古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

日本国憲法(1)

2005-03-07 | 読書
 最近、憲法改定論議を聞くことが多い。もう一度、憲法全文を読み直して見たい
と、「英語で読む日本国憲法を読む」(島村 力著、グラフ社、平成13年)という
本を図書館で借りてきました。著者の島村さんは元中央公論編集長。どうせ読むな
ら、英語文と比較して読もうと考えたのです。
 なにしろ、日本憲法は、米軍占領下で制定され、マッカーサー司令部が起草したも
のを、日本語に翻訳したという噂もありますから、英文と比較した方が、文意をつか
めるのでは?と思ったのです。
 英文憲法は、日本国憲法が公布府された時、英文官報に掲載され、「六法全書」に
も収録されていたが、今では六法全書からは姿を消している。その理由はわかりませ
ん。
 憲法を読んだのは、高校一年生の「社会」を学んだ時ですから、52年も前の話で
す。再読してみて、あれっ、こんな風になってた?と吃驚したところがあります。
 前文にこうありました。
「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする・・
・」、英文では
「・・never again shall we be visited with the horrors of war through the
action of government,・・」
 戦争が起きるのは政府の行為だと、明確に書いてある。
 日本国憲法の草案を、マッカーサー司令部が起草して、当時の日本政府に示したと
き、「政府の行為による戦争・・」という文を見て、政府高官は愕然としたことで
しょう。松本国務大臣は「前文カット」を佐藤達夫法制局部長に指示したそうです。
日本側が総司令部に提出した「憲法改正要綱」には前文はなかった。アメリカ側は前
文がないのに興奮して抗議し、日本側はあっさりと前文を認めた経緯があり、そのせ
いか、前文の英文はほとんどマッカーサー草案と同文だということです。

 この文言を書いた人は、相当革新的(あるいは左より)な人だったらしく、「戦争
は国家、即ち国の政府が起こすものだから、政府が戦争を起こさないよう、国民は政
府を監視すべきだ」と言いたいようです。この件に関しては、私も相当革新的(ある
いは左より)でして、その通りだと思うのです。
 以前述べたと思いますが、近代国家は戦争に勝つために考え出されたシステムで、
国家を作れなかった国は、属国になるか、植民地になるしかなかった。
 逆に言うと、戦争は国家が行うもので、国家以外の個人やグループが行う戦争行為
は、戦争でなく、テロである。話は別になるが、この意味で、北朝鮮の拉致事件をテ
ロという人がいるが、あれは政府がやったものだから、テロでなく、戦争である(宣
戦布告はないが)と思う。小泉首相は国家賠償を要求すべきだ。(続く)
 

日本国憲法(2)

2005-03-07 | 読書
 次は、憲法9条です。
 島村さんの本から、1946年、憲法草案を審議した国家での発言を見てみます。
 南原繁(貴族院)『戦争はあってはならぬ。是は誠に普遍的なる政治道徳の原理で
はありますけれども、遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争があるというのは歴史
の現実であります。従って私共はこの歴史の現実を直視して、少なくとも国家として
の自衛権と、それに必要なる最少限度の兵備をかんがえるということは、是は当然の
ことでございます』
 鈴木義男(社会党衆院議員)『戦争の放棄は国際法上に認められて居ります所の、
自衛権の存在までも抹殺するものではないことは勿論であります。』
 野坂参三(共産党衆院議員)『ここに戦争一般の放棄ということが書かれてありま
すが、・・この憲法草案に戦争一般放棄という形でなしに、我々は是を侵略戦争の放
棄、こうするのがもっと的確ではないか』・・・これに対して吉田首相
 『正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めることは、戦争を誘発する有害な考え
だ』

 最も本質を突いたのは、吉田首相の発言と思います。吉田さんは朝鮮戦争後、米国
から軍備強化を要求される度に、憲法9条を盾に、極力軍備費を少なくして、経済復
興に努めました。
 確かに、国家は戦争が出来るように考え出されたシステムですから、戦争をしない
国家と言うものは、『ふつうの国』ではない。
 しかし、日本が『ふつうの国』になって、海外派兵が出来るようになった時、自衛
隊は日本独自に行動できるだろうか?米国の世界戦略に組み込まれ、いわば米国の傭
兵(傭兵ならお金を貰えるけれど、貰えるどころか持ち出しになるだろう)になるの
がセキの山!ではないだろうか。
 こうした時代が来ることを見越して、9条を定めた先人の知恵を無にすべきでな
い。
 小泉さんには、吉田大先輩の爪の垢でも飲んで欲しい。と思うのです。今日は、吉
田首相の命日でした。(続)

 

日本国憲法(3)

2005-03-07 | 読書
 憲法の話、次は第24条です。
『結婚は両性の合意のみに基づき、夫婦が同等の権利を持つことを基礎として、お互
いの協力によって維持されなければならない。二項 略』
 英文『Marriage shall be based only on the mutual consent of both
sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with
the equal rights of husband and wife as a basis』
 この第24条について、私は『合意のみ』の『のみ』が気になるのですが、これに
ついて後日述べることにして、面白い裏話がありますから紹介します。

 芳紀22歳のベアテ・シロタさんが原案を起草したというのです。彼女は2000
年5月2日の参議院憲法調査会で証言しています。(彼女は、妊産婦や非嫡出児の保
護、長子単独単独相続権の廃止なども起草したという)
『ケーデイス大佐は「あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてある以上です
よ」といいました。私は、当り前ですよ。アメリカの憲法には女性という言葉が一項
も書いてありません。しかし、ヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利が詳しく書
いてありますと答えました。私はこの権利のために闘いました。涙も出ました。しか
し、最後には運営委員会は私が書いた条項から・・今の第24条だけを残しました。
・・・私はそのとき、22歳でした。だから、その運営委員会が、私より随分権力を
持っていたのは仕方がないと思いました。』
 原案が次々と削除されたとき、シロタさんは感情的になって大声で泣き出したとい
います。
 日本側との交渉では、シロタさんは通訳として、見事な活躍をしています。日本側
の代表として孤軍奮闘した佐藤達夫法制局第一部長は、シロタさんの印象を次のよう
に回想しています。
『法律論の相手は、ほとんど私一人で務めたわけであるが、その通訳は、主として、
ミス・シロタという司令部側の婦人がやってくれた。この人は・・・痩せぎすの、大
して美人ではなかったけれども、日本語もよくわかる非常に頭のいいむすめさんで
あった。・・・』(『日本国憲法誕生記』)
 徹夜に及ぶ日米間の作業の中で、第24条が合意に達したのは深夜2時ごろでし
た。この草案に消極的だった日本側が、ケーデイス大佐の「シロタ嬢は女性の権利に
ついて心を固めている。はやくこれ通そうじゃないか」という発言に促されて同意し
た背景には、シロタさんへの日本側の評価が幸いしたと言えるでしょう。 (続)



日本国憲法(4)

2005-03-07 | 読書
 第42条です。
 『国会は2院、即ち衆議院と参議院とで構成される。』
 単純な条項ですが、面白い裏話があるそうです。
 何故、二院制になったのか?マッカーサーは、最初一院制で良いと思ったらしい。
 彼が、一院制で良いと考えた理由は簡単です。旧憲法下では、貴族院がありまし
た。華族制は廃止するのだから、貴族院はなくなる。だから、一院制になる。という
のです。
 司令部の提示した最初の草案は一院制だった。
 英文の原案は『The Diet shall consist of one House of erected
representatives with a menbership of not less than 300 nor more than 500.』
 
 日本側の松本蒸冶国務相が反論した。そのときのやり取りを、後に松本氏は語って
います。
 「これは全然議会制を知らない人の答えである。・・そこで自分は『二院制を各国
が取っている理由は、いわゆるチェックするためで、多数党が一時の考えでやったよ
うなことを考え直すことが必要なために2院制を取っている。これらはすべて議会制
度のことを論じている学者が言っているところである。」と、そのことだけを簡単に
述べた。ところが先方の四人は、顔を合わせて、なるほどと思ったらしい。はじめて
2院制というものはどういうわけのものであるのか・・・知ったという顔をしたの
で、私もただ驚いた。

 学者先生の言われるところは分からないことはないが、実際に参議院はそうした機
能を果たしているのだろうか?
 私には、マッカーサーの原案の方が、シンプルで且つ経費の節約にもなって良いの
では?と思います。
 現制度では、今回の参院選挙のように、自民党が第二党に遅れをとっても、内閣は
そのままで代わらない。民意の反映が遅くなるという欠点がある。
 もっとも、その方が政治が簡単にぶれないから良いんだ、という考えもあるかも?

曽野綾子さんの読書&スポーツ論

2005-03-07 | 読書
 喫茶店でモーニングサービスを喫しながら、週刊誌をパラパラめくっていたら、曽
野綾子さんのエッセイを見つけました。以下、その要点を紹介します。
【私はスポーツを二つに分けて考えている。自分で「するスポーツ」と「見るスポー
ツ」である。
1.「するスポーツ」を私はかなり評価している。私が泳げば「それでも前に進んで
いるつもり?」と笑われるし、私がジョギングすれば、「あなたがトレーナーを着て
歩いているのを見たわ」という人がいた。それほど私のジョギングは遅かったのであ
る。しかし、それによって私は確実に心肺を私なりに限界まで使い、体の錆びつきを
取ったのだから。】
2.しかし、「見るスポーツは、じっとTVの前に坐っているだけだから、別に健康
に寄与しない。
 もし、週3時間テレビで野球を見ていると、年間156時間、24時間で割ると、
6.5日、しかし睡眠時間や食事時間を考えると、一日の使える時間は12時間ぐら
いだから、年間13日である。】
 野球のTV観戦をやめると【確実に年に13日分余計に本が読める。】
3.【読書は時間当りの「知識」の「収量」の効率が実に良い。場所はどこでも出来
るし、お金もあまりかからない。】
 という内容でした。

 私は、1と3には全く大賛成です。しかし、2については、一寸クビを傾げまし
た。
 その理由は、読書は(そして勉強も)、本を読む時間があれば、その内容が身につ
くのか?が疑問だからです。食事に例えると、食物をとる時間だけで、食べものが身
になるわけではない。消化する時間も、消化したものをアミノ酸に分解し更に自分の
体のたんぱく質に再構成するなど、体の臓器の活動する時間が必要です。
 脳について言っても、本で読んだ内容を消化し記憶にしまう活動を、読書が終わ
り、ボンヤリTVを見ていたりしている時間にも、脳細胞が(本人が気付かなくて
も)活動しているのでは?と思うのです。ですから、一日使用可能時間が12時間な
ら、12時間すべて読書時間に当てたら、もっとも効率的に知識を身につけられるか
と言うと、それはない。通常の生活体験を積み重ねることで、読書で学んだことはこ
ういうことだったか、と脳細胞が納得することが多いのです。
 もっとも、曽野さんは、たいへん多忙な方で、読書の時間も取りにくいでしょうか
ら、TVを見る暇があれば、読書するとおっしゃることは当然だと思います。
 しかし、毎日数時間読書している人の場合には、TVの時間を読書にあてても、脳
細胞が受け付けないかも知れない。

経営者と倫理

2005-03-07 | 経済と世相
 今日は数学の話を一つ。
 数学の分野に「ゲーム理論」という分野があります。例えば「じゃんけん」という
ゲームがあります。この「じゃんけん」に必勝法があるかを考える。この場合の必勝
法とは、文字通り必ず相手に勝つという意味でなく(そういう方法があるなら双方そ
の方法を用いると双方が勝っちゃうことになります)、勝った回数から負けた回数を
引いた数字を最大にする方法如何?という意味です。
 答を言うと、「グー、チョキ、パーをランダム(無作為)に3分の1の確率で出
す。」
 要するに、こういうことを数学的に研究する分野なのです。
 このゲーム理論の分野において、フォン・ノイマンが証明したミニマックス定理が
あります。
 ゲームの参加者が、それぞれ最良の方法を追求する時、それぞれ、これが最良とい
う方法に到達する。これを、そのゲームの均衡点といいます。先ほどの「じゃんけ
ん」の例で言うと、それぞれが3分の1の確率でグー、チョキ、パーを出すところが
均衡点です。
 ミニマックス定理とは、かなり幅広いゲーム種において、「この均衡点がゲームに
存在する」という定理です。
 数学者、ジョン・ナッシュは「もっと広い範囲のゲームに対して均衡点が存在す
る」(経済用語ではナッシュ均衡点)ことを証明し、この定理が、経済学に広く導入
され、ナッシュは1994年、ノーベル経済学賞を受賞しました。
 同じ1994年、ナッシュと同時にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ハル
シャーニ(ハンガリー人)という数学者がいます。
 ハルシャーニのゲーム理論とはどういうものか?ノイマンやナッシュが考えたの
は、「完全情報型ゲーム理論」、つまり、ゲームの参加者が、ゲームのルールも条件
も相手のねらいもすべて知っているゲームです。ハルシャーニが考えたのは「不完全
情報型ゲーム理論」。参加者は、すべてゲームのルールを理解していると限らない、
相手の狙いも分かっているとは限らない。
 このような場合にもナッシュ均衡が成立することを、彼は証明したのです。
 晩年の彼は、意思決定理論とのかかわりで人間の倫理的行動について研究をしまし
た。最終的に、彼は一つの倫理感に行き着きます。
 1995年、ハルシャーニはハンガリーで講演し、「結局、経済的な見地から見て
も『正直であることが最善の行動になる』」と語ったそうです。
 さて、企業の経営者は会社の中で各種の意思決定をしますが、その場合、問題の内
容についても、ライバルの状況についても、いわば不完全情報型ゲームを余儀なくさ
れています。こうした時、どういう考えで問題に対処すべきか?
 『正直であること』、つまり、『倫理的』であることが、最良の選択になるのでは
?このことを数学的に証明できたら、貴方は「ノーベル賞」を受賞できるかも?
 経営者の選抜には、何よりも『倫理』を重視すべきと思うのですが・・
 

粉飾国家

2005-03-07 | 読書

 慶大教授の金子勝さんの新著「粉飾国家」(講談社新書)という面白い題名の本を
読みました。
 金子さんは、日本は「粉飾国家」であると規定します。以下そのその意味を述べる
・・・

 株式会社制度は、「責任会計」という概念を基礎とする。
 株主は資金を会社に出資するとともに、会社の経営を経営者に委託する。経営者は
取締役会で経営の意思決定を行う。つまり、企業活動の舵取りを行って従業員ととも
に会社を運営し、利潤を追求する。日常業務においては、株主に代わって監査役が取
締役の職務執行を監督する。
 取締役の経営の成果としての会社の財政状態は、営業報告書や財務諸表で、株主に
開示される。
 株主総会で、経営者は株主に対し、業務の状況を説明し、その上で財務諸表・利益
処分案を示し、決算の承認を得る。承認されれば、経営者は「受託者責任」から解除
される。承認が得られない時、経営者は解任されるなどの処置がとられる。
 そのため、経営者が嘘の情報を作って、株主に虚偽の報告を行う危険性が生ずる。
それを防ぐために、株主総会に提出される財務諸表に対しては、外部監査として公認
会計士監査を受けることが法で定められている。つまり、株式会社では、財務諸表な
ど会計情報の承認を通じて、委託・受託の責任関係が解除される。企業会計におけ
る、こうした仕組みを、「責任会計」と呼ぶことにする。

 この「責任会計」の考え方を、年金問題に当てはめて考えてみよう。

 国民は所得の中から、年金保険料として一定の金額を国に支払っている。これは、
「国民」が国に対して年金保険料の運用管理を委託していることを示す。国は「国
民」から公的年金の運用管理を受託している。そこで、国は「国民」に対して、受託
責任を遂行したことを認めてもらうために、責任を以ってその運用管理にあたったと
いう報告を行わなければならない。そしてその報告内容は、客観的検証可能性が備
わっていなければならない。
 ところが、現実は委託者である「国民」に対して積極的に開示されるべき情報が、
受託者であるべき政府官庁の手の中だけに隠蔽されている。例えば年金を支払った
人々が、実際に個人としての年金受給予定額を知るのは58歳になってからであり、
それまでは一切知らされない。
 そういう実態を見る限り、そもそも年金システムの運用管理する官僚には、責任会
計という観念が完全に欠如している。まさに、粉飾決算がまかり通っている。

 嘗て、司馬遼太郎さんがこういう意味の言葉を言われた。
・・・日本の官僚というものは、明治以来、太政官であり続けている・・・

 年金制度をどうすれば良いのか?端よって言うと、著者は、過去債務(今までの積
立金、未積立金など)を切り離し、完全賦課方式の新年金制度を実施すべきと説く。
そして、「責任会計」に基づき運用できる年金制度とするためには、「社会保障基金
政府」を独立させるという荒療治を提案する。受託責任を果たさないなら、責任者を
解任できる政府にするという。
 正論ではあるが、世の中正論では動かない。権力者の利害得失で動く。行くところ
まで行かざるを得ない?と思いました。