スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦コナミグループ杯&欺瞞者

2024-02-05 19:02:47 | 将棋
 新川文化ホールで指された昨日の第49期棋王戦五番勝負第一局。対局開始時点での対戦成績は藤井聡太棋王が6勝,伊藤匠七段が0勝。
 振駒で藤井棋王の先手となり角換わり相腰掛銀。後手の伊藤七段が4筋に飛車を回る将棋になりました。
                                        
 後手はここから☖3五銀と上がり☗9三歩成に☖3六角と打ちました。これは先手玉を寄せるのは諦めて入玉を目指す指し方。先手はほぼ入玉が確定しているのに対して後手玉は寄せられるおそれが残り,駒も足りるかどうか不明な状況なのですが,この局面では正しい判断でした。相入玉になり,わりと短手数での持将棋が成立しました。
 棋王戦の持将棋は1局が完結するとのこと。したがって指し直し局はなく,第二局が伊藤七段,第三局が藤井棋王の先手ということになるようです。第二局は24日に指される予定です。

 これは,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であるということに限定されるわけではありません。この種の数学的真理に関しては,それらのすべてを疑うことができるとデカルトRené Descartesはいうのです。詳細は省きますが,デカルトはこの種の事柄を疑い得る理由として,自分が夢を見ているかもしれないということや,神Deusが欺瞞者としてがデカルト自身を騙そうとしているかもしれないということをあげています。
 僕からすれば,このようなことまでいい出したらきりがないように感じられます。少なくとも,自分が夢を見ているかもしれないということはともかく,神が欺瞞者であるというのであれば神が欺瞞者であるということの理由が必要であって,しかしその積極的な理由を提示することは不可能であるとしか思えません。ただ,このような仕方ですべてを疑い得るというように解したこと自体は,デカルト自身にとっては有意義なことであったとは思います。というのは,あらゆる事物がこのような様式で疑い得るのであるとすれば,僕たちがこの様式で正しいと判断していることのすべては疑い得る事柄である,つまり絶対的に正しいといえる事柄ではないということが結論されるので,もしも疑い得ないこと,つまり絶対的に正しいと断定することができる何らかの事柄がデカルトにあるのであるとすれば,それはこのような様式とは別の様式によってデカルトのうちに発生するであろうということを,デカルト自身は知ることになったと思うからです。
 ここではスピノザの哲学に沿って説明します。
 僕たちの知性intellectusが,知性の外に形相的にformaliterある何らかの事物,たとえばAを認識するcognoscereとしましょう。このときAを認識する知性のうちには,Aの客観的有esse objectivumすなわちAの観念ideaが発生することになるのです。デカルトがいっているのは,このときAの観念がAの十全な観念idea adaequataであるというように知性が判断するとしても,それは神が欺瞞者としてその知性を騙そうとしている,つまりAの混乱した観念idea inadaequataをAの十全な観念と思わせているという疑いdubitatioが成立するので,知性のうちにあるAの観念がAの十全な観念であるということは,絶対的に正しいとはいえないということです。
コメント
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