奈良記念の決勝。並びは阿部‐新田‐佐藤の北日本,皿屋に柏野,中西‐山田‐三谷‐栗山の近畿。
三谷と新田がスタートを取りにいきました。新田の方が外だったのですが加速力で上回り誘導の後ろに。阿部の前受けになりました。4番手に中西,8番手に皿屋で周回。残り3周のホームから皿屋が上昇。これは誘導との車間を開けていた阿部が対応して突っ張りました。皿屋が引いたところで中西が発進。ホームで阿部をかまして前に。栗山は離れ,三谷の後ろに阿部という隊列に。打鐘後のホームに戻って阿部が叩き返しにいきましたが,残り1周から山田が番手捲りを敢行。阿部は不発になったので今度は新田が発進。バックから三谷が牽制しつつ発進。直線の入口まで三谷と新田のつばぜり合いになりましたが,三谷が制して新田は失速。そのまま単独の先頭に立った三谷が優勝。新田が一杯になったので三谷に切り替えた佐藤が1車輪差で2着。後方からの捲り追い込みになった皿屋の番手からコーナーで内を回った柏野が1車身差で3着。大外を回った皿屋が半車身差の4着で新田は4分の1車輪差で5着。
優勝した奈良の三谷竜生選手は前回出走の京王閣のFⅠからの連続優勝。記念競輪は2019年の伊東温泉記念以来となる6勝目。奈良記念は2018年以来の2勝目。この開催は有力と目された選手のうち,脇本が腰痛で欠場,古性は失格,平原は落車と次つぎに脱落していきました。なので決勝に残ったメンバーでは新田と佐藤が上位。ただ近畿勢の並びからしてどう考えても早めに先行しての二段駆けという展開になりそうで,新田の脚力であればそれは乗り越える可能性もあると思いましたが,阿部が前を回るのでどうかとみていました。阿部も先行意欲は高かったと思いますが,皿屋を突っ張ってすぐに中西に来られたので,不意を突かれてしまったのでしょう。その点では中西が発進するタイミングがうまかったといえそうです。新田が三谷との競り合いに負けたのは,展開もあったでしょうが,発走直後に前を取るためにいくらか脚を使ったことも影響したかもしれません。各自がそれぞれの役回りで力を出したよいレースだったと思います。
第三部諸感情の定義二から分かるように,喜びlaetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioを意味します。つまり,現実的にAという人間が存在して,このAが何らかの喜びを感じるということは,Aがより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを意味します。
完全性というのは第二部定義六により,実在性realitasと同じです。だから,現実的に存在するAがより小なる完全性からより大なる完全性に移行するということと,Aがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのと同じ意味であることになります。
スピノザの哲学で実在性とは何かといえば,それは力potentiaという観点からみた本性essentiaにほかなりません。したがって,Aの実在性とAの本性は,実在性とか本性というものを,どのような観点から理解するかという差異にのみ帰せられます。よってAがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのは,力という観点からみる限り,Aがより小なる本性からより大なる本性へと移行するということと同じでなければなりません。ただし,こうした移行というのは,Aが現実的に存在する限りで生じることですから,このようにいわれる場合の本性というのは,現実的本性actualis essentiaでしかあり得ず,Aのあるいは人間の形相的本性essentia formalisではあり得ません。つまり,現実的にAが存在して,そのAが喜びを感じるということは,力という観点からみる限りで,Aがより小なる現実的本性からより大なる現実的本性へと移行するということを意味するのです。
この現実的本性の移行が,AにとってAの中に起こることといえるのかどうか,いい換えればAの本性ならびに形相に変化を齎しているといえるのかということについては,いえるという見解もいえないという見解もあり得るというように僕には考えられます。単純に現実的本性をAの本性と解すれば,それが小なる現実的本性から大なる現実的本性へと移行するのですから,Aの現実的本性に変化が齎されているといえるでしょう。しかし,Aという人間がいくら喜びを感じたとしても,Aの形相が変化しているわけではない,つまりAがBになるわけではないので,変化は齎されていないともいえます。
三谷と新田がスタートを取りにいきました。新田の方が外だったのですが加速力で上回り誘導の後ろに。阿部の前受けになりました。4番手に中西,8番手に皿屋で周回。残り3周のホームから皿屋が上昇。これは誘導との車間を開けていた阿部が対応して突っ張りました。皿屋が引いたところで中西が発進。ホームで阿部をかまして前に。栗山は離れ,三谷の後ろに阿部という隊列に。打鐘後のホームに戻って阿部が叩き返しにいきましたが,残り1周から山田が番手捲りを敢行。阿部は不発になったので今度は新田が発進。バックから三谷が牽制しつつ発進。直線の入口まで三谷と新田のつばぜり合いになりましたが,三谷が制して新田は失速。そのまま単独の先頭に立った三谷が優勝。新田が一杯になったので三谷に切り替えた佐藤が1車輪差で2着。後方からの捲り追い込みになった皿屋の番手からコーナーで内を回った柏野が1車身差で3着。大外を回った皿屋が半車身差の4着で新田は4分の1車輪差で5着。
優勝した奈良の三谷竜生選手は前回出走の京王閣のFⅠからの連続優勝。記念競輪は2019年の伊東温泉記念以来となる6勝目。奈良記念は2018年以来の2勝目。この開催は有力と目された選手のうち,脇本が腰痛で欠場,古性は失格,平原は落車と次つぎに脱落していきました。なので決勝に残ったメンバーでは新田と佐藤が上位。ただ近畿勢の並びからしてどう考えても早めに先行しての二段駆けという展開になりそうで,新田の脚力であればそれは乗り越える可能性もあると思いましたが,阿部が前を回るのでどうかとみていました。阿部も先行意欲は高かったと思いますが,皿屋を突っ張ってすぐに中西に来られたので,不意を突かれてしまったのでしょう。その点では中西が発進するタイミングがうまかったといえそうです。新田が三谷との競り合いに負けたのは,展開もあったでしょうが,発走直後に前を取るためにいくらか脚を使ったことも影響したかもしれません。各自がそれぞれの役回りで力を出したよいレースだったと思います。
第三部諸感情の定義二から分かるように,喜びlaetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioを意味します。つまり,現実的にAという人間が存在して,このAが何らかの喜びを感じるということは,Aがより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを意味します。
完全性というのは第二部定義六により,実在性realitasと同じです。だから,現実的に存在するAがより小なる完全性からより大なる完全性に移行するということと,Aがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのと同じ意味であることになります。
スピノザの哲学で実在性とは何かといえば,それは力potentiaという観点からみた本性essentiaにほかなりません。したがって,Aの実在性とAの本性は,実在性とか本性というものを,どのような観点から理解するかという差異にのみ帰せられます。よってAがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのは,力という観点からみる限り,Aがより小なる本性からより大なる本性へと移行するということと同じでなければなりません。ただし,こうした移行というのは,Aが現実的に存在する限りで生じることですから,このようにいわれる場合の本性というのは,現実的本性actualis essentiaでしかあり得ず,Aのあるいは人間の形相的本性essentia formalisではあり得ません。つまり,現実的にAが存在して,そのAが喜びを感じるということは,力という観点からみる限りで,Aがより小なる現実的本性からより大なる現実的本性へと移行するということを意味するのです。
この現実的本性の移行が,AにとってAの中に起こることといえるのかどうか,いい換えればAの本性ならびに形相に変化を齎しているといえるのかということについては,いえるという見解もいえないという見解もあり得るというように僕には考えられます。単純に現実的本性をAの本性と解すれば,それが小なる現実的本性から大なる現実的本性へと移行するのですから,Aの現実的本性に変化が齎されているといえるでしょう。しかし,Aという人間がいくら喜びを感じたとしても,Aの形相が変化しているわけではない,つまりAがBになるわけではないので,変化は齎されていないともいえます。