『なぜ漱石は終わらないのか』の序章で,石原千秋は『こころ』の先生と奥さんとの間には性的交渉がなかったという主旨の発言をしています。僕は以前にスメルジャコフとKとの間には類似点があるということをいいましたが,これでみればスメルジャコフと先生の間にも類似点があるということになります。

『こころ』の第八章で,先生と奥さん,そして私が先生の家で酒を飲みながら会話をする場面があります。そのときに,先生の家には夫婦のほかに下女がいただけでいつもひっそりとしていたということが語られ,奥さんが私に向かって,子どもでもあるといいんですが,と言います。この部分は,この手記を書いている時点で私の子どもが存在しているということを示すために指摘したことがある部分で,私は奥さんに対して,そうですなと言ったのだけれども,それは本心ではなかったということが告白されます。この会話を聞いていた先生は,ひとりもらってやろうかと提案します。これは酒席でのことであって,先生の本心ではなかった,つまり本気で先生がそのように提案したわけではないと僕は解します。奥さんはその提案に対して,貰いっ子ではと,私に言います。すると先生は,子どもはいつまでたってもできっこないと言います。奥さんが黙っているので私がなぜかを先生に尋ねるのですが,先生は天罰だからと言って高笑いをするのです。
この,子どもができっこないという先生の発言から,石原は,先生と奥さんの間では性的交渉がなかったのだと読解します。この読解はあり得るものだと思いますが,そのことは後回しにして,必ずしもそのように読解しなくてもよいということを示しておきます。
奥さんは子どもでもあるといいと私に対して言っています。これは子どもができる可能性があるがゆえの発言であると解することもできるでしょう。もしもそうなら,これは性的交渉があったことの何よりの証明です。また,先生が子どもはできっこないと言ったことも,その理由として天罰という,はっきりと明示されたものとはなっていません。ですから性的交渉をしても天罰で子どもはできないという意味に解することはできます。なので石原の読解が絶対に正しいとはいえないことは確かです。
ふたつめの課題が含んでいるふたつの観点というのは,他者に対する愛amorのゆえに親切をなすということが抑制されたり除去されてしまうということがひとつで,自身にとっての悪malumであるという認識cognitioが理性ratioによってなされるという観点です。順番は逆になりますが,ここではこのふたつめの課題の方を先に,そして順に考察していきます。
このひとつめの観点は,解決するのがそれほど困難ではないと僕は思っています。そもそも愛という感情affectusがそれ自体で合倫理的な感情といわれるのは,第三部定理三九の様式で,他者に対して親切をなすように仕向けるからです。そして有徳的であるなら合倫理的であるのですから,僕たちは理性に従っている限りでは他者に対して親切をなそうとするのです。このことは,理性によって愛が生じているかいないかということとは関係ありません。したがって,愛のゆえに他者に対して親切にすることを,理性はそれ自体で禁じたりはしないのです。よって,理性は他者に対して親切にすることを,抑制するということはあり得るでしょうが,除去するということはないのです。そして逆に,もしも他者に対して親切にすることが過少であった場合には,適性に親切にするようにその人を動かすことになります。
このとき,過少な親切を適正な親切にすることが合倫理的であるということにはとくに反論は出ないものと思われます。であるならそれと同様に,過剰な親切を適正な親切へと抑制することもまた合理利的なのです。つまり,過少であろうと過剰であろうと,他者に親切にすることは合倫理的ですが,それが適正な親切になるならより合倫理的になるということです。よって,受動的な愛のゆえに他者に親切にしようと理性に従うことによって他者に親切にしようと,同じように合倫理的であるのですが,どちらがより合倫理的であるのかといえば,後者の方であるということです。よって,仮に理性に従うことによって受動的な愛のゆえに親切にすることが抑制されることがあったとしても,それは合倫理的であり,抑制されていない場合でもそれは合倫理的であるということになります。つまりこのふたつのことはまったく矛盾しません。

『こころ』の第八章で,先生と奥さん,そして私が先生の家で酒を飲みながら会話をする場面があります。そのときに,先生の家には夫婦のほかに下女がいただけでいつもひっそりとしていたということが語られ,奥さんが私に向かって,子どもでもあるといいんですが,と言います。この部分は,この手記を書いている時点で私の子どもが存在しているということを示すために指摘したことがある部分で,私は奥さんに対して,そうですなと言ったのだけれども,それは本心ではなかったということが告白されます。この会話を聞いていた先生は,ひとりもらってやろうかと提案します。これは酒席でのことであって,先生の本心ではなかった,つまり本気で先生がそのように提案したわけではないと僕は解します。奥さんはその提案に対して,貰いっ子ではと,私に言います。すると先生は,子どもはいつまでたってもできっこないと言います。奥さんが黙っているので私がなぜかを先生に尋ねるのですが,先生は天罰だからと言って高笑いをするのです。
この,子どもができっこないという先生の発言から,石原は,先生と奥さんの間では性的交渉がなかったのだと読解します。この読解はあり得るものだと思いますが,そのことは後回しにして,必ずしもそのように読解しなくてもよいということを示しておきます。
奥さんは子どもでもあるといいと私に対して言っています。これは子どもができる可能性があるがゆえの発言であると解することもできるでしょう。もしもそうなら,これは性的交渉があったことの何よりの証明です。また,先生が子どもはできっこないと言ったことも,その理由として天罰という,はっきりと明示されたものとはなっていません。ですから性的交渉をしても天罰で子どもはできないという意味に解することはできます。なので石原の読解が絶対に正しいとはいえないことは確かです。
ふたつめの課題が含んでいるふたつの観点というのは,他者に対する愛amorのゆえに親切をなすということが抑制されたり除去されてしまうということがひとつで,自身にとっての悪malumであるという認識cognitioが理性ratioによってなされるという観点です。順番は逆になりますが,ここではこのふたつめの課題の方を先に,そして順に考察していきます。
このひとつめの観点は,解決するのがそれほど困難ではないと僕は思っています。そもそも愛という感情affectusがそれ自体で合倫理的な感情といわれるのは,第三部定理三九の様式で,他者に対して親切をなすように仕向けるからです。そして有徳的であるなら合倫理的であるのですから,僕たちは理性に従っている限りでは他者に対して親切をなそうとするのです。このことは,理性によって愛が生じているかいないかということとは関係ありません。したがって,愛のゆえに他者に対して親切にすることを,理性はそれ自体で禁じたりはしないのです。よって,理性は他者に対して親切にすることを,抑制するということはあり得るでしょうが,除去するということはないのです。そして逆に,もしも他者に対して親切にすることが過少であった場合には,適性に親切にするようにその人を動かすことになります。
このとき,過少な親切を適正な親切にすることが合倫理的であるということにはとくに反論は出ないものと思われます。であるならそれと同様に,過剰な親切を適正な親切へと抑制することもまた合理利的なのです。つまり,過少であろうと過剰であろうと,他者に親切にすることは合倫理的ですが,それが適正な親切になるならより合倫理的になるということです。よって,受動的な愛のゆえに他者に親切にしようと理性に従うことによって他者に親切にしようと,同じように合倫理的であるのですが,どちらがより合倫理的であるのかといえば,後者の方であるということです。よって,仮に理性に従うことによって受動的な愛のゆえに親切にすることが抑制されることがあったとしても,それは合倫理的であり,抑制されていない場合でもそれは合倫理的であるということになります。つまりこのふたつのことはまったく矛盾しません。