兵庫チャンピオンシップを逃げて圧勝したミトノオーの父はロゴタイプです。父は2003年に中山記念とマイラーズカップ,2005年にマイラーズカップ,2007年に中山記念を勝ったローエングリン。祖母が1993年にローズステークスを勝ったスターバレリーナ。Logotypeは組み合わせた文字を図案化したような書体。
2歳の6月にデビューして勝利。函館2歳ステークス4着,オープン3着,札幌2歳ステークス4着を挟んで11月に東京の特別戦をレコードタイムで勝って2勝目。そのまま朝日杯フューチュリティステークスも勝って大レースを制覇。この年のJRA賞で最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳初戦のスプリングステークスで重賞2勝目。さらに皐月賞ではエピファネイアを差し切って大レース2勝目。ダービーはキズナの5着でした。夏の札幌記念に出走して5着。3歳の秋は出走がかないませんでした。
復帰戦となった4歳春の中山記念はジャスタウェイの3着。遠征したドバイデューティフリーもジャスタウェイの6着。帰国初戦は札幌記念で8着。毎日王冠が6着,マイルチャンピオンシップが7着で,4歳時は未勝利。
中山金杯でラブリーデイの2着になった後,ダートの根岸ステークスに参戦して8着。中山記念が2着,大阪杯が5着でこの春のキャンペーンは終了。秋はオールカマーで復帰して4着。富士ステークスが3着でマイルチャンピオンシップはモーリスの9着。この年も勝利を飾ることができませんでした。
6歳初戦の中山記念はドゥラメンテの7着。ダービー卿チャレンジトロフィーで2着になると安田記念ではモーリスの追撃を封じて逃げ切り,大レース3勝目。毎日王冠が8着,マイルチャンピオンシップはミッキーアイルの5着。2度目の海外遠征となった香港マイルは5着でした。
7歳も現役を続行。中山記念が3着,安田記念が2着と,春の2戦を終えて現役を退きました。
大レースこそ3勝していますが,戦績からも分かるように,その時代のトップクラスの実力馬だったわけではありません。ただ2歳のデビューから7歳の春まで,大きく負けるということはほとんどないまま現役を終えました。長期にわたって一定の実力を維持し続けたという点が,この馬の最大のセールスポイントではないかと思います。
AがBを自身の悲しみtristitiaの原因causaとして意識しているとき,大きな力potentiaを表現しているのはBであるというより,Aの精神mensのうちにあるBの表象像imagoであると僕は考えます。つまりAの知性intellectusの外に現実的に存在しているBという人間の力が表現されているというより,Aの精神のうちにあるBの表象像の力が表現されていると僕は考えるのです。
スピノザの哲学でいう表象像は,あるものが現実的に存在していると知覚するpercipere混乱した観念idea inadaequataのことです。したがってこの例でいえば,Aの精神のうちに,Bが現実的に存在するという観念があって,この観念がA自身の悲しみの原因となっているとAは認識しています。この認識cognitio,これはBに対するAの憎しみodiumそのものですが,この認識のゆえにAはBを殴打することになります。したがって単純にAからみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像の力と,Bの力を分けることができるわけではないかもしれません。あるいはそれは同じことであるという見解opinioを僕は否定しません。ただそれはあくまでもAからみた場合に限られるのであって,たとえばAとBと別の人間,これはたとえば現にこのことを検討している僕たちという意味ですが,その立場からみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像と,Aという人間とは別の人間として存在しているBという人間は,別のものとして解するのが適切であると僕は考えます。よって,AがBに対する憎しみのゆえにBを殴打するというとき,その力がより多く表現されているのは,BではないしAでもなく,Aの精神のうちにあるBの表象像であると僕は解するのです。
このことから理解できるように,第三部定理三九で言及されていることのうち,ある人を憎んでいるためにその人に害悪を与えるということが現実に生じるという場合には,憎しみのゆえに害悪を与える人間の,憎んでいる相手に対する表象像の力が最も多く表現されることになると僕は解します。したがって一般に憎んでいる相手に対して害悪を与えるような行為は,害悪を与える人間の力であるとは僕は考えません。正確にいえば,それは力であってもそれよりも大きな力が働いているのであって,この限りでは無力impotentiaだと考えます。
2歳の6月にデビューして勝利。函館2歳ステークス4着,オープン3着,札幌2歳ステークス4着を挟んで11月に東京の特別戦をレコードタイムで勝って2勝目。そのまま朝日杯フューチュリティステークスも勝って大レースを制覇。この年のJRA賞で最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳初戦のスプリングステークスで重賞2勝目。さらに皐月賞ではエピファネイアを差し切って大レース2勝目。ダービーはキズナの5着でした。夏の札幌記念に出走して5着。3歳の秋は出走がかないませんでした。
復帰戦となった4歳春の中山記念はジャスタウェイの3着。遠征したドバイデューティフリーもジャスタウェイの6着。帰国初戦は札幌記念で8着。毎日王冠が6着,マイルチャンピオンシップが7着で,4歳時は未勝利。
中山金杯でラブリーデイの2着になった後,ダートの根岸ステークスに参戦して8着。中山記念が2着,大阪杯が5着でこの春のキャンペーンは終了。秋はオールカマーで復帰して4着。富士ステークスが3着でマイルチャンピオンシップはモーリスの9着。この年も勝利を飾ることができませんでした。
6歳初戦の中山記念はドゥラメンテの7着。ダービー卿チャレンジトロフィーで2着になると安田記念ではモーリスの追撃を封じて逃げ切り,大レース3勝目。毎日王冠が8着,マイルチャンピオンシップはミッキーアイルの5着。2度目の海外遠征となった香港マイルは5着でした。
7歳も現役を続行。中山記念が3着,安田記念が2着と,春の2戦を終えて現役を退きました。
大レースこそ3勝していますが,戦績からも分かるように,その時代のトップクラスの実力馬だったわけではありません。ただ2歳のデビューから7歳の春まで,大きく負けるということはほとんどないまま現役を終えました。長期にわたって一定の実力を維持し続けたという点が,この馬の最大のセールスポイントではないかと思います。
AがBを自身の悲しみtristitiaの原因causaとして意識しているとき,大きな力potentiaを表現しているのはBであるというより,Aの精神mensのうちにあるBの表象像imagoであると僕は考えます。つまりAの知性intellectusの外に現実的に存在しているBという人間の力が表現されているというより,Aの精神のうちにあるBの表象像の力が表現されていると僕は考えるのです。
スピノザの哲学でいう表象像は,あるものが現実的に存在していると知覚するpercipere混乱した観念idea inadaequataのことです。したがってこの例でいえば,Aの精神のうちに,Bが現実的に存在するという観念があって,この観念がA自身の悲しみの原因となっているとAは認識しています。この認識cognitio,これはBに対するAの憎しみodiumそのものですが,この認識のゆえにAはBを殴打することになります。したがって単純にAからみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像の力と,Bの力を分けることができるわけではないかもしれません。あるいはそれは同じことであるという見解opinioを僕は否定しません。ただそれはあくまでもAからみた場合に限られるのであって,たとえばAとBと別の人間,これはたとえば現にこのことを検討している僕たちという意味ですが,その立場からみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像と,Aという人間とは別の人間として存在しているBという人間は,別のものとして解するのが適切であると僕は考えます。よって,AがBに対する憎しみのゆえにBを殴打するというとき,その力がより多く表現されているのは,BではないしAでもなく,Aの精神のうちにあるBの表象像であると僕は解するのです。
このことから理解できるように,第三部定理三九で言及されていることのうち,ある人を憎んでいるためにその人に害悪を与えるということが現実に生じるという場合には,憎しみのゆえに害悪を与える人間の,憎んでいる相手に対する表象像の力が最も多く表現されることになると僕は解します。したがって一般に憎んでいる相手に対して害悪を与えるような行為は,害悪を与える人間の力であるとは僕は考えません。正確にいえば,それは力であってもそれよりも大きな力が働いているのであって,この限りでは無力impotentiaだと考えます。