スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

フェブラリーステークス&観念の力

2024-02-19 19:07:33 | 中央競馬
 浦和から1頭,大井から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた昨日の第41回フェブラリーステークス
 シャンパンカラーは立ち上がってしまい1馬身の不利。発馬後の加速が群を抜いていたドンフランキーが単独の逃げ。2番手はイグナイター,ドゥラエレーデ,ペプチドナイル,ウィルソンテソーロの4頭の集団。2馬身差で巻き返してきたシャンパンカラーとオメガギネス。2馬身差でガイアフォース。2馬身差でミックファイアとスピーディキック。1馬身差でカラテ。1馬身差でタガノビューティーとキングズソード。6馬身差でセキフウ。2馬身差でアルファマム。2馬身差の最後尾にレッドルゼル。前半の800mは45秒6の超ハイペース。
 直線に入るところでもドンフランキーが先頭でしたが,内を少し開けたのでずっと内を回っていたイグナイターが先頭に。その後からドンフランキーの外を回ったペプチドナイルが追い上げてきて先頭に。これをめがけて追い掛けてきたのはタガノビューティー。さらにタガノビューティーの外からガイアフォースとセキフウが並んで追い込み,タガノビューティーの内からはキングズソード。しかし先に先頭に立っていたペプチドナイルがフィニッシュまで粘って優勝。ガイアフォースが1馬身4分の1差で2着。セキフウがクビ差の3着でタガノビューティーがハナ差で4着。キングズソードが半馬身差で5着。
 優勝したペプチドナイルはこれまでオープンを3勝していましたが,重賞は初制覇での大レース優勝。このレースはチャンピオンズカップから直行してきた実績馬か,前哨戦の根岸ステークスおよび東海ステークスの勝ち馬が勝つという傾向。ところが今年は該当馬がいませんでした。つまり例年ほどのレベルにはなかったといえるメンバー構成なので,勝ったからといって過去の優勝馬ほどの評価はできないかもしれません。ただ超ハイペースで後ろの方にいた馬が有利になったレースを,先行策から抜け出して粘ったという内容は強かったと思います。父はキングカメハメハ。母の父はマンハッタンカフェ
                                     
 騎乗した藤岡佑介騎手は2018年のNHKマイルカップ以来となる大レース4勝目。フェブラリーステークスは初勝利。管理している武英智調教師は開業から6年弱で大レース初勝利。

 十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,第一義的には前者が真理veritasで後者が虚偽falsitasであるということです。したがって,十全な観念は十全な観念と混乱した観念の相違を知性intellectusに教えるけれど,混乱した観念はその相違を知性に教えることがないということは,真理と虚偽の相違を僕たちに教えるのは十全な観念であって,混乱した観念はそのためには何も役に立たないことを意味します。スピノザは第二部定理四二で,真なるものと偽なるものとの相違を教えるのは第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisであって,第一種の認識cognitio primi generisではないといっていますが,第二種の認識と第三種の認識が十全な観念であるのに対し,第一種の認識は混乱した観念ですから,この定理Propositioはまさにこのことをいっていることになります。
 このことは,十全な観念と混乱した観念の関係が,第一義的には真理と虚偽の相違を示すとしても,スピノザの哲学では前者が有esseであって後者が無であるという関係を同時に意味するということから容易に理解できるのではないかと思います。スピノザの哲学では,事物が存在し得るということはその事物に実在性realitasがあるということを意味し,実在性というのは力potentiaという観点からみたときの本性essentiaを意味することになり,逆に存在し得ないということは,その事物には実在性が伴っていないということを意味することになりますから,力と反対の意味において無力impotentiaであることになります。つまり,十全な観念には知性に真理と虚偽の相違を教えるだけの力があるにしても,混乱した観念はそれ自体が無力なので,そのような力をもつことができないのです。
 ここまでの考察から,スピノザがどういう観点から方法論的懐疑doute méthodiqueを批判しようとしているかということも明らかになったといえます。デカルトRené Descartesは,スピノザが中心的な課題として据えた確実性certitudoを,デカルト自身が疑い得ないことと等置しています。しかしスピノザからすれば,ある事柄についてそれを疑い得ないということは,むしろその事柄について確実であるということから帰結するような特質proprietasにすぎないのです。他面からいえば,デカルトにとっての確実性が消極的なものだとすれば,スピノザにとっては積極的なものなのです。
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