スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

春日賞争覇戦&諸悪の根源

2018-02-25 20:36:11 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは早坂‐竹内の宮城,武田‐河野の茨城,永井に香川,三谷竜生‐三谷将太‐稲垣の近畿。
 早坂がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に三谷竜生,6番手に武田,8番手に永井で周回。残り3周のホームで武田から上昇。これに併せて三谷竜生も発進。早坂は引きました。三谷竜生が誘導の後ろに入って武田は外。さらにその外を永井が上昇。バックで誘導を斬ったのは永井。武田が香川の後ろに入り,三谷竜生は河野の後ろに。早めに引いた早坂はこの隊列になってから残り2周のホームの入口から発進。打鐘で永井を叩いて早坂のかまし先行に。叩かれた永井は動けず,ホームから武田が発進。しかしバックで竹内の牽制を受けて失速。後ろからになった三谷竜生はこのあおりを受けたもののよく立て直して再び踏むと,竹内を捲り切って近畿勢の争いに。それぞれの差は詰まったものの並びは変わらず,優勝は三谷竜生。三谷将太が半車身差で2着。稲垣が1車輪差の3着で近畿勢の上位独占。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は高松記念以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは三谷竜生がどのような走りをするのかが焦点。自分が勝つようなレースをすればラインの厚みが生きそうですし,逆に後ろを引き出すようなレースをすれば稲垣が突き抜けるという結果まであるのではないかとみていました。どのような展開になると予想していたかは分かりませんが,結果的には自分が勝てる展開に。力を出しきった上での優勝で,こういう勝ち方は価値が高いと思います。

 第四部定理四五でいわれている事柄についてもうひとつ目を向けておきたいことがあります。それはこの定理Propositioにおいて,憎しみodiumが善bonumではあり得ない,すなわち有益ではあり得ないといわれているのであって,それ自体で悪malumである,つまりそれ自体で有害であるとはいわれていないことです。確かにスピノザの哲学における善悪は,複数のもの比較の上で成立する概念notioですが,あるものが善あるいは有益ではないからといって,それは悪であるすなわち有害であると断定できるものではありません。実際にあるものは僕たちにとって,善ではないけれども悪でもないということ,いい換えれば有益ではないけれども有害でもないということは大いにあり得るからです。したがってこの定理はその文言自体でいえば,憎しみ,といっても第四部定理四五備考にもあるように,それは人間の人間に対する憎しみに限定されるわけですが,そうした憎しみについて絶対的な意味で否定しているわけではなく,部分的に否定しているにすぎないと解する余地があることになります。
                                
 結論からいえば,スピノザは人間の人間に対する憎しみを部分的に否定しているのではなく,絶対的に否定していると僕は解します。いい換えればある人間がほかの人間を憎むことは,当事者だけでなくて人間全体にとって有害であるといっているのであり,有益なことではあり得ないといっているのではないと解します。もっとも僕はすでに示したように,スピノザは憎しみについては一律的に否定していると解しているのですから,この定理の文言を僕がそう解するということは,当然といえば当然であるかもしれません。
 ではなぜスピノザはここで,それを絶対的な否定とはっきりと解せるような文言では記述せず,部分的な否定とも解せるような記述の仕方をしたのでしょうか。このことについては僕は確たることはいえませんが,スピノザは人間全体にとって有害であること,いい換えれば人間全体にとっての悪である事柄の根源的な感情affectusとして憎しみをみていたからではないかとは思います。いい換えれば絶対的な否定を産出する諸悪の根源の感情として憎しみをみていたのではないかと思うのです。
コメント
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