スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第6回雲取賞 。
アマンテビアンコは発馬直後に躓いて1馬身の不利。前にいったのはブルーサン,イーグルノワール,サントノーレの3頭で,枠なりにブルーサンの逃げとなり2馬身ほどのリード。イーグルノワールが2番手。3番手はギガースとサントノーレで併走となり,5番手にトーセンヴィオラで巻き返してきたアマンテビアンコは6番手。その後ろはクルマトラサンとピコニで併走。ライゾマティクスが単独で続きその後ろはローリエフレイバーとウルトラノホシとイモノソーダワリの3頭。マオノアンコールを挟んでボクノオクリモノとマイケルマキシマスとフロインフォッサルの3頭が最後尾で併走という隊列で最初のコーナーを通過。最初の800mは50秒1のミドルペース。
向正面で逃げたブルーサンのリードが一旦は広がりましたが,3コーナーではイーグルノワールとサントノーレが追い付いてきて3頭の雁行。4馬身ほど離れた4番手にアマンテビアンコ。直線に入ると逃げたブルーサンが再びイーグルノワールとサントノーレとの差を広げて抜け出し,そのまま鋭く逃げ切って優勝。激しく競り合うイーグルノワールとサントノーレの内に進路を取ったアマンテビアンコがじわじわと差を詰めていって差し切り,2馬身差の2着。競り勝ったサントノーレが1馬身4分の3差の3着でイーグルノワールが4分の3馬身差で4着。
優勝したブルーサン は重賞初挑戦での優勝。このレースはすでに重賞で実績を残しているイーグルノワールと,3戦2勝のアマンテビアンコの強力な2頭にほかの馬がどこまで食い下がれるかというレース。ブルーサンは前走を勝って2勝をあげているとはいえ,初勝利にも2勝目にも時間を要していましたので,2着に食い込むケースはあっても勝つまでは難しいのではないかと考えていましたので,僕としては意外な優勝でした。それほど厳しくないペースで逃げることができたということが勝因になったような気はしますので,枠順が違っていれば違った結果が生じたかもしれません。なので着差ほどの能力差があるわけではないのだろうと思います。父は2016年の根岸ステークスとフェブラリーステークス を勝ったモーニン 。母の父がステイゴールド で祖母の父がクロフネ 。ビューチフルドリーマー 系ワールドハヤブサ の分枝。母の5つ下の半弟に2021年の東京スプリント とクラスターカップ ,2023年の東京スプリント を勝っている現役のリュウノユキナ 。
重賞になったのは今年から。和田竜二騎手と川村禎彦調教師は雲取賞初勝利。
現実的に存在するAの知性 intellectusとは,Aの知性の本性 essentiaによって説明される限りでの神Deusです。このとき,Xの観念ideaがAの知性の本性を構成する限りで神のうちにあるのであれば,第二部定理七系の意味 によって,神のうちにある観念は十全な観念 idea adaequataですから,この限りでXの観念は十全な観念であるということになります。つまり現実的に存在するAの知性のうちにXの十全な観念があるということです。対して,Aの知性の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合は,その限りでXの観念は神のうちで十全な観念であることになります。したがって,この場合もAの知性のうちにはXの観念があることにはなるのですが,Aの知性の本性だけでは説明することができない観念がAの知性のうちにあるということになるので,Aの知性のうちにXの観念があるという観点からみれば,それは混乱した観念idea inadaequataです。要するにAの知性のうちにXの混乱した観念があるということです。実際はこの説明は,第二部定理一二 を説明する場合にやや適切さを欠く面があって,もう少し深く探求するべき問題を抱えていると僕は考えていますが,ここではそこまで追求する必要がないので,この説明で済ませます。僕が正しいと考えている説明については第二部定理一二に関係する考察を参照して下さい。
第二部定理二〇 によれば,現実的に存在する人間の精神 mens humanaの観念もまた神のうちにあります。そしてその観念は,その人間の身体humanum corpusの観念,これは第二部定理一三 によって,その人間の精神それ自体のことですが,その精神が神に帰せられるのと同様に神に帰せられることになります。すなわち,上述の例で示したXの観念は,観念対象ideatumのXが,物体corpusであろうと思惟の様態cogitandi modiであろうと同様に神に帰せられるのです。よってXの観念の観念idea ideaeというのが神のうちにはあるのであって,それがAの知性の本性によって説明される限りで神のうちにあるのであれば,それはAの知性のうちで十全な観念であり,Aの知性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神に帰せられるのであれば,Aの知性のうちでは混乱した観念であるということになります。
岐阜競輪場 で争われた昨日の第39回全日本選抜競輪の決勝 。並びは新山に浅井,北井‐郡司‐松谷の神奈川,古性‐南の大阪,清水‐山田の西国。
スタートは取り合いになりましたが,古性が誘導の後ろに入って前受け。3番手に清水,5番手に新山,7番手に北井で周回。残り3周のバックの出口から北井が上昇開始。それを清水が牽制し,ホームで古性を叩いて前に。その後で北井が巻き返していき,神奈川の3人で清水を叩きました。このまま打鐘を迎えて新山が発進。ホームで北井を叩いて先行になったのですが,タイミングが合わなかった浅井は郡司の牽制などもあって離れてしまい,新山の後ろに北井となりました。北井はバックから新山を抜きに行きましたが,そこから新山が頑張って競り合い。最終コーナーで何とか北井が前に出たところ,松谷の後ろから動いた清水が迫ってきました。北井マークの郡司は北井が先頭に出ると外から抜きにいき,捲り追い込みの清水と優勝争い。一旦は清水が前に出たように見えたのですが,内から差し返した郡司が優勝。清水が半車輪差で2着。北井が4分の3車輪差で3着。浅井の後退で最終周回でもつれたところ,清水を追う形になった古性がタイヤ差で4着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は川崎記念 以来の優勝。ビッグは一昨年9月の共同通信社杯 以来の6勝目。GⅠは2021年の全日本選抜競輪 以来の3勝目。全日本選抜競輪は3年ぶりの2勝目。岐阜では2020年9月に記念競輪 を優勝しています。このレースは清水の近況が絶好調だったのですが,北井という強力な援軍がいましたので,郡司が優勝の最有力候補だろうと考えていました。北井は抑えて先行するより突っ張って先行する方が持ち味が生きる選手ですが,車番の関係で前受けができそうもない点は不安でしたが,すんなり抑えることができ,清水が飛びつかずに引いたのでその点は大きく影響しませんでした。それでも新山に叩かれてしまったのは,やはり突っ張り先行ではなかったからではないでしょうか。北井が新山を抜くのに苦労した分だけ好調な清水が迫りましたが,何とか郡司が凌いだというレースだったと思います。
デカルト René Descartesは絶対的に正しいことは何かということから思索を開始しました。そして絶対的に正しいこととは,自分が疑うことができないことであると見定め,そのために方法論的懐疑 doute méthodiqueを採用したのです。しかしスピノザはこの種の問いに対して,絶対的に正しいことは何かという問いを拒否します。そうではなくて,知性intellectusのうちに何らかの観念ideaがあるとき,その観念が正しいということ,すなわちその観念が十全な観念idea adaequataであるということを知るとはどういうことか,あるいはそれが十全な観念であるということをいかにして知るのかという問いに変更します。つまり,知性にとってある観念が確実に十全であると知るとはどういうことであり,またそれをいかにして知るのかというような問いから思索が開始されるのです。このスピノザの観点をここでは確実性certitudoの観点ということにします。方法論的懐疑が,とにかく疑い得ない観念を探求していくのに対し,スピノザはそのような観念自体を探求していくのではなく,知性がその観念に対して確実であるとはどういうことであり,そのための必要条件は何かということを探求していくのです。
最初にスピノザの解答だけをいっておくと,これは実にシンプルなものです。それは,たとえば現実的にAという人間が存在していて,そのAの知性のうちにXの十全な観念があると仮定すれば,AはそのXの観念が十全な観念であるということを知ることができさえすれば,AはXについて確実であることができるというものです。だから,問いに答えるために必要とされるのは,このXの観念が十全な観念であるかということを,Aがいかにして知るのかということだけです。
これについてはスピノザは独自の解答を出します。独自のというのは,この解答というのはスピノザに独自の理論である平行論に依拠したものだからです。これは以前にも考察した事柄ではありますが,ここではもっと基礎的な部分から詳しくみていくことにします。
まず,スピノザは現実的に存在する知性というのを,第二部定理一一系 にあるように,神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiであると解します。なのでAの知性とは,Aの知性の本性 essentiaによって説明される神です。
第51回佐賀記念 。ブレイブアモーレは石川慎将騎手から石川倭騎手に変更。
マンダリンヒーローが一旦は先頭に立ったのですが,押し上げていったメイショウフンジンが発馬後の3コーナーまでに前に出ました。2番手がキリンジで3番手にケイアイパープル。その後ろのマンダリンヒーロー,グランブリッジ,ノットゥルノまでの6頭は集団。6馬身くらい離れてヒストリーメイカー。8番手にファルコンウィング。2馬身差でエイシンビジョンとタガノファジョーロ。4馬身差でマイネルナイペス。最後尾にブレイブアモーレ。ミドルペースでした。
2周目の3コーナーでは逃げたメイショウフンジンとキリンジとノットゥルノが雁行。一番外を回ったノットゥルノがコーナー途中で捲り切り,単独の先頭で直線へ。そのまま後続の追い上げを許さず快勝。メイショウフンジンとその内を回ったグランブリッジ,一旦は後退したものの巻き返してきたキリンジの3頭で2着争い。大外のキリンジが4馬身差で2着。メイショウフンジンがクビ差の3着でグランブリッジは半馬身差で4着。
優勝したノットゥルノ は一昨年のジャパンダートダービー 以来の勝利で重賞2勝目。ここでは間違いなく能力上位だったのですが,この馬は大井競馬場で走るときとそれ以外の競馬場で走るときの落差が大きく,その点を心配していました。ただ成績を見直してみると,左回りの競馬場での出走が多く,それが苦手なのかもしれません。小回りの競馬場で結果を出したことは収穫だと思いますが.左回りは割引になるのかもしれません。父はハーツクライ 。Notturnoはイタリア語で夜想曲。
騎乗した武豊騎手 は第27回,30回,34回 ,37回 ,38回 に続き13年ぶりの佐賀記念6勝目。管理している音無秀孝調教師は佐賀記念初勝利。
僕たちがイメージするような仕方で我思うゆえに我ありcogito, ergo sumという命題を解してしまうと,僕たちは大きな間違いを犯すことになってしまいます。デカルト René Descartesは自分の身体corpusがあるということについては疑いdubitatioを有しているのであって,自分の精神mensがあるということについてのみ,疑いを有することができない絶対的に正しいことだといっているからです。一方で,この精神があるという場合のあるという意味は,僕たちが通常の場合に身体があるというときに,あるということで意味しようとすることと同じです。つまり僕たちは僕たちの身体が実在的有entia realiaであるということについてはイメージしやすいのですが,僕たちの精神がそれと同様の実在的有であるとイメージはほぼしません。デカルトはデカルトの精神が実在的有であるということを主張したいのです。
このことはスピノザの哲学を理解する場合も注意しなければならない点ではあります。ただ,デカルトの哲学を理解するためになお重要であるといわなければなりません。というのは,スピノザは第二部定理一三系 にあるような仕方で,人間の身体humanum corpusが実在的有であるということを曲がりなりにも肯定しています。ところが我思うゆえに我ありというテーゼは,精神が実在的有であるということについては肯定していますが,身体が実在的有であるということについては肯定していない,全面的に否定しているとまではいえないにしても,少なくともそのことに疑いを有し得るといっているのだからです。このことはスピノザが平行論を導入していることと関係しています。平行論というのは,唯物論でも観念論でもなく平行論であるということをひとつの意味として有すると僕は考えていますが,平行論は唯物論との融和性が,デカルトのような思想と比較した場合には高くなっているのです。
これでデカルトのテーゼをスピノザがどのように理解し,それを理解する場合にどのような注意が必要とされているのかということは探求することができました。なので約束しておいた通り,このことの関連事項として,スピノザからみたときの方法論的懐疑doute méthodiqueの妥当性の考察に移ります。これは『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』にも示されています。
有楽町朝日ホール で指された昨日の第17回朝日杯将棋オープン の決勝。対戦成績は藤井聡太朝日杯選手権者が15勝,永瀬拓矢九段が6勝。千日手が二局あります。
振駒で先手になった永瀬拓矢九段の矢倉。後手の藤井朝日杯選手権者は中住いに構えました。先手の研究が深かったようで,ずっと互角の形成が続いたものの,消費時間には大きな差がつく展開に。
ここで後手は☖5四馬と引きました。この将棋に敗着があったとすればたぶんこの手で,ここは☖6三歩と打った方が均衡を保てました。しかしここからの先手の手順がうまかったといった方がいいのではないでしょうか、
☗6五歩と打つのは手筋の一着。☖同金に☗6六歩と打ちました。
ここで☖6四金と引くのが最善とAIは示していましたが,ここで金を引くくらいなら第1図で☖5四馬とは引きません。☖7六金と進出して攻め合いを目指すのは僕には当然と思えます。
これに対しては受けが必要なので☗6五銀。そこで☖4五馬と桂馬を取るのが後手の狙いの一手。おそらく☗7六銀☖1八馬☗同香で飛車を取って一勝負というのが後手の読みだったと思うのですが,先手は金は取らずに☗1五竜と逃げました。これが好手。何とか攻めを続けなければならない後手は☖4八銀不成としましたが☗6四桂の王手が厳しく先手の勝勢となりました。
永瀬九段が優勝。2012年の新人王戦 以来となる3度目の棋戦優勝。朝日杯将棋オープンは初優勝です。
このこともスピノザの哲学を利用して説明しておきましょう。
スピノザは第二部定理四三備考 で,観念はキャンバスに描かれた絵画のように無言mutumのものではないという主旨のことをいっています。このことにはふたつの意味 があります。ひとつは,観念ideaというのはその対象ideatum,備考Scholiumの比喩でいえば描かれる絵画の対象がなくても存在し得るということです。これは絵画で説明するよりも,おそらく写真で説明する方が分かりやすいでしょう。スピノザがいっているのは,観念というのは何かを撮影した写真のようなものではないということなのであって,写真というのは必ず撮影の対象を必要とするのに対し,観念はそれが存在するために観念対象を必要とするわけではないということです。
もうひとつは観念は無言ではないということです。無言ではないといってもそれが話をするという意味ではありません。ある観念は別の観念を発生させるというような意味です。1枚の写真が別の写真を発生させるということはなく,写真というのは1枚1枚それぞれ別個に撮影されるのでなければなりません。観念はそのようなものではなく,ひとつの観念は別の観念と因果関係で結ばれているのであり,ある写真と別の写真との間には存在し得ないようなある関係があるということです。
デカルト René Descartesが自分の精神mensが存在するというときには,こうしたことが前提されていると解しておく必要があります。つまりデカルトは,自分の精神というのが存在するために自分の身体corpus,もっともこれもスピノザの考え方で,スピノザによれば第二部定理一三 により,現実的に存在するある人間の精神humanam Mentemの観念対象はその人間の身体であるとされていますが,デカルトがそれを認めるかどうかは別に,デカルトの精神が存在するためにデカルトの身体が存在することは不要であると考えているのは確かなのです。そして同時に,すべてのことを疑っている自分の精神というものが,対象を撮影した写真のようなものではなく,自律的に独自の思惟作用を展開する思惟の様態cogitandi modiであるとも考えているのです。
僕たちは〇〇があるというとき,何らかの物体corpusが存在するというイメージでそれを解釈しがちです。
第四部定理六五 でいわれていることは,善bonumや悪malumが同じ条件で認識されているのなら,理性ratioの導きに従っていようといまいと同じように現実的に存在する人間に妥当します。ですからこの定理Propositioを受けている第四部定理六六 にも同じように妥当します。ではなぜこれらの定理で理性に従う限りという条件が付せられているのかといえば,善や悪の大きさが,時間的条件を付せられると,理性に従っていない場合には同じ条件であることができないからです。このことは『エチカ』では様ざまな仕方で説明されているのですが,ここでは一例として第四部定理一六 をあげておきましょう。この定理から,現実的に存在する人間は,より大なる未来の悪を排除するより小なる現在の善を選択してしまうことがあるということは明らかだからです。あるいは,第四部序言 はこの比較から善悪 を規定しているのですから,善よりも悪を選択してしまうことがあるということが明からといえるからです。ただ,第二部定理四四系二 によれば,理性はものを永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereという本性naturaを有しますから,未来の善も現在の善も同じように永遠の相の下に認識します。つまり同じ条件の下に認識します。ですから現在の小なる善よりも,それによって排除されてしまう未来の大なる善の方を選択するのです。
このことが,悪の確知 が十全な認識 cognitioであり得るということを意味するのは明白です。この場合は,より大なる善もより小なる善も,理性によって十全に認識されているからです。このことから理解できるように,もしも理性がより小なる悪とより大なる悪を十全に認識する限りでは,より小なる悪の方を選択するということがいえることになるのです。ところが『エチカ』は,そのことを否定しているようにみえるのです。なぜなら第四部定理六四 は,悪の認識は混乱した認識であるといっているので,より小なる悪やより大なる悪を理性が十全に認識するということはないということを意味しているように思えるからです。つまり,第四部定理六四は,第四部定理六五や第四部定理六六を,部分的に否定しているといえるのではないでしょうか。これを論理的にどう整合性をつけるべきなのかという課題が残されていることになります。
スピノザの哲学でいわれていることを利用すれば,デカルト René Descartesが我思うゆえに我あり cogito, ergo sumというときの我が,自分の身体corpusについて何も意味することができず,自分の精神mensについてのみ妥当することは容易に理解することができると思います。
なお,自分の身体が現実的に存在するということを疑い得るということについては,スピノザも同意することができます。なぜなら,スピノザは第二部定理一九 の様式だけによって現実的に存在する人間は自分の身体を認識するcognoscereといっていますが,そのようにした認識される自分の身体の観念ideaは,第二部定理二七 にあるように,混乱した観念idea inadaequataであるからです。疑い得るということが何を意味するのかという点に関しては,デカルトとスピノザとの間で相違があるのですが,スピノザは混乱した観念に関してはそれを疑い得ることを認めますので,この点だけはスピノザもデカルトに同意することはできるのです。
ただし,デカルトが疑い得ないと認めた,自分の精神が存在するということに関しては,スピノザはそれに同意しません。つまりこれについても疑い得るというのがスピノザの結論です。このことは,現実的に存在する人間が自分の精神が存在するということを認識するのは第二部定理二三 の様式を通してのみですが,この様式で認識される自分の精神の観念は,第二部定理二九 により,やはり混乱した観念であるからです。したがってそれは自分の身体の観念が混乱した観念であるがゆえに疑い得るというのと同じ理由で,疑い得る観念であることになります。ただこれは後に示すように,疑い得るということがどういうことであるのかということに関して,スピノザが独自の考えをもっていることに起因しますので,単にスピノザとデカルトの間には,結論の相違があると理解しておく方が安全です。
デカルトは最終結論として,疑っている自分の精神が存在するということは疑い得ないのであって,それは絶対的に正しいとしたのでした。この結論に関してさらに注意しておかなければならないのは,精神が存在するというときの存在するということの意味は,たとえば身体が存在するといわれる場合と同一であるということです。
一昨日と昨日,立川で指された第73期王将戦 七番勝負第四局。
藤井聡太王将の先手で後手の菅井竜也八段の角道オープン三間飛車。先手がすぐに角を交換して互いに馬を作り合う乱戦 から,長い中盤戦に移行。この中盤戦でリードを広げていった先手が一方的に押し切って勝つという内容になりました。ポイントとなっていると感じられたのは僕にはふたつありました。
第1図から☖8二玉☗4七銀 ☖5四歩と進んでいます。
☖5四歩のところで☖4七同馬か☖4七同飛成で二枚換えに進めば後手がよさそうなのですが,この局面は1六の馬が睨んでいる6一の金のヒモが1枚になっている関係で,どちらも成立しないようです。これが成立しないのは後手にとってはマイナス。なので第1図では別の得になる手,たとえば☖9四歩とか☖3二銀とか☖1四歩のような手を指せば☗4七銀はなく,実戦とは別の将棋になったでしょう。
もうひとつが封じ手のところ。
第2図からは☖4八飛成 ☗同金☖3二金と進んでいます。飛車交換をしたところは後手が手番なので本来であればそれを生かして何か攻めていきたいところ。そういう手がなく金を引いて相手に手番を渡しているのでは,すでに後手が苦しそうです。つまり第2図の局面ですでに先手よしの局面になっているということなのでしょう。
4連勝で藤井王将が防衛。第71期 ,72期 に続く三連覇 で3期目の王将獲得です。
我思うゆえに我あり cogito, ergo sumというデカルト René Descartesの最終結論を理解するとき,もうひとつだけ注意しておかなければならないことがあります。すでに説明したように,この命題は我は思いつつあるという単一命題であるのですが,このときに思っているのはデカルトの精神mensであってデカルトの身体corpusではありません。つまりデカルトがいっているのは,自分はあらゆる観念ideaについてそれを疑っているのであって,このことは夢を見ているとか神Deusが欺瞞者として自分を騙そうとしているという疑いすらもつことができないような思惟作用であるがゆえに,そのようにすべてを疑っている自分の精神が存在しているということは疑い得ないこと,つまり絶対的に正しいことなのであるということなのであって,デカルトの身体があるということについてはデカルトは絶対的に正しいこともしくは疑い得ないことであるとは考えていません。むしろデカルトの身体がが存在するということについては,デカルトは疑いdubitatioを有しているのです。このことは,デカルトの身体が存在するということを認識するcognoscereのもデカルトの精神であって,それはデカルトの身体の観念としてデカルトの精神ないしは知性intellectusのうちに生じるのですが,この様式で発生する観念についてはそのすべてを疑い得るとデカルトが判断していることから明らかであるといわなければなりません。
このことはたぶん,スピノザの哲学でいわれていることを利用した方が分かりやすいと思います。スピノザによれば僕たちは,第二部定理一九 の様式のみによって自分の身体が存在することを知ります。したがって僕たちが自分の身体が存在するということを知るのは,外部の物体corpusによって自分の身体が刺激されるafficiことを通してだけなのです。これはつまり,自分の身体が現実的に存在するということを現実的に存在する人間が知覚するpercipereのは,外部の物体によって自分の身体が刺激され,そのことによって自分の精神のうちに自分の身体の観念が発生する場合だけであるということを意味します。ところがこのような様式で自分の精神のうちに発生するすべての観念については,それを疑うことができるというのがデカルトの中間結論でした。
昨晩の第70回クイーン賞 。
エイシンレミーはダッシュが鈍く5馬身の不利。グレースルビーがハナに立ち,2番手にゴールデンハインドで3番手にライオットガール。4番手はメイドイットマムとキャリックアリード。その後ろにサルサレイアとアーテルアストレアとフークエンジェルが並び,これらの外から押していったテリオスベル。エイシンレミーは大きく取り残されて発馬後の正面を通過。外から押し上げていったテリオスベルは行き脚がついて向正面の入口でグレースルビーの前に出ました。2馬身くらいの差がついた2番手にグレースルビーとなり,3馬身差でゴールデンハインド。直後にライオットガール。2馬身差でキャリックアリードとアーテルアストレアという隊列に変化しました。最初の800mは49秒2のミドルペース。
3コーナーではテリオスベルのリードは1馬身くらい。グレースルビーは押して食い下がる形に。外から早めに進出してきたのがアーテルアストレアで内からライオットガール。キャリックアリードも追い上げてきてコーナーでグレースルビーは後退し,前4頭の争い。直線は途中から逃げたテリオスベルと早めに進出してきたアーテルアストレアが残る2頭との差を広げてマッチレース。外のアーテルアストレアが差し切って優勝。テリオスベルが1馬身半差で2着。内を回ったライオットガールを外から差したキャリックアリードが5馬身差で3着。ライオットガールが半馬身差で4着。
優勝したアーテルアストレア はレディスプレリュード 以来の勝利で重賞2勝目。このレースはわりと力関係ははっきりとしていて,テリオスベルが出走ということで伏兵が食い込む余地が少ないので,波乱の余地はきわめて小さいだろうとみていました。実際に実力上位と目された4頭が4着までを独占。2着と3着の間は着差がつき過ぎているきらいはありますが,これはペースと展開によるものでしょう。牡馬の一線級相手に通用するほどの力量はありませんが,牝馬戦線ではこれからも上位を賑わせてくる馬たちでの決着であったと思います。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウン でその父はスペシャルウィーク 。セレタ 系ダイナエイコーン の分枝で母のふたつ上の半兄に2018年のマーチステークスを勝ったセンチュリオン 。Aterはラテン語で黒い。
騎乗した菱田裕二騎手と管理している橋口慎介調教師はクイーン賞初勝利。
デカルト René Descartesが発見した答えは次のようなものでした。
デカルトが何かを認識するcognoscereことによって何らかの観念ideaが自身の知性intellectusのうちに生じるとしても,そういう観念については必ず何らかの疑いdubitatioを有することができます。したがってそのことのうちには絶対的に正しいということはできません。ただ,デカルトが自身の知性のうちに生じる観念について,それを疑っているという事実は消し去ることはできません。他面からいえば,ありとあらゆる観念についてデカルトがそれを疑っているという思惟作用は,疑い得ない事実であって,よってこのことは絶対的に正しいということができます。この事象については,自分が夢を見ているというような疑いをもつことができないのは当然ですし,いかに神Deusが欺瞞的な存在であるとしても,自身が疑っていない事柄についてそれを疑っていると錯覚させるというようなこともできないからです。だから,自分があらゆる観念について疑っていることを,絶対的に正しいことであるとデカルトは結論付けたのです。
このことが,我思うゆえに我ありcogito, ergo sum,と表現されているのです。ですからこの命題は,疑っているということはあることだという隠された前提の下に結論される三段論法ではありません。むしろ疑っているデカルト自身が存在するという意味の単純命題であることになります。スピノザはこのことを,我思うゆえに我あり,という命題は,我は思いつつあるego sum cogitans,という命題と意義を同じくする単純命題であると『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』の中でいっています。この指摘が正しいことは,ここまでの考察から明白だといえます。つまりスピノザはデカルトの方法論的懐疑 doute méthodiqueの結論部分を,きわめて正確に理解していたということができます。この時代にデカルトの哲学の解説書というものがどれほどあったのかということは僕には定かなことではありません。だから『スピノザー読む人の肖像 』でいわれているように,我思うゆえに我あり,という命題を最初に正しく解説したのがスピノザであったということが,正確であるかどうかは僕には不明です。ただ,スピノザのデカルトの哲学に対する理解がきわめて正確だったのは間違いありません。
小川良成 は全日本プロレス時代に三沢光晴 にパートナーに選ばれることによって,トップクラスで戦うようになりました。三沢は素顔に戻ってからは川田利明 ,川田が田上明 と組むようになると小橋建太 ,小橋がジョニー・エースやジ・パトリオットとチームを組むことによって秋山準とパートナーを変えていき,秋山と小橋が組むようになったのでパートナーが不在となり,小川を指名したのでした。
この指名は,三沢がリング上の実権についてはそのすべてを握ったことによって可能になったことでした。もしも馬場がリング上のことをすべて決定する権利を持ち続けていたら,たぶん三沢のパートナーが小川になることはなかったと思います。というのも馬場は身体が大きな選手が好みであって,三沢とか川田でもたぶんプロレスラーとしては小さすぎると感じていたと思うのです。それでも三沢や川田はジュニアヘビー級 では戦えないくらいの大きさがありました。小川は三沢や川田よりもさらに小さく,ジュニアヘビー級でも戦うことができる選手でしたから,いかに全日本プロレスのヘビー級が無差別級 を意味するとはいえ,小川くらいの身体の選手が無差別級のトップで戦うことに否定的であったと思われるからです、というかむしろ全日本プロレスのヘビー級が無差別級を意味していたから,小川のような身体が大きくない選手は,無差別級のトップクラスで戦うだけの体力がないというような思い込みが馬場にはあったといった方がいいかもしれません。
三沢を小川をパートナーに指名した後で,そのチーム名をアンタッチャブルと名づけました。このアンタッチャブルという命名は,上記の事情を考慮すれば,ある意味が込められていたと考えることができます。それは,小川を自分のパートナーにすることを全日本プロレスのオーナーである馬場は快く思わないかもしれないけれども,リング上のことは自分で決定する,つまり馬場にはタッチさせないという意味です。
もちろんこれは僕の推測で,三沢が本当はどう考えていたのかは分かりません。ただアンタッチャブルという命名にはもしもこんな意味があったとしたら,当時の三沢の決意がいかに強いものであったかが実感できます。
デカルト René Descartesがスピノザとは違って,たとえ人間の知性intellectusが観念ideaを形成するという思惟作用のうちに疑い得ないこといい換えれば絶対的に正しいといえることが何もないとしても,絶対的に正しいといえる事柄がこれ以外の様式のうちにあり得ると考えることができたのは,スピノザの哲学とデカルトの哲学との間に相違があるからです。
僕は人間の知性が何らかの観念を形成するといっていますが,人間の知性はそれ自体がひとつの観念であるというのがスピノザの見方です。このことは,第二部定理一一 から明らかです。ここでは人間の精神 mens humanaといわれていますが,この定理Propositioで人間の精神といわれている思惟の様態cogitandi modiは,この考察で人間の知性といっている思惟の様態と同じだからです。しかしそれよりも,スピノザは個々の観念の集積のことを一般に知性というということからこれはなお明らかだといえます。つまり人間の知性というのは,その知性を構成する個々の観念の集積のことをいうのであって,その個々の観念の集積としての知性が,ひとつの観念を構成するのです。このことは,人間の知性を構成する個々の観念というのは個物res singularisの観念であるということに注意するならば,第二部定義七 でスピノザが,いくつかの個物によって構成されるひとつの個物があるといっていることから明白でしょう。このために,知性が観念を形成するということ,あるいは同じことですが知性が何らかの事物を認識するcognoscereということが,第一の思惟作用である場合には,この第一作用のうちに正しいといえることが何もないのなら,人間の知性のうちに正しいといえることは何も発生しないということが直ちに結論されることになるのです。
デカルトはたぶん知性を観念の集積とする見方をしていないのです。このゆえに,たとえ認識される観念のうちには正しいといえるようなことが何もないとしても,直ちに正しいといえることは何もないということが帰結しないことになります。なぜなら,人間が何かを認識することによって観念が形成されるということと,何かを認識するその認識作用自体とを,別の様式の下に考えることができるからです。その様式の下にデカルトは答えを発見します。
4日に関根名人記念館 で指された第50期女流名人戦 五番勝負第三局。
西山朋佳女流名人の先手で角道オープン三間飛車。後手の福間香奈女流名人は居飛車にして居玉のまま仕掛けていきました 。
ここで後手は銀を逃げずに☖8六歩と垂らしました。先手は構わず☗7五歩と銀を取りました。これは☖8七歩成で飛車角両取り。これで後手が良さそうなのですが☗7九飛と逃げられたときに,☖7七とと角を取ると☗同桂で飛車を使うことができません。後手はそれを避けて☖8五飛と取ったので先手は☗6六角と逃げました。
と金ができているとはいえ銀損ですから後手は代償が必要です。☖8八とで8筋の突破を目指しました。先手が☗7六飛と浮いたところで☖8七飛成。先手は☗7七銀と上がりました。
これで受かっているようです。この後,先手も7筋を突破する攻め合いに進んで勝っています。後手は居玉のままの仕掛けが無理だったということでしょう。
西山女流名人が勝って 1勝2敗。第四局は25日に指される予定です。
Aの観念ideaとは,Aが観念対象ideatumとなっている観念という意味です。観念対象というのは知性intellectusの外にあるとは限らないのであって,観念自体が観念対象となる場合もあります。それはスピノザの哲学では観念の観念idea ideaeといわれます。デカルト René Descartesがこういうケースも想定していたかどうかは分かりません。ただ,神Deusが欺瞞者として人間の知性を騙すということが疑いdubitatioとして成立すると主張するのであれば,それは観念対象が知性の外にある事物であろうと知性の中にある観念であろうと同様であるといわなければなりません。したがって方法論的懐疑doute méthodiqueの中間結論としてデカルトが到達することができた地点は,この様式で人間の知性が何らかの事物を認識するcognoscereということのうちに,疑い得ない事柄は何もないということ,すなわち絶対的に正しいといえることは何もないということだったと解することができます。それは別のいい方をすれば,もし絶対的に正しいといえること,デカルト自身がそのことを疑い得ないといえるようなことが何かあるのだとすれば,そうしたことはこの様式とは別の様式のうちにあるということです。つまり,知性が事物を認識するという作用とは,別の思惟作用のうちにしか,絶対的に正しいと判断することができることはないのです。
スピノザの哲学では,第二部公理三 によって,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であるとされています。知性が観念を形成するということは,その知性が何らかの事物を認識するというのと同じ意味です。つまりこれは,思惟作用のうちの第一のものは認識cognitioであるということを意味します。したがって,この第一の作用のうちに疑い得ないことが何もないのであるとしたら,疑い得ないことは何もないということが直ちに結論されます。これはデカルトも従ったといえる第二部定理四〇 で示されている公準から明らかなのであって,もしも知性の第一作用である認識のうちに,何か疑うことができない確実なものがあるのでないとしたら,それ以外のいかなる思惟作用もこの認識作用を原因 causaとして生じなければならないのですから,疑い得ない確実なことはそこからは生じ得ないからです。ただしデカルトはそうは考えていません。
新川文化ホール で指された昨日の第49期棋王戦 五番勝負第一局。対局開始時点での対戦成績は藤井聡太棋王が6勝,伊藤匠七段が0勝。
振駒 で藤井棋王の先手となり角換わり相腰掛銀。後手の伊藤七段が4筋に飛車を回る将棋になりました。
後手はここから☖3五銀と上がり☗9三歩成に☖3六角と打ちました。これは先手玉を寄せるのは諦めて入玉を目指す指し方。先手はほぼ入玉が確定しているのに対して後手玉は寄せられるおそれが残り,駒も足りるかどうか不明な状況なのですが,この局面では正しい判断でした。相入玉になり,わりと短手数での持将棋 が成立しました。
棋王戦の持将棋は1局が完結するとのこと。したがって指し直し局はなく,第二局が伊藤七段,第三局が藤井棋王の先手ということになるようです。第二局は24日に指される予定です。
これは,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であるということに限定されるわけではありません。この種の数学的真理に関しては,それらのすべてを疑うことができるとデカルト René Descartesはいうのです。詳細は省きますが,デカルトはこの種の事柄を疑い得る理由として,自分が夢を見ているかもしれないということや,神Deusが欺瞞者としてがデカルト自身を騙そうとしているかもしれないということをあげています。
僕からすれば,このようなことまでいい出したらきりがないように感じられます。少なくとも,自分が夢を見ているかもしれないということはともかく,神が欺瞞者であるというのであれば神が欺瞞者であるということの理由が必要であって,しかしその積極的な理由を提示することは不可能であるとしか思えません。ただ,このような仕方ですべてを疑い得るというように解したこと自体は,デカルト自身にとっては有意義なことであったとは思います。というのは,あらゆる事物がこのような様式で疑い得るのであるとすれば,僕たちがこの様式で正しいと判断していることのすべては疑い得る事柄である,つまり絶対的に正しいといえる事柄ではないということが結論されるので,もしも疑い得ないこと,つまり絶対的に正しいと断定することができる何らかの事柄がデカルトにあるのであるとすれば,それはこのような様式とは別の様式によってデカルトのうちに発生するであろうということを,デカルト自身は知ることになったと思うからです。
ここではスピノザの哲学に沿って説明します。
僕たちの知性intellectusが,知性の外に形相的にformaliterある何らかの事物,たとえばAを認識するcognoscereとしましょう。このときAを認識する知性のうちには,Aの客観的有esse objectivumすなわちAの観念ideaが発生することになるのです。デカルトがいっているのは,このときAの観念がAの十全な観念idea adaequataであるというように知性が判断するとしても,それは神が欺瞞者としてその知性を騙そうとしている,つまりAの混乱した観念idea inadaequataをAの十全な観念と思わせているという疑いdubitatioが成立するので,知性のうちにあるAの観念がAの十全な観念であるということは,絶対的に正しいとはいえないということです。
静岡記念の決勝 。並びは小林‐神山の関東,郡司‐深谷‐佐藤の南関東,寺崎‐大石の近畿で清水と東矢は単騎。佐藤のクリップバンドの調整のため発走が遅延しました。
深谷と神山がスタートを取りにいき,内の深谷が取って郡司の前受け。4番手に小林,6番手に清水,7番手に東矢,8番手に寺崎で周回。残り3周のバックを通過すると寺崎が発進。4番手の小林がそれを牽制して先に動こうとしましたが,誘導との車間を開けていた郡司が突っ張りました。小林はそのまま下りようとしたのですが,清水が佐藤との差を詰めて4番手に入ったため下りることができず,5番手の東矢の外で併走となって打鐘。小林の牽制で動けなかった寺崎がここから発進。しかし郡司が全開で駆けていったために不発。バックに入ると後方から小林が捲っていきましたが,先んじて清水が発進。郡司との車間を開けていた深谷が対抗してここからは両者の競り合い。直線で外から差し切った清水が優勝。深谷が1車輪差で2着。深谷マークの佐藤が半車身差で3着。
優勝した山口の清水裕友選手は前々回出走の大宮記念 以来の優勝で記念競輪11勝目。静岡記念は初優勝。このレースは前受けとなった郡司が早い段階から駆けていったので,展開は深谷が有利でした。清水に合わせて深谷が出ることになったので競り合いになり,清水に競り負けてしまったという内容。郡司が残るのは難しい展開だったといえますので,もう少し早くから深谷が発進していれば,深谷の優勝があったのではないでしょうか。清水は単騎のレースになりましたが.小林のスキを突いて4番手を奪ったのが巧みでした。清水にとって勝因といえるのはここだったと思います。
絶対的に正しい事柄は何かという問いは,デカルト René Descartesが哲学を解するにあたって答えておく必要があった問いです。だからデカルトはまずこの問いを立てたのであって,そして最初にそれに答えようとしたのです。これは哲学を開始するにあたっては必要だったので,この点ではデカルトは何も誤りerrorを犯していません。他面からいえばこの問いは,哲学を開始するためにデカルトがデカルト自身に立てた問いであって,その問い自体に答えることが目的finisであったわけではありません。哲学を開始するために最初に考えておかなければならないことであったのです。
だからデカルトが誤った方法methodusを用いたというようには僕は考えません。デカルトに何か問題があったとすれば,こうした方法を用いたということではなく,方法の用い方の中にそれがあったと考えます。一言でいえばデカルトはこの問いに答えるためにあまりに用心深過ぎました。あるいは慎重すぎたといっていいかもしれません。スピノザ主義の立場からいえば,デカルトは自身がある事柄を疑うという思惟作用と,ある事柄を疑うということばを混同しているようにみえます。そのために本来であれば疑う必要のないことまで疑っているようにみえるのです。とはいえ,問いの答えというのは当然ながらあらかじめ与えられているわけではありませんから,その問いに答えるためにデカルトが慎重になることに理由がないわけではありません。自身が絶対に疑うことができないこと,つまり自身にとって絶対に正しいといえる事柄を探求するために,デカルトがあまりに慎重すぎたとしても,そのことによってデカルトを責めるのはもしかしたら酷であるのかもしれません。
一般的に真理veritasとされていることについては,数学的な真理を用いるのが説明の上で最も理解しやすくなります。なのでここでも,平面上に描かれた三角形の内角の和は二直角であるという,このブログではたびたび登場していることを,当座の真理として抽出することにします。このことは一般的に真理とされているのですが,デカルトにとっては絶対的な真理ではありません。他面からいえば,このことはデカルトにとって疑い得る事柄だったのです。
昨年10月に小森陽一の『夏目漱石『心』を読み直す』という本を読み終えました。かもがわ出版から2020年9月20日に発売されたものです。僕が入手したのは第2刷なのですが,なぜか2020年5月31日となっていて,これでは第1刷の前に第2刷が出ていることになっておかしいです。たぶん2021年5月31日なのではないでしょうか。
小森は30年以上にわたって文学講座を続けていました。ところが新型コロナウイルスが流行することによって会場の都合がつかなくなり,その文学講座を継続することができなくなりました。そういう状況の中で,たびせん・つなぐという旅行サイトの事業者から,オンライン文学講座の開催の申し出がありました。小森はオンラインの技術には疎かったのですが,サイトの方からの開催の申し出だったので引き受けることにしました。そのとき,オンラインでの文学講座をするのであれば,多くの人が読んだことがあるであろう『こころ』を教材にするのがふさわしいだろうと考えたのです。この本は,その講座をまとめたものです。
オンライン講座というのは題材に対してどの程度の知識がある人が受講するのかということが分からない面があります。なので内容はそこまで難しいものとはなっていません。まえがきの中で小森は,中学・高校生の皆さんも読み直しに挑戦してみてください,と書いていいます。ここから分かるように,中学生や高校生が読んだとしてもその内容は理解することができるようなものになっています。
ひとつだけ特徴があるとすれば,このオンライン講座は,新型コロナウイルスの流行によって開催されることになったものです。このために,感染症というのがその中心を貫くひとつのテーマになっています。読み直すというのは現代的に読み直すということであって,講座が開かれた現代というのは新型コロナウイルスという感染症が大流行した現代です。つまり感染症を通して,『こころ』の時代と現代を関連付けることを目指しているといえるでしょう。
僕自身の見解opinioを先に述べておけば,僕もスピノザと同様に,方法論的懐疑doute méthodiqueに対しては疑問を有しています。もっとも僕はスピノザ主義者という立場から発言しているので,ある意味では僕がそのような見解を抱くのは当然といえば当然です。ただ僕は同時に,このことに関してはデカルト René Descartesのために弁明しておきたいという気持ちもあるのです。
方法論的懐疑というのは,あくまでも方法のひとつであって,何らかの問題に対する解答そのものではありません。すでにいっておいたように,デカルトが問いたかったのは,絶対的に正しいといえることは何であるのかということなのであって,絶対的に正しい事柄を導き出すための最善の方法は何かということではないのです。それに対して僕が,あるいはスピノザが,方法論的懐疑に疑問を呈するのは,絶対的に正しい事柄は何であるのかということに対して直接的に答えようとすることからではありません。むしろデカルトの方法論を踏襲した上で,知性intellectusが真理veritasを認識するcognoscereとはどういうことかという別の問いを立てることで生じてくる疑問なのです。少なくともデカルトは,大真面目に自身がまったく疑い得ないことは何であるのかということを検討することによって一切の疑いを有することができないものとしての絶対的な真理を発見しようとしたのであって,その営為自体は何ら否定されるべきではないと僕は考えます。
次に,絶対的に正しい事柄,それがデカルトにとってはデカルトが一切の疑いを有し得ない事柄であったのですが,デカルトが哲学を開始するにあたってそれを求めたことは,方法論そのものとして正しいと僕は考えます。スピノザの哲学にひきつけていえば,デカルトはこうした営みを開始したとき,第二部定理四〇 で示されているような公準に従っていたのです。すなわち,もしも十全な観念 idea adaequataが十全な観念からしか発生しないのであれば,哲学を開始するにあたって何よりも必要とされるのは,与件としての十全な観念です。もしもそれが与えられていなければ,導出される観念もまた十全な観念であるということが保証できなくなってしまうからです。その場合,その哲学は真理性を失ってしまうでしょう。
スピノザは神 Deusの全能ということを,普通に考えられているのとは違った様式の下に理解します。これは,一般的にいわれている神の全能は,スピノザからすればむしろ神の全能を疑わせるような内容になっているからです。このことをスピノザは第一部定理一七備考の中で指摘しています。
「神を現実に最高の認識者と考えならも,彼らは,神が現実に認識することをすべて存在するようにさせることができるとは信じない。なぜならもしそうなれば,彼らは,神の能力を破壊すると思うからである 」。
ここで彼らといわれているのが,一般的な意味で神が全能であると主張する人びとのことです。こうした人びとによれば,神が知性 intellectusのうちに存在することをすべて創造するcreareと,もうそれ以上は何も創造することができないことになります。そのことがそうした人びとにとっては,むしろ神の全能を欠くように思えるのです。だからこうした人びとは,神は最高の認識者であるということを認めながら,一方では神が認識するcognoscereことのすべてを創造することはできず,残余の部分がなければならないというのです。
これがスピノザには矛盾にみえるのです。最高の認識者であるならば,認識した事柄をことごとくなすというべきなのであって,認識した事柄のすべてをなすわけではないのであれば,むしろそのことが神の全能を欠くことになるからです。なのでスピノザは神の全能を規定するときにも,神は本性の必然性 によって働くagereといういい方をします。本性naturaの必然性necessitasによって働く神は,その本性の必然性に則したことはことごとくなすことになるので,神にはなし得るけれどもなさないことがあるという結論が出てくる余地はありません。
第二部定理七系 により,神の本性から形相的にformaliter知性の外に生じるすべての事柄の十全な観念idea adaequataが神の知性のうちにはあります。つまり神は認識するすべてのことを形相的に知性の外にもなすのです。こちらの方が神が全能であるという規定に相応しいというのがスピノザの考え方です。
それではここからこのことを詳しく探求していきますが,前もって次のことをいっておきます。
これに関するスピノザの探求は,『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』の第一部の緒論に含まれています。すでに指摘されていたように,『デカルトの哲学原理』の第一部は,『哲学原理Principia philosophiae 』の第一部に対応しているわけではなく,デカルト René Descartesの哲学の形而上学的部分の説明です。そのために,『哲学原理』だけでなく,『省察Meditationes de prima philosophia 』からも多くのものが援用されています。ただ,この点に関するデカルト自身の探求は,『哲学原理』や『省察』より,『方法序説Discours de la méthode 』の中にあります。したがって,これに関連するデカルト自身の探求を詳しく知りたいという場合は,『方法序説』を参照してください。
絶対的に正しいことは何かという問いは,問い自体としてはどう手をつけてよいか分からないような茫洋とした面を含んでいます。このためにデカルトはそれに答えるため,つまり解答を発見するために,問いそのものに直接的に答えるのではなくて,方法論的に解答を導くことを目指します。すなわち,それが絶対的に正しいといえるのかどうかということは別にして,現実的な世界にはこれは正しい,いい換えれば真理veritasであるとされている事柄が多々あります。そこでそのように真理であるといわれている事柄を抽出して吟味し,それが確かに疑うことができないような真理であると結論することができればその事柄は絶対的に正しいといえることができるのに対し,少しでも疑い得る部分があるのであれば,その事柄は絶対的に正しいということはできない,正確にいえば,デカルトによって絶対的な真理であると認められないというような方法を採用します。いい換えれば,デカルトが少しでも疑い得るのであればそれはデカルトにとってこの問いへの解答にはならないのに対し,もしそれはデカルトによってまったく疑うことができないと認められるのであれば,その事柄はこの問いの解答であるということです。
これは真理とされているあらゆる事柄を疑うことによって吟味するという方法なので,方法論的懐疑doute méthodiqueといわれます。関連事項として後に説明しますが,スピノザはこれには否定的です。
川崎記念トライアルの第60回報知オールスターカップ 。御神本騎手が昨日の10レースのレース後に落馬し右肩を打撲したためディアセオリーはJRAの横山武史騎手に変更。
ナニハサテオキはダッシュがつかず1馬身,キーピリオッドは立ち上がって2馬身の不利。発馬直後はヒーローコール,エルデュクラージュ,ライトウォーリアの3頭が横並びでその後ろもディアセオリーとユアヒストリーとスワーヴアラミスの3頭が横並び。ナニハサテオキとアイアムレジェンドも併走でキーピリオッドが最後尾。3コーナーにかけて外のライトウォーリアが単独の逃げとなり,ヒーローコールとエルデュクラージュ。6馬身ほど差がついてディアセオリーとスワーヴアラミス。4馬身差でユアヒストリー。2馬身差でナニハサテオキ。10馬身ほどあってキーピリオッドとアイアムレジェンドと,隊列がきわめて縦長になりました。正面に入るとライトウォーリアの逃げのリードが4馬身くらいまで広がり,単独の2番手にヒーローコール。3番手のエルデュクラージュの外までナニハサテオキが追い上げてきました。超ハイペース。
ライトウォーリアは2周目の3コーナーに入るところでまだ4馬身くらいのリード。ここで単独の2番手に上がったのがナニハサテオキで,差を詰めにかかりました。3番手にヒーローコールで4番手にはユアヒストリーが追い上げてきました。直線に入るところでライトウォーリアとナニハサテオキは雁行。ここからフィニッシュまで激しい競り合いになりましたが,最後まで抜かせなかったライトウォーリアが一杯に逃げ切って優勝。ナニハサテオキがクビ差で2着。3着もヒーローコールとユアヒストリーで激しい競り合い。こちらは外のユアヒストリーが差して6馬身差の3着。ヒーローコールが4分の3馬身差で4着。
優勝したライトウォーリア は一昨年の勝島王冠 以来の勝利で南関東重賞3勝目。それ以降は勝てていなかったのですが,それは重賞を中心に使っていたためで,連覇を狙った勝島王冠は2着でしたから,能力が衰えていたわけではありません。このレースは少頭数でかなり拮抗したメンバー構成となりましたが,たぶん能力は最上位で斤量もやや恵まれているように思えたので,最有力候補と思っていました。本質的にはもう少し短い距離の方がよいのでしょうが,このレースのように自身の力を十全に発揮すれば,このくらいの距離までは我慢できるということなのでしょう。重賞も狙える馬だと思っています。母の父はディープインパクト 。従弟に2020年の京都2歳ステークスと2021年の青葉賞を勝っている現役のワンダフルタウン 。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 は東京記念 以来の南関東重賞33勝目。第52回 以来となる8年ぶりの報知オールスターカップ2勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は南関東重賞23勝目。第58回 以来となる2年ぶりの報知オールスターカップ2勝目。
『スピノザー読む人の肖像 』の第1章では,さらにデカルト René Descartesの有名な命題である,我思うゆえに我あり cogito, ergo sum,という命題の解釈の仕方について触れられています。
この命題は,そのまま解すると,三段論法にみえます。すなわち,私は思うという第一命題があり,ここには現れていない,思うということはあることであるという隠された命題が前提として含まれていて,そのゆえに,我はあるという結論が生じるというようにです。しかしよく知られているように,この命題は実はこのような三段論法ではありません。他面からいえば,この命題を成立させるために,思うということはあるということだという前提条件が隠されているわけではないのです。國分がここで指摘しているのは,この命題が実際には三段論法ではないということを最初に明示したのがスピノザであるということです。そこでここでは,なぜこの命題が三段論法であるとはいえないのかということと,ではこの命題をどのような命題であると解するべきなのかということを,デカルト自身の考え方およびスピノザのそれに対する解釈法を踏まえながら,順に検証してくことにします。
まず考えておかなければならないのは,少なくとも我思うゆえに我ありという命題は,デカルト自身がある問題の結論として提出したものであるということです。ですからデカルトはこのような解答を出すための問いを抱えていたということです。命題の結論部分は我ありという部分にあるので,その問いは我があるということを正しく証明せよという類のものであったと考えられるかもしれませんが,実際にデカルトが解答しようとしていたのはそのような類の問いではないのです。というか,デカルトが抱えていた問いがそのような問いであったと解するならば,むしろ解答として提出されたこの命題は,三段論法として解答されていると間違えてしまうでしょう。だから,デカルトが何を問おうとしていたのかということを確認しておかなければなりません。
最初に結論からいうと,デカルトは絶対的に正しいといえる事柄は何かということを問おうとしていたのです。我思うゆえに我ありは,その問いに対する解答なのです。