スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

残された課題&一致と相違

2024-02-10 19:52:34 | 哲学
 第四部定理六五でいわれていることは,善bonumや悪malumが同じ条件で認識されているのなら,理性ratioの導きに従っていようといまいと同じように現実的に存在する人間に妥当します。ですからこの定理Propositioを受けている第四部定理六六にも同じように妥当します。ではなぜこれらの定理で理性に従う限りという条件が付せられているのかといえば,善や悪の大きさが,時間的条件を付せられると,理性に従っていない場合には同じ条件であることができないからです。このことは『エチカ』では様ざまな仕方で説明されているのですが,ここでは一例として第四部定理一六をあげておきましょう。この定理から,現実的に存在する人間は,より大なる未来の悪を排除するより小なる現在の善を選択してしまうことがあるということは明らかだからです。あるいは,第四部序言はこの比較から善悪を規定しているのですから,善よりも悪を選択してしまうことがあるということが明からといえるからです。ただ,第二部定理四四系二によれば,理性はものを永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereという本性naturaを有しますから,未来の善も現在の善も同じように永遠の相の下に認識します。つまり同じ条件の下に認識します。ですから現在の小なる善よりも,それによって排除されてしまう未来の大なる善の方を選択するのです。
                                   
 このことが,悪の確知が十全な認識cognitioであり得るということを意味するのは明白です。この場合は,より大なる善もより小なる善も,理性によって十全に認識されているからです。このことから理解できるように,もしも理性がより小なる悪とより大なる悪を十全に認識する限りでは,より小なる悪の方を選択するということがいえることになるのです。ところが『エチカ』は,そのことを否定しているようにみえるのです。なぜなら第四部定理六四は,悪の認識は混乱した認識であるといっているので,より小なる悪やより大なる悪を理性が十全に認識するということはないということを意味しているように思えるからです。つまり,第四部定理六四は,第四部定理六五や第四部定理六六を,部分的に否定しているといえるのではないでしょうか。これを論理的にどう整合性をつけるべきなのかという課題が残されていることになります。

 スピノザの哲学でいわれていることを利用すれば,デカルトRené Descartesが我思うゆえに我ありcogito, ergo sumというときの我が,自分の身体corpusについて何も意味することができず,自分の精神mensについてのみ妥当することは容易に理解することができると思います。
 なお,自分の身体が現実的に存在するということを疑い得るということについては,スピノザも同意することができます。なぜなら,スピノザは第二部定理一九の様式だけによって現実的に存在する人間は自分の身体を認識するcognoscereといっていますが,そのようにした認識される自分の身体の観念ideaは,第二部定理二七にあるように,混乱した観念idea inadaequataであるからです。疑い得るということが何を意味するのかという点に関しては,デカルトとスピノザとの間で相違があるのですが,スピノザは混乱した観念に関してはそれを疑い得ることを認めますので,この点だけはスピノザもデカルトに同意することはできるのです。
 ただし,デカルトが疑い得ないと認めた,自分の精神が存在するということに関しては,スピノザはそれに同意しません。つまりこれについても疑い得るというのがスピノザの結論です。このことは,現実的に存在する人間が自分の精神が存在するということを認識するのは第二部定理二三の様式を通してのみですが,この様式で認識される自分の精神の観念は,第二部定理二九により,やはり混乱した観念であるからです。したがってそれは自分の身体の観念が混乱した観念であるがゆえに疑い得るというのと同じ理由で,疑い得る観念であることになります。ただこれは後に示すように,疑い得るということがどういうことであるのかということに関して,スピノザが独自の考えをもっていることに起因しますので,単にスピノザとデカルトの間には,結論の相違があると理解しておく方が安全です。
 デカルトは最終結論として,疑っている自分の精神が存在するということは疑い得ないのであって,それは絶対的に正しいとしたのでした。この結論に関してさらに注意しておかなければならないのは,精神が存在するというときの存在するということの意味は,たとえば身体が存在するといわれる場合と同一であるということです。
コメント
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