スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産省賞典安田記念&神の本性

2017-06-04 19:03:56 | 中央競馬
 第67回安田記念
 グレーターロンドンはほかの馬よりいささかダッシュ力が劣りました。外の方からロゴタイプが主張してハナへ。ディサイファ,サンライズメジャー,ブラックスピネル,ヤングマンパワーの4頭が2番手集団を形成。好位にはコンテントメント,クラレント,イスラボニータの3頭。中団の前目にトーキングドラムとステファノス。ビューティーオンリーを挟んでグレーターロンドンとロジチャリス。後方にレッドファルクスとサトノアラジンで,エアスピネルが後方3番手。アンビシャスとロンギングダンサーが最後尾に。前半の800mが45秒5のミドルペースで,先頭から最後尾までさほどの差がつきませんでした。
 直線に入るところではロゴタイプ,サンライズメジャー,ブラックスピネル,ヤングマンパワーの4頭が雁行状態。直線に入ると逃げたロゴタイプが早めに追い出され,追い掛けてきた馬たちとの差を一気に広げました。このために中団より前にいた馬たちは総崩れとなり,追い掛けてきたのは後方に位置していた馬たち。このうち先行集団のすぐ外から脚を使ったサトノアラジンがロゴタイプを捕えて優勝。逃げ粘ったロゴタイプがクビ差の2着。大外から追い込んだレッドファルクスがクビ差で3着。ロゴタイプと先行勢の間を割ったグレーターロンドンがクビ差の4着でエアスピネルがまたクビ差で5着。
 優勝したサトノアラジンは昨年のスワンステークス以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初制覇。持ち味は鋭い末脚で,勝ちタイムが早いレースを得意とする馬。前走は大敗でしたが,これは重馬場の影響ですから度外視はできたところ。ただ,これまでの戦績から1400mがベストではないかと考えていたので,僕は軽視してしまいました。マイル路線は強い馬がいたために勝てなかっただけで,それがいなくなれば力量上位であったということでしょう。今後もいいタイムが出る馬場状態であるか否かが,好走できるかどうかのポイントになってくるでしょう。父はディープインパクト。全姉に2014年のエリザベス女王杯を勝ったラキシス。安田記念は6歳馬と体重が500㎏以上の馬が好走するという傾向にあるのですが,その傾向と合致した馬の優勝でした。
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は昨年の日本ダービー以来の大レース制覇。第65回以来2年ぶりの安田記念2勝目。管理している池江泰寿調教師は皐月賞以来の大レース制覇。安田記念は初勝利。

 スピノザがいうDeusを正しく理解するために神の存在と同等の重要性を有していると僕が考えているのは,神は第一部定義一でいわれている自己原因causam suiであり,かつ自己原因であるものは神だけであるという点です。
 スピノザと同時代的にいえば,『スピノザ 共同性のポリティクス』でもいわれているように,自己原因というのは原因がないものというほどの消極的なものでした。それをスピノザは本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamという積極的なものとして示したのです。ただし,それはそうしたものが自己原因といわれなければならない必然性を含むわけではありません。『近世哲学史点描』で示唆されているように,スピノザは自己原因に関わる論争に決着をつけるために意図的にそういういい方をしたのであり,このことは確かにその時代においては重要でしょうが,歴史的な意味で重要だということであり,神を理解するにあたっては考えなくても構いません。というのは,本性に存在が含まれているということが内容としては大切なのであり,それが自己原因といわれるかどうかは問う必要がないからです。
 ただ,スピノザが自己原因を積極的に定義したということのうちには,単に自己原因だけが積極的に定義されたということだけが意味されているのではなく,この点が僕たちの神の理解にとっては欠くべからざる要素になるのです。なぜなら,第一部定理二五備考で,神が自己原因であるというのと万物の原因omnium rerum causaであるということは同じ意味であるという主旨のことがいわれているからです。このためにスピノザの哲学における自己原因と原因の関係は,自己原因をそれ自身が原因であるという意味に解すべきではなく,原因とは外部のものと一体化した意味で自己原因であるという具合に解すべきであるということが出てくるからです。そして同時に,第一部定理二五がいっているように,神は万物の存在の原因causa efficiens rerum existentiaeであるだけでなく,万物の本性essentiaeの原因でもあるのですから,このように神の本性を理解することと,万物の本性を理解することとを切り離しては考えることができないようになっているのです。この意味において,僕はこの理解が神の本性と関係するというのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする