スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

モーニン&神への依拠

2024-02-22 19:40:42 | 名馬
 雲取賞を逃げ切ったブルーサンの父はモーニンです。英語表記はMoaninで,ジャズの楽曲名。6代母がオールフォーロンドンの3代母にあたる同一牝系です。
 デビューは3歳の5月と遅くなりました。そのデビュー戦を勝つと500万,1000万,1600万まで4連勝。重賞初挑戦となった武蔵野ステークスこそ3着に敗れましたが,年が明けて根岸ステークスで重賞初制覇。さらにフェブラリーステークスを勝って7戦6勝という戦績で大レースの勝ち馬になりました。
 ところがここから苦難が始まります。かしわ記念で8着と初の大敗。日本テレビ盃は2着になったものの武蔵野ステークスが7着でチャンピオンズカップも7着。5歳初戦のフェブラリーステークスも12着でした。かしわ記念が3着,さきたま杯が2着と復調の兆し。しかし秋は日本テレビ盃が4着で武蔵野ステークスが9着。芝の阪神カップに出走するも6着でした。
 6歳初戦も芝の阪急杯で16着。3月にダートのオープンに出走して久々の勝利をあげました。かしわ記念は6着。9月に韓国に遠征してコリアスプリントを勝ったもののJBCスプリントは4着でした。
 7歳も現役を続行。根岸ステークスは4着,フェブラリーステークスも4着。かしわ記念が7着でさきたま杯が5着。秋に芝のセントウルステークスに出走して9着。スワンステークスで18着となり,現役を退きました。
 デビューしてから翌年のフェブラリーステークスまでと,それ以降では別の馬のようでした。能力のピークをわりと早く迎えてしまい,それ以降は重賞では厳しいというレベルまで落ち込んでしまったという馬です。

 スピノザの哲学では,Deusが存在するということより,僕たちが神の十全な観念idea adaequataを有するということが優先されます。優先されるというのは,そちらの方が僕たちにとって重要であるという意味です。なので僕はここではそのスピノザの路線に沿って説明しますが,この場合はデカルトRené Descartesの哲学における確実性certitudoは,知性intellectusのうちに神の十全な観念が存在するということに依拠することによって保証されます。つまり,現実的に存在する人間の知性のうちにXの十全な観念があると仮定すれば,ただそのことによってその人間はXについて確実であることはできません。その同じ人間の知性のうちに,神の十全な観念があることによって,その人間はXについて確実であるということを知ることができるというようになっています。繰り返しになりますが,デカルトは神の観念idea Deiを有することの方が神が存在することよりも僕たちにとって重要であるというように考えていませんから,デカルトの確実性の説明がこのようになっているというわけではありません。あくまでもスピノザの哲学に沿った解釈であると理解してください。
                                   
 スピノザにとっての確実性というのはこのようなものではありません。確かに第二部定理一一系にあるように,現実的に存在する人間の知性は神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiですから,その点では僕たちにとっての確実性が神に依拠しているといえないわけではありません。ただそれは,たとえばAという人間の精神mens humanaが存在するなら,それはAの精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神の思惟の属性Cogitationis attributumであるという意味なのであって,確実性そのものが神に依拠しているわけではありません。むしろ,Aの知性のうちにXの十全な観念があるのであれば,Xの十全な観念の観念idea ideaeもAの知性のうちにあるのだから,それでAはXについて確実であることができるといわれているのですから,Xについての確実性が,デカルトのいうような意味で神に依拠していないということは明白でしょう。このことは,Aの精神のうちに神の十全な観念があるかないかということとは関係なく成立するからです。つまり神を十全に認識していなくても,僕たちは確実であることができるのです。
コメント
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