第四部序言で確知するcerto scimusといわれているとき,それをどのように解釈するのかがよいのかということを考えていきます。
ここでいわれている人間の本性の型は,現実的に存在する人間によって十全に認識されていると仮定します。すると,その本性naturaの型に近づく手段の認識cognitioも,十全な認識であると解さなければなりません。なぜなら,人間の本性の型を十全に認識しているのなら,どうすればその型に近づくかということも十全に認識されなければならないからです。他面からいえば,人間の本性の型に近づく手段の認識というのは,人間の本性の型の認識を原因causaとして生じるある結果effectusの認識です。第二部定理四〇により,十全な観念idea adaequataを原因として生じるいかなる結果の観念も十全な観念です。よって,この序言でいわれている善bonumは,現実的に存在する人間によって確知されるといわれるとき,それは疑い得ないという意味で確知するという意味になるでしょう。善の確知は疑い得ないという場合も含みますので,この部分はこれでいいだろうと僕は思います。
この論理からいくと,人間の本性の型に一致するのに妨げになるものの認識も,十全な認識であるといわなければなりません。というのは,その認識もまた人間の本性の型の認識を原因として生じる結果の認識であって,第二部定理四〇によって十全な観念であるということになるからです。ところが,悪の確知というのは疑い得ないという意味ではあり得ず,単に疑わないということでなければならないのでした。つまりここには大きな矛盾が含まれているといわなければなりません。ですから今度は,この矛盾というのを,どのような仕方で解消するのかということが課題となります。
まず考えなければならいのは,一方で人間の本性に型にますます近づく手段といわれ,もう一方でその型に一致するようになるのに妨げとなるといわれているとき,このふたつは善と悪malumとが反対概念であるのと同じような意味での反対概念であり得るのかということです。
『はじめてのスピノザ』の第三章で自由libertasについて言及された後,能動actioと受動passioについての説明があります。ここで國分がいっているのは,現実的に存在している人間のある行動,とくにその身体的運動は,その運動motusそのものだけで能動であるか受動であるかを判断することはできないということです。要するに他人の行動を観察するだけで,それが能動であるか受動であるかを判定することはできないと國分はいっているわけです。このことはとても重要なことですが,僕はこれまでにこのことを詳しく探求したことがありません。ですからこの機会に,スピノザの哲学において能動と受動をどのように判断するべきかということを考えていきます。
『エチカ』でスピノザがこれに関連したことを述べているのは第四部定理五九に付せられた備考Scholiumです。そこでは次のようにいわれています。
「殴打という行動は,我々がこれを物理的に見て,人間が腕を上げ,拳を固め,力をこめて全腕を振り下すということのみを眼中に置く限り,人間身体の機構から考えられる一個の徳である」。
ここで徳virtusといわれているのは,第四部定義八でいわれている徳と解さなければなりません。したがって,殴打という行為は,殴打するその人間の身体humanum corpusの運動としてみられる限りでは,その人間の身体の力potentiaの発現であって,その人間の身体の本性essentia,これはもちろん現実的に存在する人間が何かを殴打するということをいわんとしているのですから,持続するdurare限りでのその人間の身体の現実的本性actualis essentiaとみられなければなりませんが,殴打するその人間の身体の現実的本性のみによって十全に理解することができる力であるとみることができるわけです。
このように理解する限り,この人間の殴打という行為は,人間的自由,とくに能動的自由に該当する行為のひとつであるとみることができます。もちろんそこにはまた条件と制約が課せられています。すなわち殴打するこの人間に二本の腕があるのであれば,その二本の腕のどちらかで殴打しなければなりませんし,殴打する対象が殴打する腕の可動域の外にある場合は,そのままでは殴打できないので前もって対象に近づかなければならないからです。
ここでいわれている人間の本性の型は,現実的に存在する人間によって十全に認識されていると仮定します。すると,その本性naturaの型に近づく手段の認識cognitioも,十全な認識であると解さなければなりません。なぜなら,人間の本性の型を十全に認識しているのなら,どうすればその型に近づくかということも十全に認識されなければならないからです。他面からいえば,人間の本性の型に近づく手段の認識というのは,人間の本性の型の認識を原因causaとして生じるある結果effectusの認識です。第二部定理四〇により,十全な観念idea adaequataを原因として生じるいかなる結果の観念も十全な観念です。よって,この序言でいわれている善bonumは,現実的に存在する人間によって確知されるといわれるとき,それは疑い得ないという意味で確知するという意味になるでしょう。善の確知は疑い得ないという場合も含みますので,この部分はこれでいいだろうと僕は思います。
この論理からいくと,人間の本性の型に一致するのに妨げになるものの認識も,十全な認識であるといわなければなりません。というのは,その認識もまた人間の本性の型の認識を原因として生じる結果の認識であって,第二部定理四〇によって十全な観念であるということになるからです。ところが,悪の確知というのは疑い得ないという意味ではあり得ず,単に疑わないということでなければならないのでした。つまりここには大きな矛盾が含まれているといわなければなりません。ですから今度は,この矛盾というのを,どのような仕方で解消するのかということが課題となります。
まず考えなければならいのは,一方で人間の本性に型にますます近づく手段といわれ,もう一方でその型に一致するようになるのに妨げとなるといわれているとき,このふたつは善と悪malumとが反対概念であるのと同じような意味での反対概念であり得るのかということです。
『はじめてのスピノザ』の第三章で自由libertasについて言及された後,能動actioと受動passioについての説明があります。ここで國分がいっているのは,現実的に存在している人間のある行動,とくにその身体的運動は,その運動motusそのものだけで能動であるか受動であるかを判断することはできないということです。要するに他人の行動を観察するだけで,それが能動であるか受動であるかを判定することはできないと國分はいっているわけです。このことはとても重要なことですが,僕はこれまでにこのことを詳しく探求したことがありません。ですからこの機会に,スピノザの哲学において能動と受動をどのように判断するべきかということを考えていきます。
『エチカ』でスピノザがこれに関連したことを述べているのは第四部定理五九に付せられた備考Scholiumです。そこでは次のようにいわれています。
「殴打という行動は,我々がこれを物理的に見て,人間が腕を上げ,拳を固め,力をこめて全腕を振り下すということのみを眼中に置く限り,人間身体の機構から考えられる一個の徳である」。
ここで徳virtusといわれているのは,第四部定義八でいわれている徳と解さなければなりません。したがって,殴打という行為は,殴打するその人間の身体humanum corpusの運動としてみられる限りでは,その人間の身体の力potentiaの発現であって,その人間の身体の本性essentia,これはもちろん現実的に存在する人間が何かを殴打するということをいわんとしているのですから,持続するdurare限りでのその人間の身体の現実的本性actualis essentiaとみられなければなりませんが,殴打するその人間の身体の現実的本性のみによって十全に理解することができる力であるとみることができるわけです。
このように理解する限り,この人間の殴打という行為は,人間的自由,とくに能動的自由に該当する行為のひとつであるとみることができます。もちろんそこにはまた条件と制約が課せられています。すなわち殴打するこの人間に二本の腕があるのであれば,その二本の腕のどちらかで殴打しなければなりませんし,殴打する対象が殴打する腕の可動域の外にある場合は,そのままでは殴打できないので前もって対象に近づかなければならないからです。