スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

徳&第二部定理四五の検証

2021-03-06 19:17:04 | 哲学
 欲望cupiditasを受動状態における人間の現実的本性actualis essentiaとみる限りでは,それと反対の概念notioは,当然ながら能動状態における人間の現実的本性ということになります。そしてそれはスピノザの哲学の中では徳virtusといわれます。このことは第四部定義八から分かります。人間が自己の本性naturaのみによってあることをなす,というのは,人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなすという意味にほかなりません。よって第三部定義二により,それは能動actioであるからです。
                                  
 スピノザはこの定義Definitioを示す際に,第三部定理七を参照するように指示しています。この定理Propositioは,コナトゥスconatusが人間の現実的本性であることを示しています。したがって徳というのはとくに,人間が能動的に自己の有suo esseに固執するconatur場合のことを意味することになります。もっともこのことは,ここで徳と欲望が反対の概念であるということを前提していることからも明らかです。というのは第三部諸感情の定義一からして,人間が受動状態において何事かをなす場合について,それが欲望といわれているからです。
 また,徳の定義では,徳が力potentiaと同一視されています。これは能動的であることが力で,受動的であることは力と逆の意味で無能impotentiaであることを意味しています。スピノザは確かにこのことを認めていますが,これについてはまた別の機会に説明しましょう。
 能動的であればそれはすべからく徳であるといわれるのですが,その中でも最高の徳というものもあります。それは神Deusを十全に認識するcognoscereことです。これは第四部定理二八でスピノザがいっていることです。
 第五部定理四二では,徳が至福beatitudoと等置されます。この定理が意味しているのは,実際には至福と徳は同一であるということです。此岸すなわち現世で徳を積むことによって,彼岸すなわち来世に至福が得られるという,ある種の宗教的な考え方をスピノザはここで否定しているのです。至福は徳の報酬ではなく徳そのもの,すなわち現世で享受されるものなのです。

 第二部定理四七の論証Demonstratioにスピノザが援用している定理Propositioのうち,ここでは第二部定理四五を重点的に考察します。
 この定理では,各々の物体corpusないしは個物res singularisの観念ideaといわれています。物体というのは第二部定義一から分かるように,延長の属性Extensionis attributumの個物res particularisを意味します。ここで単に物体といわれずに,物体ないしは個物といわれているのには,おそらく理由があります。それは,スピノザがこちらの定理を証明するときには,第二部定理八系を援用しているという点です。この系Corollariumでは,個物の観念といわれていますので,それに適合させるために,スピノザは第二部定理四五では単に物体の観念とはいわずに,物体ないしは個物の観念といったのだと推測されます。ただし,第二部定理四七の目的,すなわち人間の精神mens humanaが神Deusの永遠で無限な本性essentiaを十全に認識するcognoscereということを論証するために第二部定理四五を援用する場合には,単に物体の観念といえば十分であった筈です。というのは,第二部公理五から,人間の精神が認識する個物というのは延長の属性の個物すなわち物体か,思惟の属性Cogitationis attributumの個物つまり個物の観念いい換えれば物体の観念だけであるからです。
 一方,第二部定理八系でいわれている個物の観念というのは,必ずしも物体の観念だけを意味するわけではありません。ここでは神の属性は無限に多くあるということが前提とされていて,その各々の属性の個物の観念が,神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在するといわれていると解するべきだからです。ですが上述したように,人間の精神が神の本性を十全に認識するということを示すためには,延長以外の属性の個物の観念が,神の無限な観念が存在する限りで存在するということは不要です。人間の精神が認識することができない観念については,それが神の永遠な本性や無限な本性を含んでいようと含んでいまいと,人間の精神によるどのような認識cognitioに対しても,まったく影響を与えないからです。これはAが認識することが不可能なものはAの認識に一切の影響を与え得ないといっているのと同じですから,それ自体で明らかだといえるでしょう。
 これで第二部定理四五の何が重要なのかは分かりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする