昨日の施設整備等協賛競輪in伊東温泉の決勝。並びは青野‐竹内‐佐藤の東日本,山口‐川口の岐阜,阿部‐隅田‐久保田の西国で石塚は単騎。
山口と久保田がスタートを取りにいきました。内の山口が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,6番手に青野,最後尾に石塚で周回。石塚は結果的に東日本ラインを追走するレースになりました。残り4周のバックから青野が上昇開始。前を抑えにいくのではなく,阿部の外で併走を続けました。このまま残り3周のバックへ。その後のコーナーで青野はさらに上昇し,山口を叩きました。山口はすぐには引かず,このラインを追走した石塚の内で一旦は粘りました。打鐘前のバックから阿部が発進。ここから青野と阿部の先行争いに。この先行争いは最終周回のバックまで決着がつかず,阿部がいききれないとみた隅田が番手から発進。青野を捲り切りました。久保田の後ろに山口が続いて3人の優勝争い。外から伸びた山口が内のふたりを差し切って優勝。隅田が半車輪差の2着。久保田が4分の1車輪差の3着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は昨年11月の大垣のFⅠ以来の優勝。グレードレースは一昨年の共同通信社杯以来の2勝目でGⅢは初勝利。この開催は全日本選抜競輪に出走しないメンバーでの争い。そういったメンバー構成では山口の脚力は他を圧倒していて,優勝候補の筆頭。初日の特選は失敗しましたがその後は3連勝でその期待に応えました。隅田が阿部の番手を回るレースになり,阿部はいききれなかったものの番手捲りのような形にはなりましたので,山口にとってよい展開であったわけではありません。直線の伸びは目立つもので,それがほかのメンバーとの力の差だったということでしょう。青野がよく頑張っただけに,竹内はもう少し何かできたのではないかとは思います。
なし得ることのいくつかをなさないようなものは最高に完全summe perfectumとはいい難いので,神Deusが最高に完全であるためには,神はなし得ることのすべてをなさなければならないということから帰結するのは,神は自由意志voluntas liberaによって働くagereことはないということです。なぜなら,たとえばAとBの両方を神はなし得ると仮定して,自由意志によってAをなし,Bはなさないとするなら,神はBはなし得るのになさないということになります。つまり神はなし得ることのうちのいくつかはなさないということになります。よって神がこの種の自由意志によって働くと仮定すれば,神はなし得ることのすべてはなさないといわなければならず,したがって神は最高に完全であることができなくなるのです。
神が善意によって何事かをなすということはないということがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられた批判であるとすれば,神は自由意志によって働くものではないという批判は,デカルトRené Descartesに向けられたものといえます。デカルトが規定する神は,自由意志によって働く神であり,しかしこの神はなし得ることのいくつかはなさない神なので,最高に完全ではないというようにスピノザはいっているのです。ただ,これは哲学的な観点のみに向けられた意味であって,キリスト教神学における神も,自由意志によって働く神なので,そうした方面に対する批判にもなっていると解しておかなければなりません。スピノザが無神論者といわれるようになったのは,神が自由意志によって働くということを否定したからだという面が最も大きく影響したのであって,そのことはデカルトの哲学よりキリスト教の方が強く重視したといえるからです。とはいえ,確かになし得ることのすべてをなす者と,なし得ることのいくつかはなさない者とを比較すれば,なし得ることのすべてをなす者の方が完全であるというべきであって,なし得ることのすべてをなさない神,つまり自由意志によって神は働くと規定しているキリスト教にとってもデカルトにとっても,これはその規定を逆手に取られているといえるでしょう。
たぶんこれらのことは,『はじめてのスピノザ』の読者にも適用することが可能だと僕は考えています。
山口と久保田がスタートを取りにいきました。内の山口が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,6番手に青野,最後尾に石塚で周回。石塚は結果的に東日本ラインを追走するレースになりました。残り4周のバックから青野が上昇開始。前を抑えにいくのではなく,阿部の外で併走を続けました。このまま残り3周のバックへ。その後のコーナーで青野はさらに上昇し,山口を叩きました。山口はすぐには引かず,このラインを追走した石塚の内で一旦は粘りました。打鐘前のバックから阿部が発進。ここから青野と阿部の先行争いに。この先行争いは最終周回のバックまで決着がつかず,阿部がいききれないとみた隅田が番手から発進。青野を捲り切りました。久保田の後ろに山口が続いて3人の優勝争い。外から伸びた山口が内のふたりを差し切って優勝。隅田が半車輪差の2着。久保田が4分の1車輪差の3着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は昨年11月の大垣のFⅠ以来の優勝。グレードレースは一昨年の共同通信社杯以来の2勝目でGⅢは初勝利。この開催は全日本選抜競輪に出走しないメンバーでの争い。そういったメンバー構成では山口の脚力は他を圧倒していて,優勝候補の筆頭。初日の特選は失敗しましたがその後は3連勝でその期待に応えました。隅田が阿部の番手を回るレースになり,阿部はいききれなかったものの番手捲りのような形にはなりましたので,山口にとってよい展開であったわけではありません。直線の伸びは目立つもので,それがほかのメンバーとの力の差だったということでしょう。青野がよく頑張っただけに,竹内はもう少し何かできたのではないかとは思います。
なし得ることのいくつかをなさないようなものは最高に完全summe perfectumとはいい難いので,神Deusが最高に完全であるためには,神はなし得ることのすべてをなさなければならないということから帰結するのは,神は自由意志voluntas liberaによって働くagereことはないということです。なぜなら,たとえばAとBの両方を神はなし得ると仮定して,自由意志によってAをなし,Bはなさないとするなら,神はBはなし得るのになさないということになります。つまり神はなし得ることのうちのいくつかはなさないということになります。よって神がこの種の自由意志によって働くと仮定すれば,神はなし得ることのすべてはなさないといわなければならず,したがって神は最高に完全であることができなくなるのです。
神が善意によって何事かをなすということはないということがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられた批判であるとすれば,神は自由意志によって働くものではないという批判は,デカルトRené Descartesに向けられたものといえます。デカルトが規定する神は,自由意志によって働く神であり,しかしこの神はなし得ることのいくつかはなさない神なので,最高に完全ではないというようにスピノザはいっているのです。ただ,これは哲学的な観点のみに向けられた意味であって,キリスト教神学における神も,自由意志によって働く神なので,そうした方面に対する批判にもなっていると解しておかなければなりません。スピノザが無神論者といわれるようになったのは,神が自由意志によって働くということを否定したからだという面が最も大きく影響したのであって,そのことはデカルトの哲学よりキリスト教の方が強く重視したといえるからです。とはいえ,確かになし得ることのすべてをなす者と,なし得ることのいくつかはなさない者とを比較すれば,なし得ることのすべてをなす者の方が完全であるというべきであって,なし得ることのすべてをなさない神,つまり自由意志によって神は働くと規定しているキリスト教にとってもデカルトにとっても,これはその規定を逆手に取られているといえるでしょう。
たぶんこれらのことは,『はじめてのスピノザ』の読者にも適用することが可能だと僕は考えています。