第四部序言の中で,スピノザが人間の本性の型を,善悪および完全性perfectioとどのように関係づけているのかということ,そしてスピノザにおける完全性の考え方は優越性の否定と関連しているということはすべて説明することができました。そこでフロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』でスピノザについて言及している部分の妥当性を改めて考察していくことにします。だいぶ時間が経ってしまいましたので,すでに考察した部分の復習も含めて,言及の全体を最初のところからみていくことにします。
まずフロムは,スピノザの自然Naturaにおけるあらゆる事物の際立った働きと目標を考察し,およそそれ自体において存在するものは,その存在existentiaを維持しようと努めるconariものであるという答えを出しているといっています。文章全体は異なっていますが,ここでフロムが援用しているのが第三部定理六であるのは間違いありませんし,実際に脚注もそのようになっています。文章全体の相違は翻訳の問題もあるでしょうからここでは不問に付します。ただし,フロムがこれをあらゆる事物の際立った働きactioと目標の考察であるという点には異を唱えることもできます。ここでフロムが働きということで何をいわんとしているのかは不明ですが,スピノザの哲学では働きというのは能動actioを意味します。しかし第三部定理六のコナトゥスconatusというのは第三部定理七でいわれているように各々の事物の現実的本性actualem essentiamなのであって,それは事物が能動の状態にあるか受動passioの状態にあるかは無関係に成立します。これは第三部定理九および第三部定理一から明白だといえます。
とはいえ第三部定理六は,能動状態において成立しないというわけではありませんから,そこのところはフロムが大きく間違ったことをいっているとは僕は思わないです。実際に第四部定義八は,徳virtutemと能動を等置しているわけですから,第三部定理六が人間における徳と関連付けて説明される場合には,確かに第三部定理六は.あらゆる事物の働きに関連する考察であるといえるからです。しかしそれが目標に関連する考察であるという点は,もっと考えておかなければなりません。徳が目標であるということは間違っていないとしても,第三部定理六で努めるといわれるとき,それは努力を意味するわけではないからです。
以前にも指摘したことがありますが,スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論において,デカルトRené Descartesとスピノザの間にある確実性certitudoの指標の差異を説明した上で,明らかに自説を主張しているようにみえます。本来は『デカルトの哲学原理』は,デカルトの哲学の解説書ですから,デカルトの主張にそぐわないことがいわれるのは好ましくありません。好ましくないというより,あってはならないといってよいと思います。もちろんスピノザは用心深く,たとえ自説ではあってもそれがデカルトの哲学の中でも成立する説であるというように説明しているのですが,少なくともデカルトが確実性の主張から神の観念idea Deiを除外することはないのであって,僕にはスピノザがデカルトの哲学の解説書としては行き過ぎた地点まで踏み込んでしまっているように思えます。ただしそれはあくまでもデカルトの哲学の解説書としてはという意味で,僕自身は確実性の指標が十全な観念idea adaequataそのものであって,それ以外の観念を必要とはしないというスピノザの主張に同意します。考察の中で例示した,平面上に描かれた三角形の内角の和についていえば,知性intellectusが平面上に描かれた三角形を十全に認識するcognoscereのであれば,その知性は同時にその図形の内角の和が二直角であるということを肯定するaffirmare意志作用volitioを有するのであり,この観念と意志作用のセット,これは第二部定理四九によってセットなのですが,このセットの観念,すなわち平面上に描かれた三角形の十全な観念の観念idea ideaeもその知性のうちにあることになり,そのことでその知性はその知性が形成している平面上に描かれた三角形について確実であることができると僕は考えます。
スピノザにとっての確実性にはもうひとつだけ残された問題があります。ここまで説明してきたことからいえるのは,知性がXについて確実であるのは,その知性のうちにXの十全な観念があるという場合です。したがって別のもの,たとえばYについて確実であるためには,Yの十全な観念が知性のうちにある場合ということになるでしょう。このことから帰結するのは,何であれ何かについて確実であるためには,そのものを十全に認識しなければならないということです。
まずフロムは,スピノザの自然Naturaにおけるあらゆる事物の際立った働きと目標を考察し,およそそれ自体において存在するものは,その存在existentiaを維持しようと努めるconariものであるという答えを出しているといっています。文章全体は異なっていますが,ここでフロムが援用しているのが第三部定理六であるのは間違いありませんし,実際に脚注もそのようになっています。文章全体の相違は翻訳の問題もあるでしょうからここでは不問に付します。ただし,フロムがこれをあらゆる事物の際立った働きactioと目標の考察であるという点には異を唱えることもできます。ここでフロムが働きということで何をいわんとしているのかは不明ですが,スピノザの哲学では働きというのは能動actioを意味します。しかし第三部定理六のコナトゥスconatusというのは第三部定理七でいわれているように各々の事物の現実的本性actualem essentiamなのであって,それは事物が能動の状態にあるか受動passioの状態にあるかは無関係に成立します。これは第三部定理九および第三部定理一から明白だといえます。
とはいえ第三部定理六は,能動状態において成立しないというわけではありませんから,そこのところはフロムが大きく間違ったことをいっているとは僕は思わないです。実際に第四部定義八は,徳virtutemと能動を等置しているわけですから,第三部定理六が人間における徳と関連付けて説明される場合には,確かに第三部定理六は.あらゆる事物の働きに関連する考察であるといえるからです。しかしそれが目標に関連する考察であるという点は,もっと考えておかなければなりません。徳が目標であるということは間違っていないとしても,第三部定理六で努めるといわれるとき,それは努力を意味するわけではないからです。
以前にも指摘したことがありますが,スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論において,デカルトRené Descartesとスピノザの間にある確実性certitudoの指標の差異を説明した上で,明らかに自説を主張しているようにみえます。本来は『デカルトの哲学原理』は,デカルトの哲学の解説書ですから,デカルトの主張にそぐわないことがいわれるのは好ましくありません。好ましくないというより,あってはならないといってよいと思います。もちろんスピノザは用心深く,たとえ自説ではあってもそれがデカルトの哲学の中でも成立する説であるというように説明しているのですが,少なくともデカルトが確実性の主張から神の観念idea Deiを除外することはないのであって,僕にはスピノザがデカルトの哲学の解説書としては行き過ぎた地点まで踏み込んでしまっているように思えます。ただしそれはあくまでもデカルトの哲学の解説書としてはという意味で,僕自身は確実性の指標が十全な観念idea adaequataそのものであって,それ以外の観念を必要とはしないというスピノザの主張に同意します。考察の中で例示した,平面上に描かれた三角形の内角の和についていえば,知性intellectusが平面上に描かれた三角形を十全に認識するcognoscereのであれば,その知性は同時にその図形の内角の和が二直角であるということを肯定するaffirmare意志作用volitioを有するのであり,この観念と意志作用のセット,これは第二部定理四九によってセットなのですが,このセットの観念,すなわち平面上に描かれた三角形の十全な観念の観念idea ideaeもその知性のうちにあることになり,そのことでその知性はその知性が形成している平面上に描かれた三角形について確実であることができると僕は考えます。
スピノザにとっての確実性にはもうひとつだけ残された問題があります。ここまで説明してきたことからいえるのは,知性がXについて確実であるのは,その知性のうちにXの十全な観念があるという場合です。したがって別のもの,たとえばYについて確実であるためには,Yの十全な観念が知性のうちにある場合ということになるでしょう。このことから帰結するのは,何であれ何かについて確実であるためには,そのものを十全に認識しなければならないということです。
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