古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

覚王山散策

2007-12-16 | 旅行
 14日は、住宅の老人会のウオーキングで、覚王山周辺を散策しました。9時半集合、一行8名、地下鉄で覚王山。出口を出て坂道の参詣道を上ると直ぐ、覚王山日泰寺です。
 お寺は、真宗とか禅宗とか宗派があるのが普通ですが、このお寺には宗派がありません。以下、何故宗派がないかの経緯です。
 1898年、ネパールの南堺で、イギリス駐在官のウィリアム・ペッペが古墳の発掘をしていて、「仏陀の舎利(骨)をおさめたものである」旨を記した骨壷を発見した。19世紀の東洋史上最大の発見だそうです。インド政庁は、この釈尊の遺骨を仏教国であるタイ(当時シャム)の王室に寄贈した。
 タイ国王は、佛骨をワットサケットに安置し、一部を仏教国のセイロン、ビルマに分骨した。当時の日本公使が、タイ国王に懇願した結果「タイ国王から日本国民への贈り物」として下賜される事になった。
 日本の各宗管長は協議の末、使節団を派遣してご遺骨を拝受し、その際帰国後、超宗派で仏骨奉安の寺院を建立することを約束した。
 その結果、この地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を意味する”覚王”を山号とし、日本・タイの友好を象徴する日泰寺の寺号を持つ覚王山日泰寺の誕生を見た。
 住職は、現在19宗各派の管長が3年交代で務めているとのことです。
 http://www.a-namo.com/ku_info/chikisaku/pages_n/nittaiji.htm
 中東の紛争も、ユダヤ教・キリスト教・マホメット教の3教が、3年交替で聖地を管理することにすれば良い。仏教国日本の知恵を学んでほしい。
 小生も名古屋に来てから50年以上になるが、この寺の由来を初めて知りました。参拝の後、境内を散策して次に、東隣の「揚輝荘」に行きました。

 揚輝荘は、松坂屋の初代社長によって構築された別邸です。完成時(昭和14年)には、約1万坪の敷地の中に30数種の各種建築物が建ち並び、池泉回遊式庭園とともに、威容を誇ったそうです。
「今の金持ちはこんな施設は出来ないわね」、「税制で大金持ちは2代と続かないからね」等話しながら北庭園に入りました。
 伴華楼は、尾張徳川家から移築した和風建築に洋間を増築した建物、英語のバンガロウをもじった名称とのことでした。白雲橋は修学院離宮(京都)の千歳橋を模した。北庭園自体も修学院離宮を模したものだそうです。三賞亭という茶室があり、部屋の窓から見る庭園の眺めは抜群です。
 揚輝荘の建物には予約でないと入れない。一日63名しか入れないという。
http://www.city.nagoya.jp/kurashi/kyoiku/bunka/nagoya00043003.html

 揚輝荘を出て、昼食タイム。幹事のFさんが、参詣道中ほどの「えいこく屋」というインド料理の店に案内してくれました。
 皆さんはナンというインド料理のパンを注文。私はバナナ入り印度カレーを注文しました。
 このカレーの中のバナナ、バナナの甘味はなく、まるで じゃが芋のような味、カレーと煮込むとバナナはこんな味になるのかな。
 
 1時、店を出て、今度は日泰寺の北側を散策すると、釈迦仏骨を安置しているという奉安殿に出ました。
奉安殿はお寺の本堂とは別にあるのですね。「奉安塔」は東大教授、伊東忠太の設計になるガンダーラ様式の花崗岩の仏塔で大正7年に完成したそうです。
 2時半頃、「今日は良いお天気でよかった」、「皆さん心がけがよいのね」と話しながら帰途につきました。