スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

小橋建太&ライプニッツの真理の規定

2015-02-01 19:19:16 | NOAH
 馬場の小橋への指導の内容から明らかなように,少なくともプロレスラーとしてデビューした後は,馬場は小橋に大きな期待をかけていたのは間違いないものと思います。小橋はその期待に沿うように,見事にトップレスラーの仲間入りを果たしましたが,そこまでの道のりは平坦なものではなかったと思います。
 小橋にチャンスが訪れたのは,やはり天龍源一郎が全日本プロレスを離脱してからだといえるでしょう。直後の東京都体育館で素顔に戻った三沢が超世代軍を結成。谷津嘉章やカブキなど,多くのベテランも全日本を去りましたので,自動的にメーンで戦う機会も増えました。ただしこの時点で三沢のパートナーは川田でしたから,メーンで試合をすることもあったというだけで,まだトップレスラーとは認められていなかったように思います。
 ジャンボ・鶴田がセミリタイアした影響で川田が超世代軍を離脱し,田上明と組むようになると,三沢のパートナーに。ここで本当の意味でトップの仲間入りを果たすことができたといえるのではないかと思います。四天王と秋山を加えた,全日本の最良の時代のことです。ただ,三沢のパートナーであるうちは,トップのひとりではあり得ても,本当のトップにはなり得ません。後にバーニングを結成して秋山をパートナーにしたのは,僕はプロレスラーとしては正しい選択であったと思います。
 でも,小橋の全盛期というのは全日本の時代ではなく,NOAHに移籍してからということになるでしょう。絶対王者としてGHCヘビーのベルトを防衛し続けていた時期が,プロレスラーとしての小橋の絶頂期であったと思いますし,これは多くの方が同意してくれるのではないでしょうか。NOAHの旗揚げは,このことだけをとってみても,大いに意義あることだったと僕は思います。
 プロレスラーですから怪我は仕方がありません。それが小橋の能力を殺いだとしたら,厳しい見方ですがそこまでの選手だったと僕は思います。ただ,病気はとても残念でした。あれがなかったら,NOAHの歴史は大きく変わっていた筈なのです。

 実際にはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,可能世界の選別を,スピノザの哲学でいう事物の本性essentiaに依拠して行っているわけではありません。正直に告白すると,この部分のライプニッツの主張をどう解するのが正確なのかが僕には分かりません。ただ,僕がスピノザ主義者として解釈した場合には,以下のようになります。
 何らかの命題文があります。これは純粋な文章命題であって,何が表現されているか問われません。こう仮定した場合には,文法の規則が問題となるのですが,それをやるのは面倒なので,この命題文はその言語の文法に適合していると前提します。つまり文章の表現内容がいかにおかしなものであったとしても,意味は通じる命題であると前提します。
 このとき,この命題文の表現内容の主語が述語を正確に含んでいるとき,それは真理veritasであるとライプニッツは解するようなのです。つまり何が真理であり,何が真理ではないかということを,ライプニッツはこのような純粋な命題文から決定するようなのです。ことばと観念は異なるというのがスピノザ主義の姿勢ですから,僕はこれ自体に不服ですが,今はこの点は無視しておきます。
 このような条件が満たされるとき,この命題文の表現内容は,どんなモナドMonadeのうちにも実際に形として,スピノザ主義的にいうと,ここでいう形というのは延長の属性Extensionis attributumだけを意味するわけではなく,ほかのあらゆる属性にも妥当するという意味ですが,形として実際に表現されますexprimuntur。つまり真理はどのモナドのうちでも真理です。他面からいえば,この真理に反するような内容を有する可能世界というのをライプニッツは認めません。
 では,命題文の主語が述語を正確には含んでいないような場合は虚偽falsitasであるのかといえば,そうではありません。その場合にはライプニッツはそれを真偽不明と判断するようです。命題文の主語と述語との関係は,主語が述語を正確に含むという場合に対しては,正確には含まないという場合があるだけです。したがって,ライプニッツは虚偽の存在existentiaを認めていないように僕には思われます。ライプニッツにとっては,真理である事柄か,真偽不明の事柄だけが存在するようです。
コメント
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