める以前の彼の生活様式については、われわれにはまったく知るところがない。

イエスの生涯とその教えに関する、われわれの唯一の直接的な情報源は、四福音書〔マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の四書〕である。この四書は、すべて、非常に明確な一つの人物像をわれわれに与えてくれることで一致している。われわれはこう言わざるをえない、--「ここには一人の男がいた。このことは作り話ではありえなかったであろう」と。

しかし、ちょうどゴータマ仏陀という人物が、のちの仏教の金色の偶像である、こわばった坐像によって、歪められ、あいまいにされてきたのと同じように、イエスというやせた奮闘的な人物も、誤まった崇敬の念から、近代キリスト教芸術におけるイエスの肖像に加えられた、非現実性や紋切り型によって、大いにそこなわれているような気がする。イエスは、一文無しの指導者であった。彼は、埃っぽい、太陽に焼け死なんばかりのユダヤの国土を放浪し、ゆきあたりばったりに恵まれる食物を食べて生き続けたのであった。ところが、彼はいつでも、きれいで、髪は櫛ですかれ、しかも身なりはきちんとしていて、よごれのない衣類を身につけ、直立し、そしてあたかも彼が空気中をすべっているかのように、彼のまわりには何か静止したものをそえて、描写されている。これだけでも、この物語の中核を、装飾的で愚かな、無知な信仰の付加物から区別しえない多くの人々に対して、イエスを非現実的なものにし、信じられないものにしてしまっている。

この記録から、こうしたわかりにくい付属物を取り除いてしまうと、われわれに残されるのは、きわめて人間的な、きわめて真面目で熱情的な、すぐに怒ることのできる、そして一つの新しく、そして単純で、しかも深遠な教理--すなわち、愛情深い普遍的な父なる神と天国の到来と--を教える一人間の姿である。彼は、明らかに、--平凡な言葉を用いれば--人格的魅力の強い人物であった。彼は教徒たちを惹きつけ、彼らに愛と勇気とを満たしてやったのである。弱き悩める者たちは、彼がいることによって元気づけられいやされるのであった。けれども彼は、たぶんきゃしゃな体質であったようである。それというのも、彼は十字架にはりつけられたことの苦痛のためにすぐに死んだからである。彼は、慣習に従って、処刑場まで十字架を背負うて運ばされた時気絶したのだという伝説もある。彼は自分の教理を広めながら三年間国土を遍歴して、それからイェルサレムにやってきたのであるが、ユダヤに奇妙な王国を建てようとしているという非難をうけた。彼はこのとがを着せられて、二人の盗賊といっしょにはりつけにされた。この二人の盗賊が息をひきとるずっと前に、イエスの受難は終わっていた。

イエスの主要な教えであった、天国の教理は、たしかに、かつて人類の思想をかき立て変化させた、最も革命的な教理の一つである。その当時の世界の人々が、この教理の十分なる意義を把握しえず、また人類の既存の習慣や制度に対するそのすさまじい挑戦を、半ば理解しただけであわててあとずさりしたとしても、さほど不思議ではない。というのは、イエスが説いたと思われる天国の教理は、苦しみもだえるわれわれ人類の生活の、完全なる変化と浄化、すなわち、内面的・外面的な、徹底的浄化を求める、大胆かつ強硬な要求にほかならなかったからである。このとほうもない教えについて保存されているいっさいのことを知るためには、読者は、福音書を見なければならない。われわれは、ここではただ、この教えが既存の諸観念に与えた衝撃の激しい震動を問題にしているにすぎない。
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