スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港チャンピオンズデー&行動による判断

2023-05-01 19:00:59 | 海外競馬
 昨日の香港のシャティン競馬場での香港チャンピオンズデーの開催には,2レースに4頭の日本馬が出走しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。
 アグリは5番手の外を追走。位置取りはほとんど変わらないまま直線へ。このレースは2番手を追走していたラッキースワイネスが快勝し,2着争いが接戦という結果になりましたが,その2着争いに加わるところまでいくことができず,勝ち馬から6馬身4分の3差で5着でした。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。
 ダノンザキッドが4番手,ジェラルディーナが5番手の外,発馬後の加速が鈍く1馬身ほどの不利があったプログノーシスは最後尾を追走。直線に入るところではジェラルディーナが6番手に。このレースはマネーキャッチャーが3馬身ほど後ろを離して逃げたのですがペースはスロー。3番手を追走し,3コーナーからその差を詰めていったロマンチックウォリアーが直線で抜け出し快勝。直線で逃げたマネーキャッチャーと,ロマンチックウォリアーを追っていたドバイオナーの間を突いたプログノーシスが2馬身差で2着。ダノンザキッドはそこから3馬身差の5着。大外を回ったジェラルディーナはダノンザキッドと僅差の6着。

 もしも人間の身体humanum corpusが部分的原因causa partialisとして何らかの行動をなすとしたら,その行動は受動passioです。これは第三部定義二から明白だといわなければなりません。よって人間が何かを殴打するという行動は,その人間の能動actioである場合もあれば受動である場合もあるのです。
 第四部定理五九がいっているのは,現実的に存在する人間が受動的になすあらゆる行動を,その人間は能動的になすことができるという意味のことです。よってある行動をそれ単独で抽出した場合には,その行動が能動であるのか受動であるのかは判断することができません。殴打も含めて現実的に存在する人間がなすあらゆる行動が,能動でもあり得るし受動でもあり得るからです、ですから能動であるか受動であるかの判断は,その行動の原因に依存するのであって,行動をなす人間の身体を眼中に置くならば,その人間の身体が十全な原因causa adaequataであるのか部分的原因であるのかということに注目しなければならないのです。よって僕たちは,他人のある行動をみて,その行動だけでそれがその他人の能動であるのか受動であるのかを判断することはできません。これがこの部分で國分がいっていることでした。
                                        
 これは現在の考察とは無関係ですが,『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique」の中で,ドゥルーズGille Deleuzeはこの部分を善悪の関係として示しています。よい機会ですからこれも紹介しておきましょう。
 第四部定理五九でいわれているように,人間の身体が何かを殴打するという行動は,人間の身体の機構だけでみればその人間の身体のvirtusです。ですからこの行為自体は善bonumではあり得ますが悪malumではあり得ません。しかしだからこの行為は常に善であるとみることができるわけではありません。もしもその行為によって,殴打をする人間と殴打をされる物体corpusとの構成関係が破壊されてしまうような表象像imagoと結びついているなら,それは必然的にnecessario悪です。ですから,たとえば現実的に存在する人間が他の人間を殴打して殺してしまうというようなことが生じるなら,それは悪なのです。しかしもしもこの種の構成関係がこの行為と組み合わさるような観念ideaと結びついているのなら,その行為自体は悪であるということはあり得ず,善なのです。
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