スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
函館記念の決勝 。並びは嵯峨‐新田の北日本に東口,犬伏‐小倉‐西田の四国中国,嘉永‐中本の熊本で和田は単騎。
新田がスタートを取って嵯峨の前受け。4番手に和田,5番手に犬伏,8番手に嘉永で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。前を叩きにいくのではなく,犬伏の外で併走しました。嵯峨は誘導との車間を開けてペースを落とし,後続が叩きに来るのを待ち構えていたのですが,犬伏と嘉永の併走が続いたまま残り2周のバックへ。ここで犬伏が引き,嘉永が5番手,犬伏が7番手に入れ替わって打鐘。打鐘を迎えても嵯峨はペースを上げませんでした。引いた犬伏は打鐘後のコーナーから発進。嵯峨が合わせようとしたもののスピードが違いすぎ,ホームであっさりと犬伏が叩きました。しかし小倉がマークしきれなかったので単独でのかまし先行に。嘉永も発進し,犬伏との差を詰めにいくと,中本が離れたので,自力に転じた新田が少し離れて追う形に。直線に入って犬伏を差した嘉永が優勝。追った新田が2車身差で2着。かました犬伏が4分の3車輪差の3着に残り,新田マークの東口が1車輪差で4着。
優勝した熊本の嘉永泰斗選手は4月に松戸でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年10月の熊本記念 以来となる2勝目。このレースは犬伏と嘉永が相互に牽制し合ったので,前受けから叩かれなかった嵯峨と新田にとっては絶好の展開で,本来ならば嵯峨の先行から新田の差しあるいは番手捲りとなる筈でした。ところが嵯峨がなかなかペースを上げなかったために,犬伏にあっさりとかまされることに。これは明らかに嵯峨の失敗で,新田の前を走る以上は,打鐘からは後ろを気にせずにピッチを上げるべきだったと思います。かましにいった犬伏はいいレースをしたと思いますが,小倉が離れてしまったのは大きな誤算だったでしょう。マークしていれば嘉永に対して何らかの抵抗ができたでしょうから,四国中国勢にとってはチャンスを逸したという感が残ります。もちろん捲って2車身の差をつけた嘉永も強い内容でした。
スピノザの哲学では,力 potentiaの反対が無力impotentiaといわれ,僕もそのような意味で力といいまた無力といいます。ただ,無力というのは,文字通りに力がないという意味であるわけではないということがここから理解できます。力というのは,第四部定理四系 でいわれている,僕たちが隷属している力に対して,僕たちの本性 essentiaのみによって説明される力が上回っている場合にいわれるものです。つまり,たとえばAが現実的に存在しているとして,Aに力があるといわれるのは,Aの本性のみによって説明される力が,Aが働きを受けている力より大きい場合のことを意味します。したがって,Aの本性のみによって説明できる力をAが発揮しているとしても,それが働きを受けている力を上回っていない場合,つまりAに作用しているAの外部の物体corpusの力の方が大きい場合は,Aには力があるとはいわれません。そしてこの場合にはAは無力であるといわれることになるのです。つまり無力というのは,あるものとほかのものとの比較の上でいわれるのであり,あるものが無力であるといわれるからといって,そのものが一切の働きをなしていないということを意味するのではありません。現実的に存在する人間は受動的である限りは無力であるといわれなければなりませんが,能動actioと受動passioが全体のバランスの中で判断されなければならないのと同じように,力と無力もそうしたバランスの中で判断されることになるのです。自由の人homo liberは能動的であり,そのゆえに力がある人間ですが,だからといって一切の受動に隷属していないということを意味するわけではありませんでした。いい換えれば自由の人も部分的には無力です。逆に奴隷は無力といわれなければなりませんが,部分的には力があるという場合もあるでしょう。力と無力はこのように,働く力agendi potentiaと働きを受けるpati力のバランスの上でそういわれるのであって,どちらかが100でどちらかが0であるというわけではないのです。
第三部定理三九 は,さらに僕たちに重要なことを教えてくれます。この定理Propositioのうち,憎しみodiumに駆られてそのものを破壊するなら,それはすべて受動ですが,その受動を避けたからそれが能動だとは断定できません。
兵庫チャンピオンシップ を逃げて圧勝したミトノオー の父はロゴタイプ です。父は2003年に中山記念とマイラーズカップ,2005年にマイラーズカップ,2007年に中山記念を勝ったローエングリン 。祖母が1993年にローズステークスを勝ったスターバレリーナ 。Logotypeは組み合わせた文字を図案化したような書体。
2歳の6月にデビューして勝利。函館2歳ステークス4着,オープン3着,札幌2歳ステークス4着を挟んで11月に東京の特別戦をレコードタイムで勝って2勝目。そのまま朝日杯フューチュリティステークス も勝って大レースを制覇。この年のJRA賞 で最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳初戦のスプリングステークスで重賞2勝目。さらに皐月賞ではエピファネイア を差し切って大レース2勝目。ダービー はキズナ の5着でした。夏の札幌記念に出走して5着。3歳の秋は出走がかないませんでした。
復帰戦となった4歳春の中山記念はジャスタウェイ の3着。遠征したドバイデューティフリー もジャスタウェイの6着。帰国初戦は札幌記念で8着。毎日王冠が6着,マイルチャンピオンシップ が7着で,4歳時は未勝利。
中山金杯でラブリーデイ の2着になった後,ダートの根岸ステークスに参戦して8着。中山記念が2着,大阪杯が5着でこの春のキャンペーンは終了。秋はオールカマーで復帰して4着。富士ステークスが3着でマイルチャンピオンシップ はモーリス の9着。この年も勝利を飾ることができませんでした。
6歳初戦の中山記念はドゥラメンテ の7着。ダービー卿チャレンジトロフィーで2着になると安田記念 ではモーリスの追撃を封じて逃げ切り,大レース3勝目。毎日王冠が8着,マイルチャンピオンシップ はミッキーアイル の5着。2度目の海外遠征となった香港マイル は5着でした。
7歳も現役を続行。中山記念が3着,安田記念 が2着と,春の2戦を終えて現役を退きました。
大レースこそ3勝していますが,戦績からも分かるように,その時代のトップクラスの実力馬だったわけではありません。ただ2歳のデビューから7歳の春まで,大きく負けるということはほとんどないまま現役を終えました。長期にわたって一定の実力を維持し続けたという点が,この馬の最大のセールスポイントではないかと思います。
AがBを自身の悲しみ tristitiaの原因 causaとして意識しているとき,大きな力 potentiaを表現しているのはBであるというより,Aの精神mensのうちにあるBの表象像imagoであると僕は考えます。つまりAの知性intellectusの外に現実的に存在しているBという人間の力が表現されているというより,Aの精神のうちにあるBの表象像の力が表現されていると僕は考えるのです。
スピノザの哲学でいう表象像は,あるものが現実的に存在していると知覚するpercipere混乱した観念idea inadaequataのことです。したがってこの例でいえば,Aの精神のうちに,Bが現実的に存在するという観念があって,この観念がA自身の悲しみの原因となっているとAは認識しています。この認識cognitio,これはBに対するAの憎しみodiumそのものですが,この認識のゆえにAはBを殴打することになります。したがって単純にAからみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像の力と,Bの力を分けることができるわけではないかもしれません。あるいはそれは同じことであるという見解opinioを僕は否定しません。ただそれはあくまでもAからみた場合に限られるのであって,たとえばAとBと別の人間,これはたとえば現にこのことを検討している僕たちという意味ですが,その立場からみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像と,Aという人間とは別の人間として存在しているBという人間は,別のものとして解するのが適切であると僕は考えます。よって,AがBに対する憎しみのゆえにBを殴打するというとき,その力がより多く表現されているのは,BではないしAでもなく,Aの精神のうちにあるBの表象像であると僕は解するのです。
このことから理解できるように,第三部定理三九 で言及されていることのうち,ある人を憎んでいるためにその人に害悪を与えるということが現実に生じるという場合には,憎しみのゆえに害悪を与える人間の,憎んでいる相手に対する表象像の力が最も多く表現されることになると僕は解します。したがって一般に憎んでいる相手に対して害悪を与えるような行為は,害悪を与える人間の力であるとは僕は考えません。正確にいえば,それは力であってもそれよりも大きな力が働いているのであって,この限りでは無力impotentiaだと考えます。
第18回ヴィクトリアマイル 。
ロータスランドが逃げてサウンドビバーチェが2番手。3番手はスターズオンアースとララクリスティーヌとルージュスティリアとソダシの集団。7番手はクリノプレミアムとナミュールとナムラクレア。10番手にソングライン。2馬身差でアンドヴァラナウトとステラリアとディヴィーナ。14番手にスタニングローズ。この後ろに控えていたイズジョーノキセキは行きたがって内から進出。2馬身差の最後尾にサブライムアンセムという隊列。前半の800mは46秒2のスローペース。
直線の入口ではロータスランドとソダシが併走。ソダシがやや外目に進路を取ったので,2頭の間に間隔ができました。ロータスランドは直線では一杯になり,ソダシが単独の先頭に。ソダシの外に出したスターズオンアースとさらに外からディヴィーナが追い上げてきたもののこの2頭はソダシに追いつけず。しかしロータスランドとソダシの間から追ってきたソングラインがソダシとの差を詰め,フィニッシュを前に差し切って優勝。ソダシがアタマ差で2着。スターズオンアースが4分の3馬身差の3着でディヴィーナが1馬身差の4着。
優勝したソングライン は昨年の安田記念 以来の勝利で大レース2勝目。前年の安田記念を勝った馬がこのレースに出てきた場合は勝っていましたので,その傾向と合致する結果。この馬は安田記念を勝った後,昨秋は1戦しかレースを使えず,今年もサウジアラビアでの1戦だけでしたので,順調さを欠いているのではないかという面の不安がありました。しかしここは態勢が十分に整っていたようです。2着馬も3着馬もここでは実績上位の馬たちですから,全体的に順当な決着であったといえそうです。父はキズナ 。母の父はシンボリクリスエス 。祖母の父はアグネスタキオン 。3代母がソニンク 。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念 ,2013年に浦和記念 ,2014年に佐賀記念 を勝ったランフォルセ で5つ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリント とさきたま杯 と東京盃 ,2015年にさきたま杯 を勝ったノーザンリバー 。
騎乗した戸崎圭太騎手は一昨年の全日本2歳優駿 以来となる大レース19勝目。第10回 と11回 を連覇していて7年ぶりのヴィクトリアマイル3勝目。管理している林徹調教師は昨年の安田記念以来の大レース2勝目。
Aが憎しみodiumに駆られてBを殴打するというとき,AがBを殴打する力potentiaより,AのBに対する憎しみの力の方がより多く表現されているということは僕は認めます。なぜかといえば,この場合はAがBを憎んでいるということが原因causaで,AがBを殴打することはその結果effectusと僕はみるからです。憎しみというのは第三部諸感情の定義七 によって外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeです。したがってAの悲しみの原因がBであるとAが認識しているという状態が前提になります。第三部定理三九 は,その悲しみを除去するために,悲しみの原因となっているものに害悪を与えようとするというように証明ができます。したがって,AがBを殴打するという害悪を与えるのは,AがA自身の悲しみの原因がBであると認識しているがゆえのことで,この認識 cognitioがないなら殴打という行為は生じません。あるいは生じるとしてもそれは憎しみとはほかの要因に依拠するといわなければならないでしょう。このことから明白なように,Aが自身の悲しみの原因がBであると認識していること,つまりAがBを憎んでいるということは,AがBに害悪を与える,この場合でいえば殴打するということの原因なのです。
第一部公理四 によって,結果の認識は原因の認識に依存します。したがって,結果が有する力は原因が有する力の中に含まれているといわなければなりません。よって,一般的に原因の力はその結果の力よりも多く表現されるexprimunturことになります。そしてAのBに対する憎しみは,AがBを殴打するとの原因なのですから,AがBを憎んでいるという力は,AがBを殴打するということの力を含んでいます。いい換えればAのBに対する憎しみの力は,その結果としてAがBを殴打するということの力より多く表現されていることになります。なので僕は,AがBを殴打する力より,AのBに対する憎しみの力より多く表現されていると考えます。
AのBに対する憎しみは,AがA自身の悲しみの原因としてBを認識しているという意味でした。これでみればBという原因の力が,Aの悲しみの力よりもより多く表現されているように思われます。僕はこの点については全面的には肯定しません。
6日に名古屋で指された第8期叡王戦 五番勝負第三局。
藤井聡太叡王の先手で菅井竜也八段のノーマル三間飛車。相穴熊 の激戦となりました。
ここで☗同金上と取りました。この手はあまりよい手ではなく,局面は後手がよくなったようです。
後手は☖同金と取りましたが,ここは☖7八金と取る手もあり,それも有力。もしかしたらそちらの方がよかったかもしれません。☗同香に☖2九飛成で駒を補充。
そこで☗2二角と打ちました。おそらく第1図で☗同金上と取ったときからの読み筋であったと推測します。これは8八に利かせる受けの手です。☖5五歩と突かれると意味がなくなってしまうのですが,そう指すと後手の馬も自陣に利かなくなってしまいますので,指しきれなかったようです。☖9五歩と突きました。この手は悪い手ではなかったのですが,☖5七金と催促する方が優ったようです。先手は☗7一歩成。
ここで☖9六歩と取り込んだのですが,これがよくなかったようです。☖同飛と取るべき局面で,この変化ならまだ難解でした。
藤井叡王が勝って 2勝1敗。第四局は28日に指される予定です。
現実的にAという人間が存在していて,Aが別の人間であるBを憎んでいる場合に,AがBを殴打するということは,必ずそうなるというものではないとしても,生じ得る現象であるということが,論理的にも確認されました。
このとき,AがBを殴打するという行為,つまり殴打という行為だけを抽出して考えるなら,それはAの能動 actioであり,Bの受動passioであることになります。これはちょうど,『はじめてのスピノザ 』で説明されている,恐喝の事例と比較すれば分かりやすいでしょう。AがBを恐喝してBが金品を渡すとき,Bは金品を渡しているにもかかわらず,その行為はBの受動とみなされなければならなかったのでした。今回の殴打の事例では,Aが一方的にBを殴打しているのであり,Bは単に殴打されているだけです。恐喝の事例がBの受動であるのは,この部分だけを抽出すれば,Bの力potentiaよりもAの力の方がより多く表現されているからでしたが,AがBを殴打するという部分だけを抽出するなら,Aの力だけが表現されていて,Bの力は何も表現されていないといえるでしょう。ですからこれはAの能動であってBの受動であるといわれなければなりません。
ではAがBを殴打するという行為を全体的に見てそれがAの能動であるといえるのかといえば,そうではありません。ここではAはBに対する憎しみodiumに駆られてBを殴打するということになっていますから,AがBを殴打するというAの身体corpusの徳virtusとみなすことができる力より,AがBを憎んでいる力の方がさらに多く表現されているといわなければならないからです。したがってある意味では,Aが殴打する力より,Aに憎しみを与えているBの力の方がより多く表現されているとさえいえるのです。そしてもしもそのように解するのであれば,少なくともAがBを憎むという点においては,むしろBの能動であってAの受動であるといえるでしょう。そしてその憎しみに駆られてAがBを殴打するのであれば,この殴打という行為自体も,実はAの受動でありBの能動であるということになるでしょう。
僕は上述のような解釈が成立するということは認めますが,その解釈を採用することはしません。
昨晩の第37回東京プリンセス賞 。
ボヌールバローズが先頭に立って内に進路を取っている間に外からまっすぐ進んだポーチュラカが前に出てポーラチュカの逃げに。2番手にボヌールバローズで3番手はサーフズアップ。4番手のメイドイットマムとコアリオとスギノプリンセスまでの6頭は一団。2馬身差でインプローヴィングとデザートウインド。3馬身差でラピスアダマンスとエオリエンヌ。4馬身差でフークエンジェル。4馬身差の最後尾にベストホリデーという隊列。最初の800mは49秒2のハイペース。
3コーナーからボヌールバローズがポーラチュカとの差を詰めていって,3番手を並んで追ってきたメイドイットマムとサーフズアップとの差が4馬身くらいに。直線の入口ではポーラチュカとボヌールバローズが併走となり,ほどなくボヌールバローズが前に出ました。ここからボヌールバローズが蛇行したために,メイドイットマムとサーフズアップの2頭は進路の選択に苦慮。最終的にボヌールバローズの外に出すことができたサーフズアップがボヌールバローズを差し切って優勝。ボヌールバローズが1馬身4分の1差で2着。内に封じ込められたメイドイットマムは1馬身差で3着。
優勝したサーフズアップ はユングフラウ賞 以来の勝利で南関東重賞2勝目。直線で前をいくボヌールバローズが外にいったり内にいったりしたので,進路選択が困難になりましたが,最後の脚をみるとこの馬にはまだ余裕があったようです。結果的に実績上位のメイドイットマムを内に封じ込める形になりましたので,慌ててボヌールバローズを差しにいかなかった騎手の手腕も光ったように感じました。東京2歳優駿牝馬で上位を占めた3頭がここも3着までを占めましたので,結果自体は順当なもの。3頭の能力差はこれまでの結果が示していたほどには大きくないと判断してよさそうです。母の父はゴールドアリュール 。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は前日の羽田盃 に続いての南関東重賞61勝目。第36回 からの連覇となる東京プリンセス賞2勝目。管理している船橋の山下貴之調教師は南関東重賞7勝目。東京プリンセス賞は初勝利。
第四部定理五九備考 で殴打が徳 virtusであるということをいった後でスピノザが示している正確な文言は次の通りです。
「ある人間が怒りもしくは憎しみから拳を固め,あるいは腕を振り下すように決定されるとしたら,そうしたことは,我々が第二部で示したように,同一の行動がありとあらゆる物の表象像と結合されうるがゆえに起こるのである 」。
第四部定理五九 は,現実的に存在する人間が受動感情によって決定される行動に,理性 ratioによっても決定され得るということをいっています。したがってここでスピノザが示したかった主旨は,現実的に存在する人間が受動passioによって決定される殴打という行為に,その人間は能動actioによっても決定され得るということであって,何が能動であって何が受動であるのかや,何を能動と判断し何を受動と判断するべきかということではありません。しかしここでスピノザが,怒りiraとか憎しみodiumといった受動感情によって決定されるとしている殴打という行為,あるいはそうした受動感情に決定されることによって殴打をする人間の,能動と受動の力関係がどうなっているのかは,恐喝の例で説明したのと同じように説明することができます。
まず最初にいっておかなければならないのは,怒りなり憎しみなりによって,怒っているあるいは憎んでいる対象を殴打することは,それ自体では前提することができません。このことは僕たちの経験によればその通りとしかいいようがありませんが,論理的に確認しておく必要があります。そしてその場合は,第三部定理三九 を援用するのがいいでしょう。たとえばAという人間が現実的に存在していて,Bという人間を憎むことによって殴打するということが生じるとすれば,それはBに対して害悪を加えているといえるからです。この定理Propositioは一般に害悪を与えようとするといっているのであって,殴打するといっているわけではありません。ただ,殴打というのは害悪のひとつにはなるでしょうから,このAのBに対する行為はこの定理によって説明できます。憎んでいるから必ず殴打するというわけではありませんが,憎しみによって殴打するというのは,いわば自然現象として起こり得るのです。
昨晩の第68回羽田盃 。
ポリゴンウェイヴが逃げて向正面に入るあたりでは4馬身くらいのリード。2番手にミックファイア。2馬身差でトノパーとサグアロ。5番手にリベイクフルシティとヒーローコール。4馬身差でオーマイグッネスとオピニオンリーダー。3馬身差でブルマリンシェールとラーテル。2馬身差でドラケンとキングオブザナイル。2馬身差でタイガーチャージとサムタイムアゴー。最後尾をコルドゥアンとサベージが併走と縦長の隊列。最初の800mは48秒6のミドルペース。
向正面でポリゴンウェイヴのリードは徐々に縮まっていき,3コーナーではミックファイアが外に並び掛けていきました。コーナーの途中でミックファイアが前に出てポリゴンウェイヴは一杯。先頭で直線を向いたミックファイアを追い上げてきたのはヒーローコールと,向正面から外を追い上げてきたサベージ。しかし直線ではミックファイアがこの2頭との差をさらに離していって楽勝。ヒーローコールが6馬身差で2着。サベージが1馬身半差で3着。
優勝したミックファイア は南関東重賞初出走での優勝。南関東重賞に出走すること自体が初めてだったことから分かるように,確たる実績はありませんでしたが,デビューから3戦して3勝,そのいずれもが楽勝と底を見せていない馬でした。とはいえここが3歳になって初めてのレースで,ブランクがある分,簡単ではないだろうとみていたのですが,とくに問題となりませんでした。2着馬と3着馬がこのメンバーでは実績上位で,走破タイムからして力は出しているものと思います。よってそれらにこれだけの差をつけたこの馬は,相当の能力の持ち主とみなければなりません。少なくとも羽田盃の勝ち馬の平均的な能力はだいぶ上回っているとみて間違いないと思います。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は金盃 以来の南関東重賞60勝目。第58回 ,64回 に続き4年ぶりの羽田盃3勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞7勝目。羽田盃は初勝利。
最後に次のことを注意しておきます。
力 potentiaの表現のあり方に着目した國分の方法は,能動actioと受動passioの説明としてきわめて適したものです。しかしこれは,あるものと別のものの関係に注目することになるので,この関係において一方の能動と他方の受動を規定することができるにすぎません。現実的に存在する人間は,第二部自然学②要請三 にあるように,外部の物体corpusから多様の仕方で刺激されるafficiので,ある特定の物体と特定の関係だけを結ぶわけではないのです。ですからあるものとの関係においては能動と規定されるにしても,ほかの物体との関係においてはそれが受動であるという場合もあるのです。
BがAに銃で脅されることによってAに対して金品を提供するとき,Bが金品を提供する運動はBの徳virtusであるけれど,この関係においてはAの力あるいは銃の力も含めた上でのAの力がBの力よりも多く表現されているので,Bの行動は受動であってAの行動の方が能動と規定されるのです。しかし,だからAが銃で脅してBに金品を提供させるという行為自体が能動であるということになるのかといえば,必ずしもそうではなく,それはこの関係においてのことにすぎません。たとえばAが過度な金銭欲に駆られてBを恐喝するのであれば,Bの恐喝行為はそれ自体ではBの身体corpusの徳であるといえるのだとしても,ここではBの力よりも金銭nummusの力の方が多く表現されていることになりますから,Bの受動であるということになります。つまり同じ行為が,ある関係においては能動であると規定されても,別の関係においては受動であると規定されるという場合があるのであって,実際にある現実的に存在する人間の行動が受動であるか能動であるかを決定するdeterminare際には,その人間の力が全体的に見てどのように表現されるexprimunturのかということを考えなければなりません。一般的にいえば,ある人間が別の人間を恐喝するというようなことは,恐喝される人間にとっての受動であるのはもちろん,恐喝している人間にとっても受動であると規定してほぼ間違いないといっていいでしょう。
このことは,第四部定理五九備考 で,殴打を徳といった後でスピノザがいっていることと同じです。
7日に平塚競輪場 で争われた第77回日本選手権競輪の決勝 。並びは新山‐佐藤‐和田の北日本,脇本‐古性の近畿,犬伏‐清水‐香川の四国中国で山口は単騎。
脇本と古性がスタートを取りにいき,脇本の前受け。3番手に新山,6番手に犬伏,最後尾に山口で周回。残り3周のバックの出口から脇本が誘導との車間を開け始めてペースがスローに。外から犬伏が上昇。山口もこのラインを追走して脇本を叩くと,新山が山口の後ろにスイッチ。脇本が8番手まで引いての一列棒状となってホーム。バックに入ると前に出ていた犬伏がそのまま発進して打鐘。脇本は車間の開いた8番手に置かれました。バックに入ると清水が犬伏との車間を開け,新山が発進するとすぐに番手捲りで対応。山口も自転車を外に出して発進。新山はいききれなかったので佐藤が香川と山口の間に進路を取りました。この佐藤の進路選択でやや外に弾かれた山口が,立て直して直線で外から追い込み,清水を差し切って優勝。清水が8分の1車輪差の2着。佐藤が半車身差の3着に追い込み香川が8分の1車輪差で4着。不発の脇本マークから最内に進路を取った古性が半車輪差で5着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は前回出走の富山のFⅠから連続優勝。グレードレースは2月の施設整備等協賛競輪in伊東温泉 以来の優勝でビッグは一昨年9月の共同通信社杯 以来の2勝目。このレースは脇本の脚力が上位。展開で不発に終わるようなことがあれば,単騎でも山口が優勝候補の2番手ではないかとみていました。新山の先行も可能性としてはあったと思うのですが,犬伏ラインを追走するレースを選択したのがよい判断でした。直線の手前で佐藤に弾かれるような形になったのですが,立て直して差し切ったのは素晴らしかったと思います。犬伏がもう少し余裕をもって走れば清水が山口に差されることはなかったかもしれませんが,その場合は脇本の捲りが届いたかもしれません。脇本を不発に終わらせたのですから,四国中国ラインの作戦は間違いではなかったと僕は思います。
現実的に存在する人間が自由 libertasであることを決定できるのは,その人間だけであって,何かほかのものではありません。つまりだれかがだれかを自由であるようにすることはできませんし,その人間が属している社会societasなり国家Civitasなりがその人間を自由であるようにできるわけではありません。個人がほかの個人に対して,また社会や国家が個人に対してなすことができることがあるとすれば,その個人が自由であることを保障するということ,いい換えればその個人が自由であることの権利jusを侵害しないということだけです。しかしそうした権利が保障されている個人が現に存在するというだけでは,その人間が自由であるということはできません。現実的に存在する人間は様ざまなものから様ざまな仕方で働きを受けているのであり,その働きを受けるpati力potentiaがその人間の本性essentiaのみによって説明する力を上回っている限り,その人間は自由であるとはいえないからです。能動actioと受動passioを力の関係で示す國分の例が,人間の自由についていっているのはこのことになります。恐喝されて金品を渡す人間の力は,恐喝している人間の力を上回っているわけではありません。ですからこれは金品を渡している人間の受動であり,したがってその人間の自由ではないのです。そしてこの例は,恐喝されている人間の自由の権利が侵害されているということを明白に示しているといえるでしょう。でも僕たちが気を付けておかなければならないのは,こうした権利の侵害は,このように分かりやすい形でのみ発生するわけではないという点です。僕たちはそれが自分の自由であると思い込んで,自分の権利を侵害されている場合があるのであって,他面からいえば自分の能動という思い込みによって自身の権利を譲渡してしまうこともあるのです。
僕が自由であることを決定するdeterminareことができるのは僕自身であり,ほかのだれでもありません。それと同じように,あなたの自由を決定することができるのはあなただけなのであって,ほかのだれでもないのです。単に権利が保障されているのだから自分は自由であると思わないでください。自由であることができるのは,その権利を行使する限りにおいてなのです。
4月30日に久留米競輪場 で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝 。並びは朝倉‐橋本‐小林‐岡田の茨城栃木,伊藤‐柿沢の関東,林‐塚本の九州で嵯峨は単騎。
柿沢がスタートを取って伊藤の前受け。3番手に林,5番手に朝倉,最後尾に嵯峨で周回。残り2周のホームの入口の手前から朝倉が上昇していくと林も対応。ホームでは3つのラインが横並びに。間になってしまった林は引かされ,朝倉が伊藤を叩いて打鐘。茨城栃木ラインを追っていた嵯峨は伊藤に絡まれる形になりましたがホームで5番手を確保。6番手に伊藤,8番手に林の一列棒状に。バックに入ると後ろの追い上げを待たずに朝倉の番手から橋本が発進。この番手捲りがものの見事に決まり,橋本が優勝。マークの小林が1車身差の2着。岡田も半車輪差の3着に続いて茨城栃木勢の上位独占。
優勝した茨城の橋本壮史選手はこれがS級での初優勝。この開催は日本選手権に出場しない選手でのものなのでもとより混戦模様。しかも初日の特選にシードされた選手のうち決勝に進出できたのがひとりしかいなかったことでさらに輪を掛けました。その中で茨城栃木勢が4人も決勝に進出し,結束してのレース。叩きにいったときに前受けしていたのが,別のラインとはいえ同じ関東の伊藤で,変に邪魔されることがなかったのも幸いしました。このメンバー構成でこの展開での優勝ですから,GⅢで優勝したからといってすぐに記念競輪での活躍を見込むことはできないのではないでしょうか。
体制によって自由 libertasが保障されている場合,その体制の下で生活する民衆は,自身が何事も自由に決定するdeterminareことができて,現に自由に決定していると表象しやすくなります。とくにそうした民衆が,そうでない社会societas,つまり体制によって自由が保障されていない国家Imperiumの市民Civesと比べた場合,このことは非常に生じやすくなります。しかしこのことは,自由が保障された体制下にある民衆が,実際に自由に物事を決定していることを意味しているわけではありません。このために民主制は長続きしないという一面を有するのです。なぜなら民主制の体制下にある人間は,自分が自由に決定していると表象しがちなので,たとえ自由を放棄する決断をするとしても,それが自身の自由な決定determinatioであるというように表象してしまうからです。要するに現実的に存在する人間は,民主制を放棄して共和制を選択すること,あるいは貴族制すなわち独裁制を選択することについても,それが自身の自由な決定によるものだと思い込むことができるようになっているのです。このために,民主制は容易に共和制にまた貴族制へと変遷していくことになるのです。もちろんこれは民主制が長続きしないことの一面なのであって,現にある民主制がすべてこのような仕方で共和制や貴族制へと変化したというわけではありません。ただ,民主制を放棄すること,もっといえば自身の自由を放棄することも,自身の自由な決定であると思い込むことが,現実的に存在する人間には生じるということは,よく覚えておかなければなりません。そうした危険は現実的に存在している人間である僕たちに常に潜んでいるといわなければならないからです。
スピノザがいう能動的自由 というのは,現実的に存在している人間が十全な原因causa adaequataとなって自身の運動motusと静止quiesおよび思惟作用を決定することをいうのでした。いい換えれば,第四部定理四系 でいわれている僕たちが隷属している力 potentiaに対して,僕たち自身の本性 essentiaのみによって説明することができる力が上回ることをいうのでした。したがって,ある人間が自由であることを決定することができるのはその人間だけです。国家や社会の体制がそれを決定できるのではありません。
昨日の第28回NHKマイルカップ 。クルゼイロドスルは感冒のため出走取消となり17頭。
発馬はあまりよくなかったのですが,巻き返していったフロムダスクの逃げ。2番手はオールパルフェとセッションとユリーシャの集団。2馬身差でシングザットソングとドルチェモアとタマモブラックタイ。8番手にダノンタッチダウン。9番手にエエヤンとカルロヴェローチェ。11番手にミシシッピテソーロ。12番手にモリアーナとショーモンとシャンパンカラー。15番手にオオバンブルマイ。2馬身差でウンブライル。3馬身差の最後尾にナヴォーナ。前半の800mは46秒3のハイペース。
直線に入ったところではフロムダスク,オールパルフェ,ユリーシャの3頭が併走でしたが,この3頭は直線に入るとほどなく一杯。先頭に立ったのはタマモブラックタイでその外に楽な手応えでダノンタッチダウン。さらに外からシャンパンカラーが伸びてきて,その外からはオオバンブルマイの追い込み。シャンパンカラーが先頭に立つとオオバンブルマイが追いすがりましたが,最後は力尽きて離されました。そこに外からウンブライルが追ってきて,2番手に上がるとシャンパンカラーに詰め寄りました。ですがわずかに届かず,優勝はシャンパンカラー。ウンブライルがアタマ差の2着。オオバンブルマイが1馬身4分の1差の3着でダノンタッチダウンが1馬身4分の1差で4着。
優勝したシャンパンカラー は重賞初制覇での大レース制覇。このレースはかなり混戦模様。この馬は前哨戦であるニュージーランドトロフィーで3着でしたから一応は候補の1頭。デビューからの2戦は東京の1600mで連勝していましたので,その部分の経験の差が生きたのではないでしょうか。京成杯で負けてマイル路線に転じていますので,距離の延長は現状ではマイナスになるのだろうと思います。父はドゥラメンテ 。祖母のふたつ下の半妹が2009年にフィリーズレビュー,2010年に函館スプリントステークスとキーンランドカップ,2012年にオーシャンステークスを勝ったワンカラット で,その七つ下の半妹が2016年の桜花賞 を勝ったジュエラー 。
騎乗した内田博幸騎手は2018年のフェブラリーステークス 以来となる大レース26勝目。第12回 以来となる16年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している田中剛調教師は2016年の安田記念 以来となる大レース6勝目。NHKマイルカップは初勝利。
法的に自由 libertasが保障されているからといって,その法lexの下に暮らす人びとが自由であるとはいえません。ですから民主主義とか自由主義といった何らかの政治体制があれば,その政治体制下にある民衆が自由であるというわけもありません。もちろん自由は現実的に存在する人間の自然権jus naturaeのひとつに属するのですから,そうしたことは体制が保障しなければならないと僕は考えますが,だからといって現に存在する人間が自由であるためには,体制が自由を保障するというだけでは不十分なのです。
僕がここで投票行動をひとつの例材としたのは,民主主義下における民衆の投票行動は,各々の個人の能動的な行動であると信じられていると思ったからです。しかし僕が示したように,多くの人が能動actioと信じている投票という行動ですら,能動ではなく受動passioであるという場合があるのです。ここから容易に類推することができるように,僕たちの行動の中には,自分では能動であると思い込んでいても,実は受動であるということが数多くあるのです。こうしたことが生じるのは,第四部定理四系 にあるように,どんなときでも,つまりある現実的に存在するある人間が十全に力 potentiaを発揮しているときでも,いくらかの受動には隷属しているからであって,そのことを弁えておかなければ,実際には受動である自分の行動が,自分の能動であるかのように感じられることがあるからです。
以前に政治論あるいは国家論について考察したときに言及したように,スピノザの国家論というのは,たとえばヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの国家論のような,進化論的な性格をもっていません。『国家論 Tractatus Politicus 』では貴族制,共和制,民主制というみっつの制度が考察の対象となっています。しかしスピノザは,人間の社会societasは貴族制から共和制へ,そして民主制へと移行していくというようには考えていません。むしろ第六章第四節でいわれているように,民主国家ほど長続きしたものはないといわれています。つまり民主国家は容易に共和国家にもなるし貴族国家にもなるとみているのです。このことはおそらく,体制が自由を保障してもその体制下の民衆が自由であるとは限らないということといくらかの関係をもつのです。
日本時間の今朝,アメリカのチャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキーダービーGⅠ ダート2000m。
デルマソトガケは発馬で左によれてしまいました。マンダリンヒーローは10番手前後の集団。発馬の影響で序盤は後方になってしまったデルマソトガケは漸進して向正面ではマンダリンヒーローに近い位置まで上昇。3コーナーにかけてデルマソトガケはさらに前の集団との差を詰めていきました。マンダリンヒーローはここで動くことができず,前の集団との差が開きました。直線はかなりごちゃごちゃしました。デルマソトガケは進路に関してとくに不利があったようには見えませんでしたし,一杯になってしまったわけでもなかったのですが,前に位置していた馬たちでの優勝争いに加わることはできず,勝ち馬からおよそ8馬身差で6着。マンダリンヒーローは3コーナー手前で開いた前との差を詰めることができず,勝ち馬からおよそ20馬身4分の1差で12着でした。
マンダリンヒーローはともかくデルマソトガケはどちらかといえば前よりの位置でレースを進める馬なので,発馬の不利は大きいものでした。とくにこのレースは前に位置していた馬が1着と2着を占めましたので,展開面からもなおさらであったように思います。これだけ差がありますので勝ち負けまでは厳しかったかもしれませんが,発馬で不利がなければ,勝ち馬との差はもう少し縮まったものと思います。マンダリンヒーローはペースアップしたところで対応できませんでしたので,その点は今後の課題となるでしょう。距離にもやや不安があるのかなという印象も受けました。
民主主義国家における選挙の投票行動は,無条件に能動 であると思われるかもしれません。いい換えれば,法的に保障されている自由libertasの権利juraの行使であると思われるかもしれません。しかし,力potentiaの対比という観点を採用する限り,必ずしもそうであると断定できるわけではないのです。たとえばAが,その時代の雰囲気に流されてだれかに投票するということがあるとすれば,このAの投票行動に対する力は,A自身の本性essentiaによって説明される力より,時代の雰囲気とか空気といったものによって説明される力の方が大きいことになります。したがってAの投票行動は,この場合にはAの能動ではなく受動passioであるということになります。したがってAは与えられている投票の自由という権利を行使しているのではないといわなければなりません。なぜなら,人間にとっての自由とは,その人間にとっての能動についていわれるというのが原則であるからです。
もちろんだからといって,この投票する自由を剥奪してよいというわけではありません。人間には受動的自由 というものもあるのであって,受動的自由としての投票行動を規制するのは,現実的に存在する人間に対して必然的にnecessario与えられている条件や制約の下での行動を規制するのと同じことだからです。いい換えれば,この種の法的に保障されている自由,投票の自由に限らずすべての法的な自由は,現実的に存在する人間の能動的自由 だけを保障しているわけではなく,受動的自由も擁護していると解するべきだからです。他面からいえば,受動的自由に従って行動する人間が現にいるということを前提として,自由は法的に保障されていると考えなければなりません。
このことから僕たちはふたつのことを知ることができます。ひとつは僕たちが自身の能動であると信じて疑わないことの中にも,受動が含まれている可能性があるということです。もうひとつは,法的に自由が保障されているからといって,その法の下で現実的に存在する人間がその自由を能動的に行使するとは限らないということです。他面からいえば,法的に保障されているから法の下に暮らす人びとが自由であることが保障されるわけではないということです。
4日の第35回かしわ記念 。スマイルウィは右の前脚の蹄の底の内出血により競走除外となって13頭。
カジノフォンテンが前に出ましたが,内からヴァレーデラルナが出ていき,ヴァレーデラルナの逃げになりました。控えたカジノフォンテンが2番手。2馬身差でハヤブサナンデクン。4番手にシャマル。2馬身差でイグナイター。6番手にソリストサンダー。7番手にスピーディキックとタガノビューティーとエメリミット。10番手にメイショウハリオ。ミスティネイル,ハナウタマジリ,クレールアドレの3頭は大きく離されました。前半の800mは49秒0のミドルペース。
3コーナーからヴァレーデラルナとカジノフォンテンとハヤブサナンデクンは雁行。シャマルは内に進路を取りました。前にいった2頭は一杯になり,直線は内を突いたシャマル,前をいった2頭の外のハヤブサナンデクン,ハヤブサナンデクンのさらに外から追い込んできたメイショウハリオ,ハヤブサナンデクンとメイショウハリオの間に進路を取ったタガノビューティーの4頭の争い。外のメイショウハリオが先頭に立った後,すぐ内のタガノビューティーに迫られる形でしたが,並ばれると再び伸びて優勝。タガノビューティーががクビ差で2着。ハヤブサナンデクンが半馬身差の3着でシャマルが1馬身半差で4着。
優勝したメイショウハリオ は帝王賞 以来の勝利で大レース2勝目。このメンバーでは実績が最も上で,順当な優勝。左回りをやや懸念していましたので,そこで結果を出したのは収穫であったと思います。この馬は帝王賞を勝った後,発馬のミスが目立つようになり,そのために道中の位置取りが後方よりになっています。このレースも発馬のミスがあったわけではないのですが,前半は前についていくことができませんでした。そのあたりは今後の課題となっていくのではないかと思います。母の父はマンハッタンカフェ 。ひとつ下の半弟に昨年のダイヤモンドステークスを勝っている現役のテーオーロイヤル 。
騎乗した浜中俊騎手は帝王賞以来の大レース12勝目。かしわ記念は初勝利。管理している岡田稲男調教師は帝王賞以来の大レース2勝目。
実際にはドゥルーズGille Deleuzeは善bonumと悪malumに言及するために構成関係に訴えているのに対し,國分は能動actioと受動passioを説明するために力potentiaの対比に訴求しています。ですから,そこを無視して僕のように國分の説明はドゥルーズの説明よりも分かりやすいだろうというのは,正確さを欠いています。とくにドゥルーズに対して公平性を欠いているというのは事実でしょう。それでも僕がこのようにいうのは,少なくとも能動と受動について考える場合には,僕たちに働きかけている力と僕たちが働く力agendi potentiaの対比によって考えられなければならず,前者の力の方が大きい場合には僕たちの受動といわれ,逆に後者の力の方が大きい場合には僕たちの能動といわれるという点が,きわめて重要であるからです。僕たちは常に一定の受動には隷属しているのであり,僕たちが能動的であることができるのは,僕たち自身の力がその力を上回っている限りにおいてなのです。
これが重要なのは,僕たちは僕たちの能動について,それを疑わないという場合が往々にして生じるからです。そしてこの能動が僕たちの自由libertasと関係しているがゆえに,僕たちは能動的に何かをする権限が与えられている限りでは,僕たちは自由であるというように信じてしまう場合があるからです。もちろんそれが誤っているとは僕はいいません。しかし僕たちは,実は受動に隷属していながらそれを自身の能動であると錯覚する場合というのもあり得ますし,法的な権利juraとして自由が与えられていればそれで自由であると思い込んでしまう場合もあり得るということには気を付けておかなければならないでしょう。
たとえばここに民主主義国家があって,その国家Civitasの市民CivesのひとりであるAという人間が,選挙権を行使して候補者のひとりに投票をするという行動をなすとしましょう。この行動は,Aの身体機構という観点からみればAの徳virtusです。これは第四部定理五九備考 で殴打が徳であるといわれているのと同じことです。しかし殴打という行為は必ずしもその人間の能動を意味するというわけではないということはすでに説明した通りです。そしてこれと同じように,Aの投票行動もまた,必ずしもAの能動を意味するわけではないのです。
3日の第37回東京湾カップ 。森泰斗騎手が2日の2レースのパドックで左足を挫創したためナイトオブバンドは町田騎手に変更。
ヘルシェイクとチェルカトローヴァの先行争い。1コーナーからのコーナーワークでヘルシェイクが前に出ましたが,向正面に入るとチェルカトローヴァがまたヘルシェイクの外に並び掛けていきました。3馬身差でラブリービューとセンゲントップ。1馬身半差でガンモヘラクレスとナイトオブバンド。7番手にハセノゴールド。4馬身差でルクバーとジョーフォック。10番手にグラビティモデルとストームエンドとピノホホッア。13番手がライズゾーンで最後尾にコロンバージュ。ハセノゴールドは向正面で左前脚の第三中手骨を折ってしまいずるずると後退して競走中止。超ハイペースでした。
3コーナーからヘルシェイク,チェルカトローヴァ,ナイトオブバンド,センゲントップ,ピノホホッアの5頭で雁行。コーナーの途中でヘルシェイクは一杯。直線に入ったところではナイトオブバンドが先頭に立ちましたが,そこまで。ナイトオブバンドとセンゲントップの間を抜けてきたルクバーと,後方2番手から外を追い込んできたライズゾーンの争いとなり,外を回ったライズゾーンが差し切って優勝。ルクバーが1馬身差で2着。最後尾から大外を追い込んできたコロンバージュが2馬身差で3着。
優勝したライズゾーン は南関東重賞初勝利。このレースは先行争いが激しくなった上に,後続が早めに差を詰めていったために直線で二転三転することに。このことから分かるように,結果に最も大きな影響を及ぼしたのは展開でした。東京湾カップというレースはクラウンカップの上位馬が好走する傾向があり,ここは2着馬,3着馬,4着馬が出走。3頭はそれほど差がない結果でしたから,その3頭が軸になるとみていました。展開の要素が大きかったとはいえ,優勝馬の傾向自体は例年通りであったといえます。母の父はネオユニヴァース 。5代母がクルーピアレディー の祖母にあたる同一牝系。
騎乗した川崎の今野忠成騎手は一昨年の平和賞 以来となる南関東重賞40勝目。東京湾カップは初勝利。管理している川崎の山崎尋美調教師は2011年10月のの埼玉栄冠賞 以来となる南関東重賞6勝目。同年11月には浦和記念 を制しています。東京湾カップは初勝利。
力関係によって能動 actioと受動passioの関係を説明した國分の方法は,ドゥルーズGille Deleuzeのように構成関係のあり方によって説明する方法より優れた点があると僕は考えます。
人間のある作為によって,構成関係がひとつに結び付くか破壊されるかという観点からの説明では,当然ながら構成関係は結びつくか破壊されるかの二者択一になるのであって,人間のその作為は,能動であるか受動であるかに完全に分離されます。構成関係が結びつきつつ破壊されるとか,破壊されながら結びつくというのは,それ自体で不条理になってしまうからです。
現実的に存在する人間は,能動的であるときには受動的ではなく,受動的である場合には能動的ではありません。直前の自由libertasの考察と関連させていえば,ある人間が自由の人homo liberであるときには奴隷であることはありませんし,ある人間が無知者であるときには賢人であることはないのです。したがって,能動と受動とを二者択一で解することは,間違っているわけではありません。ですが実際にはそれはその人間の働く力agendi potentiaと働きを受けるpati力の関係の上でそのようにいわれるのであって,この観点を考察の中に持ち込める分だけ,國分の説明は優れていると僕は考えるのです。
第四部定理四系 は,現実的に存在する人間は常に受動に隷属しているといっています。すると,もしも能動と受動を二者択一で理解してしまうと,人間は常に受動状態にあって,能動状態にあることはできないと解されるおそれがあります。しかしそれを力関係で把握するならそうはなりません。この系Corollariumがいっているのは,単に受動に隷属しているということだけであって,その力が大きいか小さいかということは関係ないからです。ですからもしも現実的に存在する人間が,この力よりも大きな力で働くなら,この人間は能動状態にあることになります。しかしこの力より小さな力で働いているときは,受動状態にあるということになるでしょう。つまり基礎的な条件として,現実的に存在する人間は常に受動に隷属しているけれども,働きを受けるその力より大きな力で働くとき,人間は能動的であることができるということが,國分の説明からは帰結させることができます。
昨日の第24回兵庫チャンピオンシップ 。
ミトノオーが逃げて序盤はメイショウオーロラが追い掛けていきました。3馬身差でマルカラピッド。4番手にべラジオソノダラブで5番手にサンライズジーク。2馬身差でキリンジとウィンチップ。3馬身差でビキニボーイとブエラフェルテ。2馬身差でネバーエバーとサインポール。2馬身差の最後尾にミコフランシスカ。途中からミトノオーがメイショウオーロラを振り払い,2周目の向正面に入るところでリードが5馬身くらい。そのときはマルカラピッドとべラジオソノダラブが3番手を併走していましたが,この2頭と2番手のメイショウオーロラとの差も4馬身くらいありました。5番手をサンライズジークとキリンジで併走。ミドルペースでした。
3コーナーを回るとミトノオーがさらにメイショウオーロラとの差を広げていきました。キリンジが外から追い上げてきて,直線に入るところでは2番手に。しかしその時点でミトノオーとは決定的な差があり,悠々と逃げ切ったミトノオーが優勝。キリンジが6馬身差で2着。メイショウオーロラは一杯になりましたが10馬身差の3着は確保。外から追ってきたサンライズジークが1馬身4分の1差で4着。
優勝したミトノオー は重賞初制覇。前走でJRAのオープンを勝っていてここでは実績上位なので,優勝候補の筆頭ではありました。レースの序盤から自分のペースで走ることができたとはいえ,逃げてそのまま差を広げていくという勝ち方は圧巻。2着馬も3着馬もJRAの2勝馬ではありますから,その相手にこの勝ち方は,相当の能力の持ち主であることの証明にほかならないでしょう。父は2012年のJRA賞 で最優秀2歳牡馬に選出されたロゴタイプ 。6代母がスコッチプリンセス の3代母にあたる同一牝系。
騎乗した武豊騎手 は第4回,9回 ,10回 に続き14年ぶりの兵庫チャンピオンシップ4勝目。管理している牧光二調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。
身体 corpusの運動motusそのものによっても,その運動の方向によっても,能動actioであるか受動passioであるかを判断することはできません。では何によって能動と受動が決定されるかといえば,ドゥルーズGille Deleuzeのいい方に倣えば,それによって構成関係が結びつくか破壊されるかという点です。しかし『はじめてのスピノザ 』においては,それが別の視点から説明されています。この説明は,構成関係の破壊が,自身の方からなされるのではなくて外部の物体corpusの方からなされるという例示と関連したものです。この例示の方が,説明としては分かりやすいのであれば,おそらく國分が示している説明は,ドゥルーズがしている説明よりも分かりやすいでしょう。いい換えれば,何が能動であり何が受動であるかの判断の規準をどこに求めればよいのかということについて,國分はドゥルーズよりも容易に理解することができるような説明をしているということになります。
國分によれば,スピノザの哲学における能動と受動の概念notioは,力potentiaの表現によって決定されます。すなわち,たとえばBが銃で脅すことによってAがBに対して金品を渡すということがあれば,これは金品を渡すAの力よりも,恐喝をしているBの力の方をより多く表現しています。この説明ではより多くという点は重要です。Bの力が表現され,Aの力が表現されていないということではありません。たとえ恐喝されていようと金品を渡すという行為自体はAの力なのであって,ただその力よりも恐喝しているBの力の方が大きいという意味です。そしてBの力の方がより多く表現されているということは,Bの能動であってAの受動であるということを意味するのです。別のいい方をすれば,AがBに金品を渡すという行為は,確かにAの力ではあるのですが,それがBによる恐喝によるものである場合には,Aのその力よりも恐喝しているBの力,この場合は銃によって脅しているので銃の力といってもいいのですが,それも含めたBの力の方をより多く表現しているということなのです。
このようにしてスピノザの哲学では,自身の力がより多く表現されていれば能動,外部の物体の力がより多く表現される場合が受動になります。
昨晩の第3回若潮スプリント 。森泰斗騎手が2レースのパドックで左足を挫創したためフジコチャンは今野騎手に変更。
逃げたのはハーンドルフ。2番手にメンコイボクチャンで3番手にナナドリーム。発馬後に躓いたクラティアラが4番手まで追い上げ,5番手にナックサンライズとフジコチャンで7番手のコスモイグローク,スタードラマー,ハーモニーアルゴルまで一団。2馬身差でワンダーランド。2馬身差でバシュラマック。2馬身差の最後尾にグリーリー。前半の600mは35秒6のハイペース。
3コーナーを回るとハーンドルフとメンコイボクチャンが併走に。3番手にナナドリームでその後ろにクラティアラとフジコチャン。直線に入るとメンコイボクチャンが先頭に。馬群を割るように抜けてきたのがクラティアラで外から追ってきたのがフジコチャン。しかし2頭とも抜け出したメンコイボクチャンには追い付けず,優勝はメンコイボクチャン。外のフジコチャンが4分の3馬身差の2着でクラティアラが1馬身差で3着。
優勝したメンコイボクチャン は南関東重賞初制覇。デビューは北海道で3歳になってから南関東に転入。前走が転入初戦で5着。北海道時代はイノセントカップで2着があり,能力的には通用しておかしくありませんでした。前走は転入初戦の上に12月以来のレースだったこともあり,その能力を全開するという状態にはなかったということだったのだと思います。これが本来の能力と判断してよいのではないでしょうか。父はコパノリチャード 。母の父がアグネスデジタル で祖母の父がフジキセキ 。
騎乗した船橋の澤田龍哉騎手はフジノウェーブ記念 以来の南関東重賞3勝目。若潮スプリントは初勝利。管理している渡辺貴光調教師は開業から1年3ヶ月で南関東重賞初勝利。
現実的にAという人間とBという人間が存在していると仮定します。そしてBが銃を持ってAを恐喝し,Aが金品をBに手渡したとします。このとき,AがBに金品を手渡したその行為は,Aの能動 actioであるか受動passioであるかと問われれば,Aの受動であるとほとんどの人が答えるでしょう。
AがBに対して金品を手渡す行為は,Aの身体的運動としてだけみれば,Aの身体corpusそのものの条件やその身体の可動域といった制約があるとはいえ,Aの身体の構成関係から考えることができる徳virtusであるといわなければなりません。これは第四部定理五九備考 で,殴打という身体的運動が徳であるといわれているのと同じ理由です。そして実際にAのこの身体的運動は,A自身の徳である場合もあり得ます。たとえばAが慈善行為によってBに何らかの金品を手渡すとしても,身体の運動motusのあり方は恐喝によってBに金品を手渡す運動と同じものであり得ます。このとき,Aが慈善行為によってBに金品を手渡す,一般的にはこれは寄付をするといわれる行為ですが,この行為は必然的にnecessarioAの能動であるとまではいえないにしても,Aの能動であり得るということは,多くの人が同意できることではないかと思います。
この寄付行為がAの能動であるのは,Aの行為がAからBに向かっているということのうちにあるのではありません。AがBに金品を手渡すという行動の方向がAからBに向かっているという点では,AがBに対して寄付をしていようと,Bに恐喝されていようと同じようにAからBに向かっているといわなければならないからです。たとえばBがAを動けないようにして無理矢理Aから金品を奪う,これは恐喝ではなく強盗ですが,その場合は行動の方向はBからAへ向かっています。したがって,もし行動の方向によって能動と受動を分かとうとするなら,AがBに恐喝されて金品を手渡す場合はAの能動であり,AがBに強盗されるならAの受動であるということになってしまいます。しかしこれは不条理でしょう。要するにこの例が示しているのは,身体の運動によって能動か受動かを判断できないということと同時に,運動の方向でもそれは決定できないということです。
第25回かきつばた記念 。
コウエイアンカは枠入りにやや時間を要しました。発馬後は各馬の牽制状態となり,意を決したようにデュアリストが先頭に。ヘリオスが2番手で3番手にドライスタウト。4番手をサイモンハロルドとウィップラッシュで併走し,6番手のウィルソンテソーロまでは集団。3馬身差でルーチェドーロとテイエムサウスダン。3馬身差でメイショウシルト。以下はメルト,コウエイアンカ,アオイスイセイの順。ミドルペースでした。
3コーナーからウィルソンテソーロとルーチェドーロが捲り上げてきてこれにヘリオスとドライスタウトが対応。デュアリストはここで一杯。一番外のルーチェドーロもついていかれなくなり,優勝争いは3頭に。直線に入るとドライスタウトがヘリオスの前に出て,外から追ってきたウィルソンテソーロと2頭の競り合いに。この競り合いはフィニッシュまで続き,制したのは外のウィルソンテソーロ。ドライスタウトがハナ差の2着。直線で一杯になったヘリオスが3馬身差で3着。
優勝したウィルソンテソーロ は重賞初制覇。デビューしてから3戦は芝を使って未勝利。昨年の8月にダートを使うと初勝利をあげ,そこから4連勝しました。初のオープンとなった前走は5着でしたが,出走メンバーの中では最も上昇度があった1頭。ハンデ戦で斤量が最も有利な立場で僅差の勝利なので,手放しで評価することはできませんが,このレベルのレースであれば今後も活躍はしていけそうです。1500mはこれまでの出走経験の中で最も短い距離でしたので,そこに対応できたのは大きな収穫でしょう。父はキタサンブラック 。
騎乗した川田将雅騎手はかきつばた記念初勝利。前走後から管理することになった小手川準調教師は開業から3年1ヶ月強で重賞初制覇。
人間が何かを殴打する行為が構成関係と組み合わさるというのは,たとえば鉄を打って鍛錬するというような場合のことです。この行為は構成関係を破壊するものではなく,むしろ殴打という行為が鉄の鍛錬と組み合わさっているのですから,悪 malumであるということはあり得ず,善bonumであるといわなければなりません。
ドゥルーズGille Deleuzeはこのように善と悪の関係でこのことを説明しているのですが,実はこのことは,能動actioと受動passioの関係にもいくらかの関連を有します。というのは,人間が何かを殴打するという行為,というかこれは殴打に限らずどんな行為でもよいのですが,人間の何らかの運動motusが,ある構成関係を破壊するものであったとしたら,そうした身体的運動のすべては能動であるということはあり得ず,受動であるといわなければならないからです。一方,ある身体的運動が構成関係と組み合わさっている場合は,それを直ちに能動ということはできない,つまりそうしたことも受動から生じ得るのだとしても,能動である場合もあるのです。
『はじめてのスピノザ 』ではそうしたことが,別の例によって説明されています。そして國分が示しているその例は,ここで僕がいっていることを容易に理解することができるようなものになっています。というのは,スピノザが第四部定理五九備考 で示している事柄も,ドゥルーズが『スピノザ 実践の哲学 Spinoza : philosophie pratique 』で示している例も,構成関係を破壊するという観点からいうと,ある人間の身体的運動によってそれが破壊されるという形になっています。しかし一般的にいえば,僕たちがある構成関係を破壊されるということを容易に理解することができるのは,これとは逆向きで構成関係が破壊される場合なのです。つまり,自分の身体的運動によってある構成関係が破壊されるということを示すよりも,何らかの物体corpusによる運動によって自分の身体との構成関係が破壊されるという場合の方が,確かに構成関係が破壊されたということを理解しやすいのです。これは現実的に存在する人間は喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようにできているからであって,わざわざ自分の方から構成関係を破壊するような身体的運動をなすとは意識しないからです。