スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

五稜郭杯争奪戦&無力

2023-05-16 19:12:03 | 競輪
 函館記念の決勝。並びは嵯峨‐新田の北日本に東口,犬伏‐小倉‐西田の四国中国,嘉永‐中本の熊本で和田は単騎。
 新田がスタートを取って嵯峨の前受け。4番手に和田,5番手に犬伏,8番手に嘉永で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。前を叩きにいくのではなく,犬伏の外で併走しました。嵯峨は誘導との車間を開けてペースを落とし,後続が叩きに来るのを待ち構えていたのですが,犬伏と嘉永の併走が続いたまま残り2周のバックへ。ここで犬伏が引き,嘉永が5番手,犬伏が7番手に入れ替わって打鐘。打鐘を迎えても嵯峨はペースを上げませんでした。引いた犬伏は打鐘後のコーナーから発進。嵯峨が合わせようとしたもののスピードが違いすぎ,ホームであっさりと犬伏が叩きました。しかし小倉がマークしきれなかったので単独でのかまし先行に。嘉永も発進し,犬伏との差を詰めにいくと,中本が離れたので,自力に転じた新田が少し離れて追う形に。直線に入って犬伏を差した嘉永が優勝。追った新田が2車身差で2着。かました犬伏が4分の3車輪差の3着に残り,新田マークの東口が1車輪差で4着。
 優勝した熊本の嘉永泰斗選手は4月に松戸でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年10月の熊本記念以来となる2勝目。このレースは犬伏と嘉永が相互に牽制し合ったので,前受けから叩かれなかった嵯峨と新田にとっては絶好の展開で,本来ならば嵯峨の先行から新田の差しあるいは番手捲りとなる筈でした。ところが嵯峨がなかなかペースを上げなかったために,犬伏にあっさりとかまされることに。これは明らかに嵯峨の失敗で,新田の前を走る以上は,打鐘からは後ろを気にせずにピッチを上げるべきだったと思います。かましにいった犬伏はいいレースをしたと思いますが,小倉が離れてしまったのは大きな誤算だったでしょう。マークしていれば嘉永に対して何らかの抵抗ができたでしょうから,四国中国勢にとってはチャンスを逸したという感が残ります。もちろん捲って2車身の差をつけた嘉永も強い内容でした。

 スピノザの哲学では,potentiaの反対が無力impotentiaといわれ,僕もそのような意味で力といいまた無力といいます。ただ,無力というのは,文字通りに力がないという意味であるわけではないということがここから理解できます。力というのは,第四部定理四系でいわれている,僕たちが隷属している力に対して,僕たちの本性essentiaのみによって説明される力が上回っている場合にいわれるものです。つまり,たとえばAが現実的に存在しているとして,Aに力があるといわれるのは,Aの本性のみによって説明される力が,Aが働きを受けている力より大きい場合のことを意味します。したがって,Aの本性のみによって説明できる力をAが発揮しているとしても,それが働きを受けている力を上回っていない場合,つまりAに作用しているAの外部の物体corpusの力の方が大きい場合は,Aには力があるとはいわれません。そしてこの場合にはAは無力であるといわれることになるのです。つまり無力というのは,あるものとほかのものとの比較の上でいわれるのであり,あるものが無力であるといわれるからといって,そのものが一切の働きをなしていないということを意味するのではありません。現実的に存在する人間は受動的である限りは無力であるといわれなければなりませんが,能動actioと受動passioが全体のバランスの中で判断されなければならないのと同じように,力と無力もそうしたバランスの中で判断されることになるのです。自由の人homo liberは能動的であり,そのゆえに力がある人間ですが,だからといって一切の受動に隷属していないということを意味するわけではありませんでした。いい換えれば自由の人も部分的には無力です。逆に奴隷は無力といわれなければなりませんが,部分的には力があるという場合もあるでしょう。力と無力はこのように,働く力agendi potentiaと働きを受けるpati力のバランスの上でそういわれるのであって,どちらかが100でどちらかが0であるというわけではないのです。
                                   
 第三部定理三九は,さらに僕たちに重要なことを教えてくれます。この定理Propositioのうち,憎しみodiumに駆られてそのものを破壊するなら,それはすべて受動ですが,その受動を避けたからそれが能動だとは断定できません。
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