6日に名古屋で指された第8期叡王戦五番勝負第三局。
藤井聡太叡王の先手で菅井竜也八段のノーマル三間飛車。相穴熊の激戦となりました。
ここで☗同金上と取りました。この手はあまりよい手ではなく,局面は後手がよくなったようです。
後手は☖同金と取りましたが,ここは☖7八金と取る手もあり,それも有力。もしかしたらそちらの方がよかったかもしれません。☗同香に☖2九飛成で駒を補充。
そこで☗2二角と打ちました。おそらく第1図で☗同金上と取ったときからの読み筋であったと推測します。これは8八に利かせる受けの手です。☖5五歩と突かれると意味がなくなってしまうのですが,そう指すと後手の馬も自陣に利かなくなってしまいますので,指しきれなかったようです。☖9五歩と突きました。この手は悪い手ではなかったのですが,☖5七金と催促する方が優ったようです。先手は☗7一歩成。
ここで☖9六歩と取り込んだのですが,これがよくなかったようです。☖同飛と取るべき局面で,この変化ならまだ難解でした。
藤井叡王が勝って2勝1敗。第四局は28日に指される予定です。
現実的にAという人間が存在していて,Aが別の人間であるBを憎んでいる場合に,AがBを殴打するということは,必ずそうなるというものではないとしても,生じ得る現象であるということが,論理的にも確認されました。
このとき,AがBを殴打するという行為,つまり殴打という行為だけを抽出して考えるなら,それはAの能動actioであり,Bの受動passioであることになります。これはちょうど,『はじめてのスピノザ』で説明されている,恐喝の事例と比較すれば分かりやすいでしょう。AがBを恐喝してBが金品を渡すとき,Bは金品を渡しているにもかかわらず,その行為はBの受動とみなされなければならなかったのでした。今回の殴打の事例では,Aが一方的にBを殴打しているのであり,Bは単に殴打されているだけです。恐喝の事例がBの受動であるのは,この部分だけを抽出すれば,Bの力potentiaよりもAの力の方がより多く表現されているからでしたが,AがBを殴打するという部分だけを抽出するなら,Aの力だけが表現されていて,Bの力は何も表現されていないといえるでしょう。ですからこれはAの能動であってBの受動であるといわれなければなりません。
ではAがBを殴打するという行為を全体的に見てそれがAの能動であるといえるのかといえば,そうではありません。ここではAはBに対する憎しみodiumに駆られてBを殴打するということになっていますから,AがBを殴打するというAの身体corpusの徳virtusとみなすことができる力より,AがBを憎んでいる力の方がさらに多く表現されているといわなければならないからです。したがってある意味では,Aが殴打する力より,Aに憎しみを与えているBの力の方がより多く表現されているとさえいえるのです。そしてもしもそのように解するのであれば,少なくともAがBを憎むという点においては,むしろBの能動であってAの受動であるといえるでしょう。そしてその憎しみに駆られてAがBを殴打するのであれば,この殴打という行為自体も,実はAの受動でありBの能動であるということになるでしょう。
僕は上述のような解釈が成立するということは認めますが,その解釈を採用することはしません。
藤井聡太叡王の先手で菅井竜也八段のノーマル三間飛車。相穴熊の激戦となりました。
ここで☗同金上と取りました。この手はあまりよい手ではなく,局面は後手がよくなったようです。
後手は☖同金と取りましたが,ここは☖7八金と取る手もあり,それも有力。もしかしたらそちらの方がよかったかもしれません。☗同香に☖2九飛成で駒を補充。
そこで☗2二角と打ちました。おそらく第1図で☗同金上と取ったときからの読み筋であったと推測します。これは8八に利かせる受けの手です。☖5五歩と突かれると意味がなくなってしまうのですが,そう指すと後手の馬も自陣に利かなくなってしまいますので,指しきれなかったようです。☖9五歩と突きました。この手は悪い手ではなかったのですが,☖5七金と催促する方が優ったようです。先手は☗7一歩成。
ここで☖9六歩と取り込んだのですが,これがよくなかったようです。☖同飛と取るべき局面で,この変化ならまだ難解でした。
藤井叡王が勝って2勝1敗。第四局は28日に指される予定です。
現実的にAという人間が存在していて,Aが別の人間であるBを憎んでいる場合に,AがBを殴打するということは,必ずそうなるというものではないとしても,生じ得る現象であるということが,論理的にも確認されました。
このとき,AがBを殴打するという行為,つまり殴打という行為だけを抽出して考えるなら,それはAの能動actioであり,Bの受動passioであることになります。これはちょうど,『はじめてのスピノザ』で説明されている,恐喝の事例と比較すれば分かりやすいでしょう。AがBを恐喝してBが金品を渡すとき,Bは金品を渡しているにもかかわらず,その行為はBの受動とみなされなければならなかったのでした。今回の殴打の事例では,Aが一方的にBを殴打しているのであり,Bは単に殴打されているだけです。恐喝の事例がBの受動であるのは,この部分だけを抽出すれば,Bの力potentiaよりもAの力の方がより多く表現されているからでしたが,AがBを殴打するという部分だけを抽出するなら,Aの力だけが表現されていて,Bの力は何も表現されていないといえるでしょう。ですからこれはAの能動であってBの受動であるといわれなければなりません。
ではAがBを殴打するという行為を全体的に見てそれがAの能動であるといえるのかといえば,そうではありません。ここではAはBに対する憎しみodiumに駆られてBを殴打するということになっていますから,AがBを殴打するというAの身体corpusの徳virtusとみなすことができる力より,AがBを憎んでいる力の方がさらに多く表現されているといわなければならないからです。したがってある意味では,Aが殴打する力より,Aに憎しみを与えているBの力の方がより多く表現されているとさえいえるのです。そしてもしもそのように解するのであれば,少なくともAがBを憎むという点においては,むしろBの能動であってAの受動であるといえるでしょう。そしてその憎しみに駆られてAがBを殴打するのであれば,この殴打という行為自体も,実はAの受動でありBの能動であるということになるでしょう。
僕は上述のような解釈が成立するということは認めますが,その解釈を採用することはしません。
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