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ハイデガー 『存在と時間』で言いたかったこと

『齋藤孝のざっくり!西洋思想』より この世界に「ある」とはどういうことか ハイデガー・フッサール・メルロ=ポンティ

ニーチェが問いかけた「覚悟」の有無を、もう少し哲学らしい形で引き継いだのがハイデガー(1889~1976年)です。ハイデガーは、現象学を提唱したフッサール(1859~1938年)の弟子でもあるので、彼の思想にはフッサールの影響も見られます。

そんなハイデガーが言ったのは、われわれ人間が存在しているということは、ものがあるというのとはまったく違うことなんだという発見でした。

たとえば、テーブルやイスが「ある」というのと、われわれがいまここに生きて「存在している」というのは違う。つまり、ものがそこに「ある」という動詞と、人が存在していると言うときの「ある」という動詞には、違う意味合いがあると言うのです。

何か違うのか、その説明をするためには、そもそも人間というのはどのような存在なのか、ということに触れなければなりません。そのことについて述べたのが、ハイデガーの『存在と時間』という著書です。

この中でハイデガーは、多くの人は「非本来的な生き方」ばかりしている、と言っています。非本来的というのは、本当の生き方ではない、ということですが、もっとわかりやすく言えば、人生においてすべきことをしないで生きているということになるでしょう。

もしもハイデガーが私たちの生活を見たら、「テレビばかり見ていたり、おしゃべりばかりしていたり、ネットをやって、携帯をピチピチいじって、そんなに惰性的に人生を過ごしてよく平気でいられるね、そんなことで本当に生きていると言えるのか?」と、言うのではないかと思います。

でも、テレビを見たりおしゃべりをしたりするのは、無駄と言えば無駄かもしれませんが、それは楽しみでもあります。

それがなぜいけないのでしょう。

ハイデガーは、そこに「ごまかしがある」からだと言います。そして、何をごまかしているのかというと、自分が死ぬことだと言うのです。

グラグラした時間を過ごしている人は、いつまでもいまの状態のまま、みんなと長くいられると思っているかもしれませんが、人は必ず死ぬものです。しかも、死ぬときはたった一人で死ななければなりません。ハイデガーはこれについて「人は自分自身の死を死ぬしかない」という言い方をしますが、ごく簡単に言えば、人は生まれてくるときも一人なら、最期も一人で逝かなければならない、ということです。

人間は、自分にそうした孤独な死というものが必ず来ることを知っているのだから、それをおしゃべりで紛らわせて忘れてしまったことにしたり、目をそむけてしまうのは人間本来の生き方ではないと言います。

では、ハイデガーはどうしろと言うのでしょう。

ここで出てくるのがニーチェから受け継いだ「覚悟を持て」ということです。

人はどうせいつか死ぬのだから、それを先取りして、覚悟を持って、現在の生き方に充実感を持たせろ、とハイデガーは言います。これがハイデガーの言う「先駆的党悟」です。

当たり前のようですが、人間には過去があって現在があって、そしてたぶん未来もあります。未来がどこで終わるのかはわかりませんが、現在を積み重ねていくことで、未来は向こうから到来してきます。現在だと思っている瞬間が、次の瞬間には過去になり、また新しい未来がやってくるからです。

そう考えると、いまの自分というのは、過去と未来が波のように押し合っている、そのちょうど間に存在しているということになります。つまり、人間というのは、「時間」というものと切り離せない「時間的な存在」なのです。

ですから、最初の命題に戻ると、物があるのと、人間が存在するのでは、同じ「ある」でも何か違うのかというと、人間存在には過去と現在と未来という時間が含まれているということが違うのです。

このことに気がついたとき、ハイデガーはこれまでの思想に大きな欠点があったことにも気がつきます。それは、これまで多くの思想家が、人間とは何か、人間の本質とは何か、という問いを立ててさまざまな思想を提唱してきましたが、そこに「時間」という要素が含まれていないということです。

人間は時間的存在なのですから、それを考慮しない時間が止まったような思想では正しく人間存在をとらえることができるはずがありません。さらに、「人間とは」という一般的な問いでは、個人の内側にまで入ることもできません。

人間について考えるとき、この人はこうした生き方をしてきたから、現在こう考え、さらにこうした未来を選び取りたいと思っているというところまで見ていかなければ、現実に存在している人間というものを本当にとらえきることはできないはずだ、と考えたのです。こうしてハイデガーは、「時間」という要素を哲学に取り入れたのです。
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緊張感を維持する

悩みの原因

 このところに鬱の状態の原因は、自分の写真です。自分の写真があまりにもイメージと違い、悲惨です。ああいう風に見えている。見えていることを自覚している自分。それが嫌でしょうがない。その反射も含めて、人を見かけで見てしまう。

 その裏側の行動とか考えが見えてしまう、私にとっては、心理的にプレッシャーになります。

緊張感を維持する

 食べないことに徹しないと。3日ぐらい、食べなくても大丈夫だけど。人間は退屈だから、食べるのでしょうね。

 一台目のキンドルは、常に、未唯空間を表しておきます。その中で何を求めるのかのキッカケです。だから、いつでも出せるようにします。今日はバックの中に入れておきます。

 今月中は赤いトートバックにします。これに本と三台のキンドルを持って、役割分担させます。

システム設計は簡単

 システム設計というのは簡単です。出来た時の空間をイメージすればいいから。答えがあって、そこに持って行くだけです。その答えの空間をどう作るかが問題であって、作り方は行く様にもあります。

 それを研究開発部署で、充分やりました。作り出したイメージを持っていれば、百人には百人のシステムができることを実証しました。そのためには、何を選んだらいいのかということと、パートナーだけです。

 理念とミッションで作ってきました。もう一つ大きいのは、それぞれの人がどう考えるかです。これがないと、作っただけではどうしようもないです。使う人が自分でどう加工して、どういう仕事の仕方をしていくのか。

 幸いにも、そのヒントは茶道にありました。茶道のカタチは一緒だけど、受ける人によって、内容が変わるし、深さが違います。これを活用すれば、それぞれに合ったシステムができる。

数学に向かって、よかった

 哲学に向かったら、存在自体を考えていたけど、数学に向かったから、存在と無をどのように、空間化することを考えていた。

 トポロジーに会って、一点の中核と無数の周辺をつなぎ合わせることで、トーラスができました。これは集中と無限の拡散との関係を表現したものです。存在と無が同時にあるという世界を表現しました。

 生きているから感じるということの説明は地球原理的です。小さな個人が持つ感覚をいかに説明しようとするモノとの関係です。マルチバースみたいなものです。この空間をどう見ていくかは、どう見ても、後付けです。存在と無でいいじゃないですか。

 哲学でなく、数学に行って、トポロジーに会ったのは正解かもしれない。全体の空間における、点と近傍系で、近傍系をどう作るかと存在とが絡んできます。無は宇宙からの見方です。どんな遠いところからでも、連続性がその時だけ、保証されれば、近傍になります。
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ポータル検討

一人芝居の世界

 一人芝居は止めましょう。一人しかいないから、恰好つけてもしょうがない。では、どうしよう。自分が自分を見ているものが鬱陶しくなっています。自分を見ているものを、心から外しましょう。外からの目線をなくすには、自分から外へ行く目線をなくさないと。

 こう話していても、自分を見ている、自分の声を聞いている、もう一人の自分が格好つけるなと言っています。

 池田晶子さんの「考える日々」にしても、本にして、言葉にした途端に、下界からの攻撃を受けます。考えている分には最強だけど、一旦、出してしまうと、哲学者としての恰好をつかないといけないから、弱くなります。中学生に戻って、考えている自分にとって見たら、そんなことは関係ない。

ポータル検討は外なる世界

 ポータルの設計は、外なる世界として、動きましょう。それ以外の考えることことは内なる世界だから、閉じこもって、言葉にします。

 本の世界をどうするのかです。人の意見をどうやって聞いていくのか。一万分の一ぐらいしか使わないけど、自分の中の考えるキッカケになっているのは確かです。

 だから、内なる世界と外なる世界とをもっと分けないといけない。三猿にしてから、それを強烈に感じています。

 本当に、遮断しないといけない。一日のうち、会議の時だけは外なる世界にします。あの時は集中的に考えて、外に向けていきます。

 それにしても、ポータルの進め方はひどいものです。全然、思いがつながっていない。毎回、本音で言っているけど、相手がそれに応えられるようなカタチではない。網羅してやるのではなく、個別のことに絞り込んでいる。というよりも、どういう考えでやっていくのか、どういう理念になっていくのか。

 クラウドを使うとは、そういうことでしょう。SFDCが見えてこない。あの営業では、とてもじゃないけど、相手にできない。それを説得してもらえると思った、重役は途中で砕けています。だらしないことに。

 サファイア循環の構成をチャターでどういう表現するのか、人に言っていてもしょうがない。こういう時に、パートナーが居ないのは堪えます。まともに反論できる人間が居ないと、自分の中で熟成して、伝えてくれる人間が居ない。私にとってのインタープリターです。

戻る地点をフェースブックに上げた

 戻る地点は中学生。この一言だけをフェースブックに上げました。何も期待していないけど。

 豊南中学校から聖心町まで、自転車で通っていた。中学の途中に、親が引っ越したからしょうがないけど。自転車に乗りながら、考えていた。特に帰りの時、坂道を自転車で登っていた。周りは街灯があるが、暗かった。存在しなくなることの恐怖を味わいさせられた。あれは、決して、言葉にできるものではない。全てが無になること。

 それから、存在と無が始まった。絶対的な孤独という言葉を使っていた。あれから、50年です。その間、何をやってきたのか何をやらなかったのか。

 中学生の頃のそういう思いは誰にでもあるものです。それを忘れるのが大人ということらしいです。

 そして、死ぬ間際にフラッシュバックするのでしょう。それでは、何のために生きてきたのか分からないでしょう。見ていくしかないでしょう。その絶対的な孤独を見ていくしかないでしょう。

 今の言葉で言うと、この世界に放り込まれたことに気付いたということなんでしょうね。なぜ、そういう事態になったのかを、当時は理解しようがなかった。なくなることへの恐怖、存在しないことになることへの恐れ。そして、存在していることの意味。

 風呂場で、それが起こると、狭いだけに持って行き場がなくて、泣き叫んでいた、その記憶だけあります。何しろ、自分は自分しかいない。なくなる世界はどうなるのか。言葉ではなく、感覚です。

 中学生の時に戻ると、この世界の全ての権威はなくなります。存在として、対等ではない。私の存在が絶対的なモノです。他人の死のようにはいかないでしょう。父親の死も、母親の死も客観的だった。世界は変わらなかった。
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