スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヴィクトリアマイル&原因の力と結果の力

2023-05-14 19:02:47 | 中央競馬
 第18回ヴィクトリアマイル
 ロータスランドが逃げてサウンドビバーチェが2番手。3番手はスターズオンアースとララクリスティーヌとルージュスティリアとソダシの集団。7番手はクリノプレミアムとナミュールとナムラクレア。10番手にソングライン。2馬身差でアンドヴァラナウトとステラリアとディヴィーナ。14番手にスタニングローズ。この後ろに控えていたイズジョーノキセキは行きたがって内から進出。2馬身差の最後尾にサブライムアンセムという隊列。前半の800mは46秒2のスローペース。
 直線の入口ではロータスランドとソダシが併走。ソダシがやや外目に進路を取ったので,2頭の間に間隔ができました。ロータスランドは直線では一杯になり,ソダシが単独の先頭に。ソダシの外に出したスターズオンアースとさらに外からディヴィーナが追い上げてきたもののこの2頭はソダシに追いつけず。しかしロータスランドとソダシの間から追ってきたソングラインがソダシとの差を詰め,フィニッシュを前に差し切って優勝。ソダシがアタマ差で2着。スターズオンアースが4分の3馬身差の3着でディヴィーナが1馬身差の4着。
 優勝したソングラインは昨年の安田記念以来の勝利で大レース2勝目。前年の安田記念を勝った馬がこのレースに出てきた場合は勝っていましたので,その傾向と合致する結果。この馬は安田記念を勝った後,昨秋は1戦しかレースを使えず,今年もサウジアラビアでの1戦だけでしたので,順調さを欠いているのではないかという面の不安がありました。しかしここは態勢が十分に整っていたようです。2着馬も3着馬もここでは実績上位の馬たちですから,全体的に順当な決着であったといえそうです。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで5つ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントさきたま杯東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー
 騎乗した戸崎圭太騎手は一昨年の全日本2歳優駿以来となる大レース19勝目。第10回11回を連覇していて7年ぶりのヴィクトリアマイル3勝目。管理している林徹調教師は昨年の安田記念以来の大レース2勝目。

 Aが憎しみodiumに駆られてBを殴打するというとき,AがBを殴打する力potentiaより,AのBに対する憎しみの力の方がより多く表現されているということは僕は認めます。なぜかといえば,この場合はAがBを憎んでいるということが原因causaで,AがBを殴打することはその結果effectusと僕はみるからです。憎しみというのは第三部諸感情の定義七によって外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeです。したがってAの悲しみの原因がBであるとAが認識しているという状態が前提になります。第三部定理三九は,その悲しみを除去するために,悲しみの原因となっているものに害悪を与えようとするというように証明ができます。したがって,AがBを殴打するという害悪を与えるのは,AがA自身の悲しみの原因がBであると認識しているがゆえのことで,この認識cognitioがないなら殴打という行為は生じません。あるいは生じるとしてもそれは憎しみとはほかの要因に依拠するといわなければならないでしょう。このことから明白なように,Aが自身の悲しみの原因がBであると認識していること,つまりAがBを憎んでいるということは,AがBに害悪を与える,この場合でいえば殴打するということの原因なのです。
                                   
 第一部公理四によって,結果の認識は原因の認識に依存します。したがって,結果が有する力は原因が有する力の中に含まれているといわなければなりません。よって,一般的に原因の力はその結果の力よりも多く表現されるexprimunturことになります。そしてAのBに対する憎しみは,AがBを殴打するとの原因なのですから,AがBを憎んでいるという力は,AがBを殴打するということの力を含んでいます。いい換えればAのBに対する憎しみの力は,その結果としてAがBを殴打するということの力より多く表現されていることになります。なので僕は,AがBを殴打する力より,AのBに対する憎しみの力より多く表現されていると考えます。
 AのBに対する憎しみは,AがA自身の悲しみの原因としてBを認識しているという意味でした。これでみればBという原因の力が,Aの悲しみの力よりもより多く表現されているように思われます。僕はこの点については全面的には肯定しません。
コメント
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