スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

報知オールスターカップ&三段論法

2024-02-01 18:57:40 | 地方競馬
 川崎記念トライアルの第60回報知オールスターカップ。御神本騎手が昨日の10レースのレース後に落馬し右肩を打撲したためディアセオリーはJRAの横山武史騎手に変更。
 ナニハサテオキはダッシュがつかず1馬身,キーピリオッドは立ち上がって2馬身の不利。発馬直後はヒーローコール,エルデュクラージュ,ライトウォーリアの3頭が横並びでその後ろもディアセオリーとユアヒストリーとスワーヴアラミスの3頭が横並び。ナニハサテオキとアイアムレジェンドも併走でキーピリオッドが最後尾。3コーナーにかけて外のライトウォーリアが単独の逃げとなり,ヒーローコールとエルデュクラージュ。6馬身ほど差がついてディアセオリーとスワーヴアラミス。4馬身差でユアヒストリー。2馬身差でナニハサテオキ。10馬身ほどあってキーピリオッドとアイアムレジェンドと,隊列がきわめて縦長になりました。正面に入るとライトウォーリアの逃げのリードが4馬身くらいまで広がり,単独の2番手にヒーローコール。3番手のエルデュクラージュの外までナニハサテオキが追い上げてきました。超ハイペース。
 ライトウォーリアは2周目の3コーナーに入るところでまだ4馬身くらいのリード。ここで単独の2番手に上がったのがナニハサテオキで,差を詰めにかかりました。3番手にヒーローコールで4番手にはユアヒストリーが追い上げてきました。直線に入るところでライトウォーリアとナニハサテオキは雁行。ここからフィニッシュまで激しい競り合いになりましたが,最後まで抜かせなかったライトウォーリアが一杯に逃げ切って優勝。ナニハサテオキがクビ差で2着。3着もヒーローコールとユアヒストリーで激しい競り合い。こちらは外のユアヒストリーが差して6馬身差の3着。ヒーローコールが4分の3馬身差で4着。
                                   
 優勝したライトウォーリアは一昨年の勝島王冠以来の勝利で南関東重賞3勝目。それ以降は勝てていなかったのですが,それは重賞を中心に使っていたためで,連覇を狙った勝島王冠は2着でしたから,能力が衰えていたわけではありません。このレースは少頭数でかなり拮抗したメンバー構成となりましたが,たぶん能力は最上位で斤量もやや恵まれているように思えたので,最有力候補と思っていました。本質的にはもう少し短い距離の方がよいのでしょうが,このレースのように自身の力を十全に発揮すれば,このくらいの距離までは我慢できるということなのでしょう。重賞も狙える馬だと思っています。母の父はディープインパクト。従弟に2020年の京都2歳ステークスと2021年の青葉賞を勝っている現役のワンダフルタウン
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手東京記念以来の南関東重賞33勝目。第52回以来となる8年ぶりの報知オールスターカップ2勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は南関東重賞23勝目。第58回以来となる2年ぶりの報知オールスターカップ2勝目。

 『スピノザー読む人の肖像』の第1章では,さらにデカルトRené Descartesの有名な命題である,我思うゆえに我ありcogito, ergo sum,という命題の解釈の仕方について触れられています。
 この命題は,そのまま解すると,三段論法にみえます。すなわち,私は思うという第一命題があり,ここには現れていない,思うということはあることであるという隠された命題が前提として含まれていて,そのゆえに,我はあるという結論が生じるというようにです。しかしよく知られているように,この命題は実はこのような三段論法ではありません。他面からいえば,この命題を成立させるために,思うということはあるということだという前提条件が隠されているわけではないのです。國分がここで指摘しているのは,この命題が実際には三段論法ではないということを最初に明示したのがスピノザであるということです。そこでここでは,なぜこの命題が三段論法であるとはいえないのかということと,ではこの命題をどのような命題であると解するべきなのかということを,デカルト自身の考え方およびスピノザのそれに対する解釈法を踏まえながら,順に検証してくことにします。
 まず考えておかなければならないのは,少なくとも我思うゆえに我ありという命題は,デカルト自身がある問題の結論として提出したものであるということです。ですからデカルトはこのような解答を出すための問いを抱えていたということです。命題の結論部分は我ありという部分にあるので,その問いは我があるということを正しく証明せよという類のものであったと考えられるかもしれませんが,実際にデカルトが解答しようとしていたのはそのような類の問いではないのです。というか,デカルトが抱えていた問いがそのような問いであったと解するならば,むしろ解答として提出されたこの命題は,三段論法として解答されていると間違えてしまうでしょう。だから,デカルトが何を問おうとしていたのかということを確認しておかなければなりません。
 最初に結論からいうと,デカルトは絶対的に正しいといえる事柄は何かということを問おうとしていたのです。我思うゆえに我ありは,その問いに対する解答なのです。
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