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人間は知識の部分で進化していない

武器というもの

 古代においては、戦車というものが高かったが、戦争では大きな役割を果たした。戦車を持った個人は特権を得ました。国王も彼らの意見を聞かないと、国が成り立たないから、特権階級を作りました。

 ところが、国民国家になった時には、機関銃とか、飛行機というものが出てきた。新たな様相になりました。機関銃で、大勢の人数が犠牲になりました。大勢の人数を動かすための補給の意味が大きくなった。

 南北戦争で北軍が勝ったのは、鉄道を使ったことと、ミシシッピー川と海を押させたことであった。戦争自体は、ヨーロッパから言わせると幼稚な戦争だった。60万人もムダに亡くなった。

 その世界から、飛行機が出てきた、相手の国の根幹を叩くというカタチになってきました。その究極が原爆です。お互いに動けなくなりました。戦争で支配することが出来なくなったので、アメリカはデモクラシーで支配しようとした。

国民国家の限界

 そして、その後の世界として、地球全体の課題をどのように解決していくのかと言うところで、解決レベルが国レベルであれば、国が衝突するに決まっています。国の単位を保証できません。

 ウガンダとかウクライナにしても、民族の問題で底辺のところで動けない状態になっています。トルコは、地域の社会を連合するというカタチで、解決してきた。。これは外に向けていくと、地中海沿岸諸国、ギリシャの都市を含むことができて、新たらしい「オスマントルコ」になる可能性を持っている。

 地域の多様性を活かそうとすると、超国家が必要になってくる。そこでのやり取りは、完全にネットの世界で対応することになります。

人類に対する苛立ち

 環境社会のベースの部分は何か? 当然、民主主義に関わります。特にグループの設定と意思決定のやり方です。そして、なぜ、そんなことをしないといけないのか。単に生まれて、死んでいけばいいだけの「人間」なのに。

 そこに関しては、一万年前から、これだけの世界を人類は作り上げてきたことに対して、個人は責任を持たないといけないところまで来ている。それが通じない人類への苛立ちさは当然あります。

 なぜ、個人は、なぜ、意識を大きく持たないのか? 狭く狭く持って、日々を暮していけばいいのか? そうしたら、今まで人類は何のためにやってきたのか!

破壊のあとの創造

 過去の歴史から言うと、破壊のあとに創造があります。

 アイスボールアースの世界だけではなく、単に寒冷化するだけで、人間の脳は大きくなりました。何のために大きくしたのか。知恵を作って、生き延びるためという本能的なモノかもしれないけど、ある意味では、宇宙全体に対する責任を持っています。

孤独に対する愛の存在

 そのために孤独になってしまったことに対しては、フロム「愛するということは」では、愛でつないでいくということを述べている。個人をいかにコミュニティでつないでいくのか、そのために個人が何をすべきなのかというのがテーマです。

 フロムが元々、「自由からの逃走」を書いたうえで、「愛」を書いていることは忘れてはいかない。

タイムコードの元にいる

 何百万年、小さな群れの狩猟採集民族として暮らしていたのが、1万年まえに村落と農業で、人類は動き出した。このタイム・コードです。百万年と一万年、そして、今の一年という感覚。

個人の分化と組織の分化

 「次の世界へ」という第10章での核の部分は、個人の分化と組織の分化です。

 個人と組織のどちらが先なのか。メリットが上がるのは、組織の分化です。グーグルなどで、今、起きています。

人間は知識の部分で進化していない

 なぜ、こんなにも大量のことを習わないといけないのか。本来ならば、そういう知識を頭に中に直接、インプットしてくれればいいのに。知らないことがあまりにも多すぎる。これは、大いなる意思の責任です。

 いつまでも鍛えるつもりなのか。それよりももっと、動くべきものがあるでしょう。方向を示すのであれば、大いなる意思は明確に示すべきです。一つ一つの偶然を使いながら、気づくというのはしんどいのは確かです。

 存在するためのパラメーターを設定するのであれば、次の世界に向かうべきものは設定しておかないといけない。そういう意思がないのでしょうかね。

 あまりにも、程度の差がありすぎます。大いなる意思はやはり、選ばれたものとそうでないものとを分けることをしたいのでしょうか。

 一万年では、まだ、人類は中途半端なんでしょうね。進化する方向はいくらでもあるけど、このユニバースでは選んではおれないのでしょうね。次はマルチバースで変えていくことになるかもしれない。
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人が多くなれば、幸せになれるには

肋間神経痛にしました

 歩き出したら、すぐに胸が痛くなる。気の性でしょう。

 胸の痛みは肺炎だと思います。また、動けなくなることを想定しないといけないかもしれない。

 痛い場所を特定して、会社のナースに聞いたところ、肋間神経痛ということにしました。

環境社会はサファイア循環で対応

 環境社会のメインのルーチンはサファイアにありました。では、サファイアは何の意味を持つのか。

 ただ、仕事でのサファイア循環に比べると、深さは増して、多重になっています。人間をどう変えていくのか、国家をどのようにして、超国家に対応させるのか。人間のコミュニティの間のサファイア循環、国と超国家の間のサファイア循環、かなりが多重になります。そして、環境理念、環境哲学をどう表して、こどまで徹底させるのか。どう徹底させるかはその後です。

 これだけになってくると、それぞれの項目をどのようなシナリオにしていくのか。その時にシナリオはドンドン変わってきます。全員が主役になるシナリオ群です。

思考範囲が跳んでいる

 私の思考範囲が跳んでしまったということです。だから、社会を変えるぐらいは小さなことになってしまった。時間のスケールはかなり、延びました。137億年とは言わないけど。

孤独な人を民主主義はつけ込む

 孤独であると民主主義につけ込まれるというような、言い方をフロムはしていました。

 私の場合は、独我論からすると、孤独なのは確かです。だから、どうするのか。皆には、コミュニティに参画して、存在の力を発揮できるようにしていくというシナリオにしています。そんなこともあって、コミュニティが出てきたのです。孤独だということは変わらないけど、孤独でありながら、存在の力を発揮できるように考えたのです。

人が多くなれば、幸せになれるには

 人が多くなればなるほど、不幸せになる。これは人口問題が環境社会に与える影響を人の掛け算でやろうとするからです。

 例えば、移動コストを考えた時に、一人当りの移動コストを小さくすることを考えると、移動コスト×人数になります。単純なロジックがベースになっている。この論理から、人が本当に環境社会に貢献するならば、その人がいなくなることが答になります。これが極論ではなく、真実です。これが環境社会を考えた時の衝撃だった。

 集団活動して、全体で行動すればいいのか、それとも、多様な世界のところで、どういうカタチで、それぞれがカバーしあうのか。

 本来、なぜ移動したいのかということも重要な観点です。複雑な問題を複雑に解決していかないといけない。多分、そのために複雑性の考えが出てきたのと同時に、インターネットみたいに分化と統合の社会が出てきたのでしょう。

 インターネットは支配のための道具ではないです。下から上に上げていくことを考えると、それはムリです。むしろ、物事を複雑にして、複雑なところで、いかに解決していくかの道具です。多様性には自律性で対応させていきます。

 行政に関することなら、やる人と、それを支持する人と無関係な市民とを別にするのではなく、ゴチャゴチャにして、一番、ニーズを持った者が動けるようなカタチにする。そのためには、当然、システムを変えていかないといけない。そのシステムを変えるところには、今までは武器が渡っていなかったけど、武器が渡せるようになりました。
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カナダの移民増加策

『カナダ移民史』より 論争の激化 過去一〇年の展開

移民増加策の継続

 ジャン・クレチエン自由党政府が、マルルーニ政権時の移民受け入れ数の高水準を継続する意向を表明すると、やはり大きな論議を呼んだ。特に激しかったのは、一九九九年に、移民担当相エリナー・キャプランがカナダの年間移民受け入れ数を七〇八-セント引き上げる--当初の一九九九年の予定数一七万五〇〇〇人から三〇万人に--と発表した時だった。また、移民担当相デニス・コデールが、できるだけ早期に、カナダの人口三一四〇万の一パーセントまで年間受け入れ数を引き上げたいと発言した際にも、同様に激しい論争が起こった。

 エリナー・キャプランが発表した頃、彼女のお膝元であるトロント市の自治体当局は、毎年カナダに到来する移民の四ニパーセント以上を受け入れている都市として移民の適応サーヴィスにかかるコスト増にずっと悩まされていた。ヴァンク・ヴァーと同じように、トロントがさらに移民を受け入れていくとすれば、彼らの住居はどこにおけばよいのだろうか。すでに税負担の大きい学校制度、社会福祉機関、病院、第二言語としての英語教育に対して、さらにどれだけの負担を強いるというのだろうか。

移民増加策への批判

 大量の移民にともなう圧力に目を向けた批判者の中には、たとえば、なぜカナダが他の西洋諸国とくらべて国民一人当たりではるかに多くの移民を、しかも、公式の移民政策をもつ主要移民受け入れ国であるオーストラリアとアメリカ合衆国の二倍の移民を受け入れなければならないのか、疑問をいだく者がいた。それは、低出生率と高齢化のために、カナダがたくさんの新しい移民をどうしても必要としているからなのか。カナダの国内市場を拡大し、ビジネスの利益を上げるためなのか。あるいは、労働需要を増やし、それによって賃金を引き下げることでインフレを抑制したいと政府が考えているからなのか。

 政府の移民政策をたえず批判してきた批判者の一人であるダニエル・ストッフマンによれば、政府は、これらの問いに対して率直な回答を一度もしてこなかった。この著名なジャーナリストは、もし政府が、移民受け入れ数が多いのは人口統計上の理由からだとしたとしても、根拠が弱いだろうと指摘している。出生率の低下と平均寿命の上昇によって、中国を含むほとんどすべての国が高齢化しているのである。さらに、カナダが深刻な熟練労働者不足に直面しているというのは、どこに証拠があるのか。この事態に対して、世界じゅうでカナダだけが、高水準の移民受け入れ数を維持することで対応しなければならない理由について、いっさい説明がないと、ストッフマンは述べている。人口が増えれば、カナダのビジネスにとって国内市場が拡大するだろうが、カナダはスウェーデンと同様、常に外国への輸出に依存して生計を立ててきたと指摘していた。そして彼は、インフレ対応について、もし政府が労働需要を増やすことでインフレをおさえたいのであれば、それをはっきり認めるべきだと、主張したのであった。

 ストッフマンは、移民に反対しているわけではない。彼が問題とするのは、過剰な移民によって都市の基幹施設にマイナスの影響が出ていることを考えれば、なぜカナダが移民受け入れ数の引き上げを行なうべきなのかということにあった。

移民増加策がもたらす悪影響

 移民受け入れ数の多さがもたらす影響は、あまり気づかない所にも表れている。カナダヘの移民の約九〇パーセントが一〇大都市に定住するため、人口統計上の二つの孤独〔格差のある二つの社会〕が生まれているのである。トロント大学の地理学者で都市計画学者であるラリー・ボーンは、この変化を憂慮している。「六つの都市がきわめて多文化かつ多言語した地域と化し、とてつもなく活発だがサーヴィスの低下した都市になりつつある。その一方、カナダの他の地域は、いぜんとして同質的で、人口減少や高齢化が進んでいる」と。ボーンによれば、こうした傾向は、〈東-西〉や〈大都市-小都市〉の分裂よりもはるかに重大なのである。

 カナダ・ロイヤル銀行のエコノミストであるデリク・ホルトは、移民や年間移民目標に対して中道的な立場を示している。彼は、人口統計の数値が株価や住宅から政府の財政や成長率にいたるまでの将来の動向を示す信頼にたるものだという見方を批判する。他方で彼は、特に二〇歳代の教育を受けた者を増やすよう移民の対象を広げていけば、カナダは二〇二六年になっても二〇〇三年と同じ年齢構成を維持できると予想している。だがホルトは、この種の移民の数の引き上げを主張する一方で、彼らを経済に組み入れるためには、もっとたくさんの財源を振り向ける必要があると論じている。
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戦争は人間が受け継いできた呪いか

『人間はどこから来て、どこへ行くのか』より

「歴史は血の洗礼だ」とウィリアム・ジェイムズは書いた。彼が一九○六年に発表した反戦論は、このテーマで書かれたなかでも、おそらく最高の部類に入るだろう。「現代の戦争は非常に高くつく」とジェイムズは続ける。「だからわれわれは、略奪より交易のほうが良い手だてだと感じている。ところが現代の人間は、祖先の先天的な喧嘩好きの性質と名誉を欲する心とをすべて受け継いでいる。戦争の不合理さや恐怖を説いても、そんな人間には役に立たない。恐怖は魅惑をもたらす。戦争はしぶとい生き物だ。究極の生き物だ。戦争というのは、あらゆる国家の予算が示すとおり、人々が何のためらいもなしに支払う唯一の税金なのである」

われわれの血に飢えた本性が根っからのものである--いまや現代生物学を背景に論じられることもある--のは、グループ間の対立を主たる原動力としてわれわれは今のような存在になっているためだ。先史時代には、グループ選択が、縄張り意識をもつ肉食動物となったヒト科を団結の高みへ引き上げ、創造的才能と進取の気性をもたらした。そして「恐怖」をも。どの部族も、武装して備えていなければ存在そのものが危うくなることを、十分な根拠をもって知っていた。歴史を通して、大半のテクノロジーの向上は戦闘を主目的としていた。今日、さまざまな国のカレンダーには、戦勝を祝ったり戦没者を追悼したりする祝祭日が入っている。大衆の支持に最も火がつくのは、死闘をめぐる、扁桃体が主に司る感情に訴えたときだ。われわれは、海上への石油流出を止めるために戦い、インフレを抑えるために格闘し、ガンと闘う。どこに敵がいようが、相手が生き物であってもなくても、勝利が求められる。どれだけ大きな犠牲を払っても、戦場で勝たなければならないのだ。

本物の戦争に対しては、部族を守るために必要とされるかぎり、どんな口実も通用する。過去の恐怖の記憶があってもそれは役に立たない。一九九四年の四月から六月にかけて、ルワンダで多数派であるフツ族の殺戮者が、少数派のツチ族の皆殺しに乗り出した。当時その国は、このふたつの部族に支配されていたのである。一〇〇日間ナイフや銃で無差別に虐殺が繰り広げられた結果、死者は八○万人に達し、その大半はツチ族だった。ルワンダの総人口が一〇パーセントも減ったのである。ようやくやめさせられたとき、二〇〇万人のフツ族が報復を恐れて国から逃げ出した。大虐殺の直接の原因は政治や社会への不満だったが、どれも元をたどれば根本的な原因はひとつだった。ルワンダはアフリカで最高に人口密度の高い国だったのである。容赦なく増える人口に対し、ひとり当たりの耕地面積は限界まで減りつつあった。どちらの部族がすべてを所有し支配するかをめぐって、真剣な議論もおこなわれていた。

ツチ族は、かつてはフツ族を支配していた。ベルギーの入植者は、ツチ族をふたつの部族のうち優れたほうと見なし、それゆえ優遇した。もちろんツチ族も同じ考えを抱き、両部族とも同じ言語を話していながらフツ族を劣等者として扱った。一方フツ族の側は、ツチ族をずいぶん前にエチオピアからやってきた侵入者と考えていた。隣人を襲った者の多くは、自分たちの殺したツチ族の土地がもらえると約束されていた。彼らはツチ族の死体を川へ投げ込むとき、エチオピアに戻してやっているのだと言って嘲笑っていた。

いったんグループが引き裂かれてひどく人間性を奪われると、どんな蛮行も、程度がどうあれ、また犠牲になるグループのサイズが民族や国家に至るまでどうあれ、正当化できるようになる。ソヴィエトでスターリン政権下におこなわれた大粛清は、一九三二年から三三年にかけての冬に、三〇〇万人以上のウクライナ人の人為的な餓死をもたらした【訳注:強制的な集産主義の結果と言われる】。一九三七~三八年には、六八万一六九二人が「政治犯」とされて処刑され、その九〇パーセント以上は集産主義への抵抗者と見なされた農民だった。まもなくソヴィエトという連邦国家そのもので、残忍なナチスの侵攻によってそれに劣らぬ犠牲が出た。ナチスが公言した目的は、「劣等の」スラブ人を制圧して、人種的に「純血の」アーリア人が広まる余地を生み出すというものだった。
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