スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

雲取賞&観念とその観念

2024-02-14 19:02:28 | 地方競馬
 第6回雲取賞
 アマンテビアンコは発馬直後に躓いて1馬身の不利。前にいったのはブルーサン,イーグルノワール,サントノーレの3頭で,枠なりにブルーサンの逃げとなり2馬身ほどのリード。イーグルノワールが2番手。3番手はギガースとサントノーレで併走となり,5番手にトーセンヴィオラで巻き返してきたアマンテビアンコは6番手。その後ろはクルマトラサンとピコニで併走。ライゾマティクスが単独で続きその後ろはローリエフレイバーとウルトラノホシとイモノソーダワリの3頭。マオノアンコールを挟んでボクノオクリモノとマイケルマキシマスとフロインフォッサルの3頭が最後尾で併走という隊列で最初のコーナーを通過。最初の800mは50秒1のミドルペース。
 向正面で逃げたブルーサンのリードが一旦は広がりましたが,3コーナーではイーグルノワールとサントノーレが追い付いてきて3頭の雁行。4馬身ほど離れた4番手にアマンテビアンコ。直線に入ると逃げたブルーサンが再びイーグルノワールとサントノーレとの差を広げて抜け出し,そのまま鋭く逃げ切って優勝。激しく競り合うイーグルノワールとサントノーレの内に進路を取ったアマンテビアンコがじわじわと差を詰めていって差し切り,2馬身差の2着。競り勝ったサントノーレが1馬身4分の3差の3着でイーグルノワールが4分の3馬身差で4着。
 優勝したブルーサンは重賞初挑戦での優勝。このレースはすでに重賞で実績を残しているイーグルノワールと,3戦2勝のアマンテビアンコの強力な2頭にほかの馬がどこまで食い下がれるかというレース。ブルーサンは前走を勝って2勝をあげているとはいえ,初勝利にも2勝目にも時間を要していましたので,2着に食い込むケースはあっても勝つまでは難しいのではないかと考えていましたので,僕としては意外な優勝でした。それほど厳しくないペースで逃げることができたということが勝因になったような気はしますので,枠順が違っていれば違った結果が生じたかもしれません。なので着差ほどの能力差があるわけではないのだろうと思います。父は2016年の根岸ステークスとフェブラリーステークスを勝ったモーニン。母の父がステイゴールドで祖母の父がクロフネビューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。母の5つ下の半弟に2021年の東京スプリントクラスターカップ,2023年の東京スプリントを勝っている現役のリュウノユキナ
 重賞になったのは今年から。和田竜二騎手と川村禎彦調教師は雲取賞初勝利。

 現実的に存在するAの知性intellectusとは,Aの知性の本性essentiaによって説明される限りでの神Deusです。このとき,Xの観念ideaがAの知性の本性を構成する限りで神のうちにあるのであれば,第二部定理七系の意味によって,神のうちにある観念は十全な観念idea adaequataですから,この限りでXの観念は十全な観念であるということになります。つまり現実的に存在するAの知性のうちにXの十全な観念があるということです。対して,Aの知性の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合は,その限りでXの観念は神のうちで十全な観念であることになります。したがって,この場合もAの知性のうちにはXの観念があることにはなるのですが,Aの知性の本性だけでは説明することができない観念がAの知性のうちにあるということになるので,Aの知性のうちにXの観念があるという観点からみれば,それは混乱した観念idea inadaequataです。要するにAの知性のうちにXの混乱した観念があるということです。実際はこの説明は,第二部定理一二を説明する場合にやや適切さを欠く面があって,もう少し深く探求するべき問題を抱えていると僕は考えていますが,ここではそこまで追求する必要がないので,この説明で済ませます。僕が正しいと考えている説明については第二部定理一二に関係する考察を参照して下さい。
                                  
 第二部定理二〇によれば,現実的に存在する人間の精神mens humanaの観念もまた神のうちにあります。そしてその観念は,その人間の身体humanum corpusの観念,これは第二部定理一三によって,その人間の精神それ自体のことですが,その精神が神に帰せられるのと同様に神に帰せられることになります。すなわち,上述の例で示したXの観念は,観念対象ideatumのXが,物体corpusであろうと思惟の様態cogitandi modiであろうと同様に神に帰せられるのです。よってXの観念の観念idea ideaeというのが神のうちにはあるのであって,それがAの知性の本性によって説明される限りで神のうちにあるのであれば,それはAの知性のうちで十全な観念であり,Aの知性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神に帰せられるのであれば,Aの知性のうちでは混乱した観念であるということになります。
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