スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大阪・関西万博協賛競輪&自由の表象

2023-05-09 19:12:42 | 競輪
 4月30日に久留米競輪場で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは朝倉‐橋本‐小林‐岡田の茨城栃木,伊藤‐柿沢の関東,林‐塚本の九州で嵯峨は単騎。
 柿沢がスタートを取って伊藤の前受け。3番手に林,5番手に朝倉,最後尾に嵯峨で周回。残り2周のホームの入口の手前から朝倉が上昇していくと林も対応。ホームでは3つのラインが横並びに。間になってしまった林は引かされ,朝倉が伊藤を叩いて打鐘。茨城栃木ラインを追っていた嵯峨は伊藤に絡まれる形になりましたがホームで5番手を確保。6番手に伊藤,8番手に林の一列棒状に。バックに入ると後ろの追い上げを待たずに朝倉の番手から橋本が発進。この番手捲りがものの見事に決まり,橋本が優勝。マークの小林が1車身差の2着。岡田も半車輪差の3着に続いて茨城栃木勢の上位独占。
 優勝した茨城の橋本壮史選手はこれがS級での初優勝。この開催は日本選手権に出場しない選手でのものなのでもとより混戦模様。しかも初日の特選にシードされた選手のうち決勝に進出できたのがひとりしかいなかったことでさらに輪を掛けました。その中で茨城栃木勢が4人も決勝に進出し,結束してのレース。叩きにいったときに前受けしていたのが,別のラインとはいえ同じ関東の伊藤で,変に邪魔されることがなかったのも幸いしました。このメンバー構成でこの展開での優勝ですから,GⅢで優勝したからといってすぐに記念競輪での活躍を見込むことはできないのではないでしょうか。

 体制によって自由libertasが保障されている場合,その体制の下で生活する民衆は,自身が何事も自由に決定するdeterminareことができて,現に自由に決定していると表象しやすくなります。とくにそうした民衆が,そうでない社会societas,つまり体制によって自由が保障されていない国家Imperiumの市民Civesと比べた場合,このことは非常に生じやすくなります。しかしこのことは,自由が保障された体制下にある民衆が,実際に自由に物事を決定していることを意味しているわけではありません。このために民主制は長続きしないという一面を有するのです。なぜなら民主制の体制下にある人間は,自分が自由に決定していると表象しがちなので,たとえ自由を放棄する決断をするとしても,それが自身の自由な決定determinatioであるというように表象してしまうからです。要するに現実的に存在する人間は,民主制を放棄して共和制を選択すること,あるいは貴族制すなわち独裁制を選択することについても,それが自身の自由な決定によるものだと思い込むことができるようになっているのです。このために,民主制は容易に共和制にまた貴族制へと変遷していくことになるのです。もちろんこれは民主制が長続きしないことの一面なのであって,現にある民主制がすべてこのような仕方で共和制や貴族制へと変化したというわけではありません。ただ,民主制を放棄すること,もっといえば自身の自由を放棄することも,自身の自由な決定であると思い込むことが,現実的に存在する人間には生じるということは,よく覚えておかなければなりません。そうした危険は現実的に存在している人間である僕たちに常に潜んでいるといわなければならないからです。
                                        
 スピノザがいう能動的自由というのは,現実的に存在している人間が十全な原因causa adaequataとなって自身の運動motusと静止quiesおよび思惟作用を決定することをいうのでした。いい換えれば,第四部定理四系でいわれている僕たちが隷属しているpotentiaに対して,僕たち自身の本性essentiaのみによって説明することができる力が上回ることをいうのでした。したがって,ある人間が自由であることを決定することができるのはその人間だけです。国家や社会の体制がそれを決定できるのではありません。
コメント
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