スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

働きと目標&本性

2022-06-10 19:07:38 | 哲学
 『人間における自由Man for Himself』では,冒頭部分だけでなく,本文の中でもスピノザに言及されている箇所があります。適切な言及であると思われる部分が多いですが,僕からすれば不適切ではないかと思える言及も含まれていますので,それぞれの個所を紹介しておきます。ただし,フロムErich Seligmann Frommがそこで何をいわんとしているのかということは無視して,フロムによるスピノザの解釈の正当性にのみ関連して記述していきます。
                                        
 スピノザに対するまとまった言及が最初に出てくるのは,第二章の4節です。ここではまずスピノザによる人間の働きについての言及があります。それが第三部定理七に依拠されています。人間の働きをこの定理Propositioだけに依拠してよいのかは何ともいえませんが,そのことを問題とする必要はありません。フロムが重視しているのは,この定理に依拠することによって,スピノザは,人間の働きとか人間の目標というものが,人間以外のあらゆる事物と異なったものではないといっているという点にあるからです。スピノザが人間の目標というものを明示しているのかどうかは別として,この解釈自体は妥当なものであるといえます。第三部定理七は,人間,現実的に存在する人間にだけ妥当するものではなく,自然Naturaのうちに現実的に存在するあらゆるものに妥当する定理であるからです。一方,スピノザは人間の徳virtusの基礎というのをこの定理においていました。ということは,この定理は一般的に徳の基礎であるということになるでしょう。したがって,たとえば馬にとっての徳というものがあるとすれば,その馬の徳の基礎はこの定理にあるということになるのです。同様に,もしも三角形に徳というものがあるのであれば,三角形の徳の基礎もまたこの定理にあるということになるでしょう。だからスピノザは人間の働きや目標といったものを,人間以外の事物とは異なっていないといっているのです。つまりこの部分でフロムが働きとか目標といっている事柄を,徳と解すれば,この点に関連するフロムによるスピノザの解釈は妥当であるということになるのです。
 働きと目標を徳に置き換えることも,大きな問題を引き起こすわけではありません。フロム自身がこれをいった直後に,スピノザが何を徳といっているのかということに言及しているからです。

 シュトラウスLeo Straussがスピノザのいう徳virtusに対して抱いていたであろう疑問,あるいは一般的に共有されるであろう懸念に対する解答はこれですべてです。ただ僕は,スピノザの哲学で徳というとき,気を付けておかなければならないことがあると考えています。これはスピノザ自身が指摘していることではありませんから,僕の見解opinioになるかもしれませんが,僕は重要なことと思っていますから,ここで指摘しておきます。
 一般に哲学で事物の本性essentiaといわれるとき,それは事物の形相formaを意味しています。どのような事物にも不変の本性があって,それによって事物の形相を不変的なものとして考えることができるというのがそういった解釈の一般例であるといえるでしょう。
 僕はスピノザがこの考え方を否定しているとは考えていません。ただスピノザの哲学で事物の本性といわれる場合は,それよりも広くわたっていると考えなければならないとも考えています。つまり確かに事物の本性というのは事物の形相のことを意味するのであり,とりわけ事物が第二部定理八でいわれている,神の属性Dei attributisの中に含まれている形相的本性essentiae formalesとしてみられるとき,この哲学の一般的な解釈はスピノザの哲学にも妥当すると僕は考えます。ですがスピノザの哲学で本性といわれるときは,この種の形相的本性だけを考えればよいというものではないと僕は考えているのです。
 第二部定義二によれば,ある事物はその本性がなければあることも考えることもできないものであるのと同時に,ある事物の本性はその事物がなければあることも考えることもできないものとなっています。つまり事物の形相と事物の本性はふたつでセットであって,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えることもできないものです。これはスピノザの哲学における本性の,ほかの哲学とは異なった特徴のひとつなのですが,その点はここでは置いておきましょう。ここではこの定義Definitioから帰結する意味として,事物の本性は事物の存在existentiaを鼎立するのであって,事物の存在を排除することはないということがあるということを重視します。それがあることとというのは,それが存在するという意味なのです。
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