スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

フォワ賞・ニエル賞&悪

2022-09-12 19:24:51 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明に開催されたフランスのパリロンシャン競馬場のレースに2頭の日本馬が遠征しました。
 フォワ賞GⅡ芝2400m。マイラプソディはほかの5頭とはやや離れた外目を追走。逃げた馬からは3馬身差くらいの4・5番手でした。直線の入口では一旦は3番手に上がったものの,その後は伸びを欠き,勝ち馬から12馬身差の6着でした。
 ニエル賞GⅡ芝2400m。ドウデュースは好発でしたが7頭の最後尾に控えました。先頭からは7~8馬身差くらい。直線の入口まで同じ位置で進み,大外へ。伸びはしましたが勝ち馬から2馬身差の4着まで。
 マイラプソディはデビューからの3連勝で2019年の京都2歳ステークスを勝ったものの,それ以降は11連敗。ドウデュースの調教パートナーという位置づけでの渡仏ですから,この結果は止むを得ないでしょう。ドウデュースの方は,勝つことよりも凱旋門賞のための試走というような内容になりましたので,評価は難しいです。凱旋門賞は当然ながら相手が強くなりますから,まったく通用しないというケースもあるでしょうし,この内容を生かすことによって勝ち負けするというケースもあるでしょう。渡仏して10日ほどでのレースだったので,この馬自身のパフォーマンス自体はこのレースより上がると思いますが,相対的に通用する能力があるのかどうかということは,このレースだけでは判断できないです。

 現実的に存在する人間は,他人と争うということがあります。また他人を憎むということもありますし,他人に怒るということもあります。あるいは他人を欺くということもあるでしょう。そうしたこともその人間の自然権jus naturaeに属することになります。これは不条理に感じられるかもしれませんが,そういうわけではありません。なぜなら自然というものは,たとえば現実的に存在する人間が真の利益だけを意図すること,つまり人間の理性ratioの法則に適合したことだけに制約されるわけではないからです。むしろそうした人間にとっての真の利益というのは,全自然の一部なのであって,そちらの方が自然の法則に制約されているのです。もっといえば,このような人間が現実的に存在するということ自体が,自然の秩序ordo naturaeの法則に起因しているとわなければなりません。ですから自然の中には,現実的に存在する各々の人間にとって不条理と感じられることがあるとしても,それは全自然の秩序の大部分を知らないかゆえに不条理と感じられるだけなのです。あるいは各々の人間が,自分自身にとって都合がよいことを欲望するということから生じるともいえるでしょう。仮に僕たちの理性がある事柄を悪malumと判断するのであったとしても,それは自分自身の本性essentiaからみる限りでの悪なのであって,全自然の秩序からみて悪であるというわけではありません。これは第四部定義二から明らかなのであって,悪というのは僕たちの知性intellectusのうちにある思惟の様態cogitandi modiなのであり,僕たちが悪とみなす事物に備わった本性なり特質proprietasであるわけではないのです。
                                   
 次に,自然権は各々のコナトゥスconatusに由来するのですから,もしある人間のコナトゥスが別の人間のコナトゥスの下に属するなら,その人間の自然権もまたその人間の下にあるといわれなければなりません。いい換えれば,ある人間が自己の自然権の下にあるといわれるのは,その人間が自己の意向に従って生活し得る限りにおいてです。要するに,現実的にAという人間が存在するとして,Aが別の人間Bの力potentiaの下にある場合には,AはBの権利の下にあるといわれ,Aが自己の力の下にある場合には,Aは自己の権利の下にあることになるのです。
コメント
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