スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典かしわ記念&綜合的方法

2019-05-07 18:51:12 | 地方競馬
 昨日の第31回かしわ記念
 インティは半馬身ほど立ち遅れました。すっと先頭に立ったコウエイエンブレムを押して外から抜き去ったドリームキラリの逃げ。向正面に入ったあたりで3馬身ほどリードをとりました。控えたコウエイエンブレムが2番手で巻き返したインティが3番手。その後ろにモーニンとゴールドドリーム。そしてキタサンミカヅキとオールブラッシュ。以下はアサヤケ,アポロケンタッキー,レヴァンタール,コスモマイギフトの順で差がなく続きました。前半の800mは50秒0のミドルペース。
 向正面の半ばからオールブラッシュが上昇していってレースが動きました。インティはうまく対応し,オールブラッシュを前には出させず,3コーナーを回って前の2頭も抜いて先頭。オールブラッシュを行かせてから後を追ったゴールドドリームが3番手になり,この3頭が雁行でコーナーを通過していきましたが,直線に入る手前ではオールブラッシュは脱落し,ゴールドドリームが単独の2番手に。直線に入り,一旦はインティがゴールドリームとの差を広げたのですが,そこで一杯になり,フィニッシュまで伸びたゴールドドリームが差し切って優勝。インティが1馬身半差で2着。大勢が決した後で大外から追い込んできたアポロケンタッキーがオールブラッシュを差して2馬身差の3着。
                                   
 優勝したゴールドドリームは昨年の帝王賞以来の勝利で大レース5勝目。第30回に続く連覇でかしわ記念は2勝目。ここはインティが勝つかゴールドドリームが勝つかというレース。インティは立ち遅れてしまい,オールブラッシュが早めに捲ってきたため,その段階で動かざるを得なくなり,展開的にはやや不利でした。経験値もゴールドドリームの方が上でしたから,そうした点が総合的に影響し,ここはゴールドドリームに軍配が上がったということでしょう。この2頭は今後も先着したりされたりという関係が続いていくのではないかと思います。父はゴールドアリュール
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は天皇賞(春)に続いての大レース制覇。かしわ記念は連覇で2勝目。管理している平田修調教師は帝王賞以来の大レース7勝目。かしわ記念は連覇で2勝目。

 予測の正しさを導くために,『エチカ』ではなく『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を用います。これは『エチカ』では方法論に関する言及は,帰納法は本末転倒で,演繹法でなければならないという主旨のことだけしかいわれていないからでもありますが,『デカルトの哲学原理』は『エチカ』完成以前の著作と解するべきで,スピノザがその頃からそういう考え方を有していたということを証明することに役立つ上に,そこでははっきりと数学的方法として明示されているからです。
 『デカルトの哲学原理』は,スピノザによるデカルトRené Descartesの哲学の再構成でした。それはデカルトが分析的に述べている事柄を,綜合的に書き換えたものです。この綜合的方法こそ,定義Definitioと公理Axiomaから諸々の定理Propositioを証明していくという方法であり,スピノザがそれをデカルトの哲学に対して行ったのは,カセアリウスJohannes Caseariusを満足させるためという意図もあったでしょうが,スピノザ自身がその方法の方が優れていると考えていたからです。
 このことはその序文から明らかなのですが,序文を援用するからには先に明らかにしておかなければならない点があります。というのも序文については記述者はスピノザではなく,『デカルトの哲学原理』を出版するに際して多大な金銭的援助をしたとみられるマイエルLodewijk Meyerだからです。つまり,マイエルがそのように書いている以上,それはマイエルの考え方であり,スピノザの考え方とは異なっているという見方ができないこともありませんし,そうした主旨の反論を招くおそれもあります。ですからまず,そこでマイエルの書いていることはスピノザの考えであること,あるいはマイエルと一致しているスピノザの考え方でもあるということを,明白にしておきましょう。
 『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されているスピノザとマイエルの間の書簡は,スピノザがマイエルに送った2通に限られます。しかもそのうち遺稿集Opera Posthumaに掲載されたのは1通だけで,もうひとつは後に発見され,加えられたものです。マイエルは遺稿集の編集者のひとりであって,編集者として自分との書簡を掲載するのを遠慮したのかもしれません。たぶん未掲載で未発見の書簡も存在したものと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする