梅雨明けや 水無川の流れかな 津々
暑中お見舞い申し上げます。
九州北部も梅雨明けとなりましたが、時折小雨もぱらつく曇天の空模様です。
すぐ近所にある水無川(健軍川)も、過日の雨の影響で小さな流れを作っていて、魚が泳ぐこともないのに白鷺などが時折うろうろしています。
いよいよ夏本番となりますが何とか元気に乗り切りたいと思います。皆様もお体ご自愛の上お過ごしください。
風鈴に 稲妻遠き風の来し
歯痛みの 三時は西瓜二三片 おそまつ
梅雨明けや 水無川の流れかな 津々
暑中お見舞い申し上げます。
九州北部も梅雨明けとなりましたが、時折小雨もぱらつく曇天の空模様です。
すぐ近所にある水無川(健軍川)も、過日の雨の影響で小さな流れを作っていて、魚が泳ぐこともないのに白鷺などが時折うろうろしています。
いよいよ夏本番となりますが何とか元気に乗り切りたいと思います。皆様もお体ご自愛の上お過ごしください。
風鈴に 稲妻遠き風の来し
歯痛みの 三時は西瓜二三片 おそまつ
ガラシャ夫人のご命日に寄せてご厚誼をいただいているAN様から一文をお寄せいただいた。ご了解をいただき全文をご紹介する。
ガラシャの父・明智光秀は信長に対する謀反に対し有名な「時は今 雨が下知る五月かな」という歌に心の内を託した。
「時=土岐」だとする考え方は大方が認めているところである。一方ガラシャ夫人は辞世の句に、「散りぬべき時・・」と歌ったが、この「時」も「土岐」だとする識者がある。大いにうなずける事ではある。
AN様はキリスト教の立場から「時」というキーワードに対して、まさに切支丹の信者として死を迎えられたガラシャ夫人の思いを解説された。宗教に対しては全く知識を持ち合わせぬが、高邁な御説として承った。
夫人の死は細川家の家法に沿った避けがたいものであったが、夫人ご自身の思いはそれを乗り越えた深い信心の心が支えたものであり、万人の心に響くのであろう。
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今年2月、明智ガラシャ(1563~1600)最期の地・細川屋敷跡に建つ玉造教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)において「高山右近(1553~1615)列福感謝ミサ」が行われました。玉造教会の大聖堂の正面右側の壁画は「最後の日のガラシア夫人」(堂本印象・画)、大聖堂前には「細川ガラシア像」(阿部正義・作)、隣接地の「越中井」にはガラシャの辞世の歌が刻まれた「ガラシャ夫人顕彰碑」が建っています。
明智ガラシャの死は、400年を超える長きに亘って「夫・細川忠興(1563~1646)の命で、石田三成(1560~1600)の人質になるのを拒んで自害したもの」とされてきました。細川家のみならず徳川将軍家にあっても「明智氏の義死」(徳川吉宗)として称賛されたところです。
しかし、明智憲三郎著「本能寺の変は変だ!」にならえば、「ガラシャの『義死』って変だ!」ということにはなりませんか? 少なくとも私にとっては、これは長年の謎でした。
この春、この長年の謎が氷解した(と思えました。)ので、ご報告いたします。(尤も後述のように、本当は約10年前のことではあったようです。)
その始めは、明智一族とともに滅び去った幻の城=河内の「三箇(さんが)城」です。
三箇城は、「本能寺の変」で明智に与した数少ないキリシタン武将・サンチョ三箇頼照(15??~1595)、マンショ頼連(よりつら;生没年不詳)父子の居城で、本能寺の変の後、羽柴勢に焼き払われた「幻の城」です。明智一族とともに消えた城が、坂本城、安土城の他にもあったことを、私は初めて知りました。
城址とされる処に立つ三箇一族と思われる「四睡軒」という方の墓碑に刻まれた歌は、こう詠っています。
城は灰 埋れて土となりぬとも 何を此代に思ひ残さん
昨年夏に亡くなられた野崎キリスト教会(註1)の神田宏大(ひろお)牧師によれば、この三箇のキリシタンたちは、オルガンティーノ神父からだけでなく、城主の三箇サンチョ、マンショ父子からもキリシタンの「ドチリナ(=教理問答)」を聞かされていたので、「自分たちの色身(肉体)が、土灰になって滅びても、キリシタンの魂は決して滅びることがなくパライソ(天国)において永遠の生命を与えられ、 ~イエス・キリストが ~ご威光をもってこの地上に再臨される時、 ~栄光の姿に蘇り、イエス・キリストに迎え入れられることを確信していた。」即ち、「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読み、彼らだけが知っている下の句である天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束に励まされていた。」というのです。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、キリスト教の祈りには、祈祷文を音読するほかに「黙想」という祈り方があります。プロテスタントでは特別の場合にしか黙想されないようなので、(プロテスタントの)神田牧師には馴染みがなかったのかも知れませんが、カトリックの場合は、ガラシャの時代も現代も、日々のロザリオの祈りにおいてごく日常的に黙想は行われます。
ですから当時の「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読」み、それとは別に「下の句」を置かなくとも、その碑文を読むのと同時に、「~天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想することが出来ました。
実際、後の世(1622年)に三箇サンチョの孫・アントニオは、長崎での殉教に臨んで残した手紙に、こう書いています。
「~福音の使者としてこの牢屋に捕らわれていることについて、我が主に御礼申し上げます。
敬愛の炎に焼き尽くすべき死を与えて下さった我が主の御為に、生きながら焼き殺される日も遠くないことを喜んでいます。たとえこの世ではイエズス会の修道士として受け入れられなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」
この春、ふとしたことから、熊本の郷土史家・徳永紀良氏の10年ほど前の講演録を見付けました。そこには、こうあります。
「~のちに徳川八代将軍吉宗は『徳川家の今日あるは関ヶ原の一戦にあるが、その勝利は明智氏(玉子)の義死があずかって力があった』とたたえているが、玉子の死は徳川家繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。 人の世を捨ててハライソ(天国)へ帰っていったのである。」
これこそが、ガラシャの死の真相なのでしょう。
私見ですが、明智ガラシャは、今年2月7日に大阪城ホールで列福式が行われた高山右近以上(?)の殉教者でした!!
今では高山右近は「無血の殉教者」とされるのですから、石田勢のおかげで流血の最期を迎えたガラシャこそ本物の(?)殉教者と言えるのではないでしょうか?
これが何故「私見」かというと、カトリック教会はガラシャを「殉教者」と認定していないからです。ただそれにも拘らず、教会で営まれたガラシャの葬儀、一周忌(以後も年忌ごとに行われた)ミサにおいては、殉教者と同等の扱いがなされました。また、4年前に日本でも上演されたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、ガラシャの死後一世紀のウイーンで初演されたイエズス会音楽劇(註4)は、ガラシャの死を「『丹後王国の女王グラツィア』の殉教」として描いています。
だからこそイエズズ会の「1601年の日本年報」にあるように、夫・忠興の強い要請で京の教会で行われたガラシャの一周忌ミサにおいて、「ヴィセンテ修道士(註2)が聖ヨハネの言葉『主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(註3)を主題とし~来世における確かな救済~霊魂の不滅を重々しく説いた。 ~説教の最後に、ガラシャの徳と善き死について述べたところ越中殿(忠興)とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた。」のです。
一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた聖ヨハネの言葉には、「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」に続けて「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」とあります。
そう、ガラシャはその最期を迎えて、まさに「その行いが報われ…」「労苦を解かれて、安らぎを得る。」中で「人の世を捨ててハライソへ帰っていった」のです。
そもそもフロイス神父が「日本26聖人殉教記」に「ガラシャは神父達が殺されると聞いて、 ~喜びと勇気をもって神父達と死ぬために相応しい着物を用意しはじめた。」と書いたように、ガラシャは実際の「散りぬべき時」の3年も前から殉教を望み、殉教に備えていたようです。すなわちガラシャの「善き死」は、少なくともご本人にとっては、望んで迎えた殉教だったのではないでしょうか?
彼女もまた、後の福者殉教者・三箇アントニオと同じく「たとえこの世では修道士(ガラシャの場合は「修道女」に読み替えて下さい。)となれなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」と固く信じつつ、その「善き死」を迎えたものだと思います。「主に結ばれて死ぬ人」として…
キリスト教の主要な祈りの一つで、(カトリックの)ロザリオの祈りでは何十回も唱えられるものに、「アヴェ・マリアの祈り」があります。「アヴェマリア、恵みに満ちた方~」と始まるのですが、ラテン語では「Ave Maria, gratia plena~」となります。「ガラシャ」の名は、この「gratia」をスペイン語にした「Gracia」の当時の日本語表記です。ガラシャは、その最期・「善き死」を、ご自分の名に相応しく「恵みに満ち」て迎えることが出来たのです。
ガラシャの最期を語る時、これまでは、ともすればガラシャがキリシタンとしてその最期に臨んだことが、どういう訳か随分と軽んじられてきたようです。
散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
このガラシャの辞世の歌に詠まれた「時」についても、聖書に書かれたコヘレトの言葉(註5)「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時~」の「死ぬ時」のことなのですが、(キリスト教関係でない方には、)何故かすっかり忘れられていませんか?
そしてまた、ガラシャの辞世の歌は、神田牧師の言われる「上の句」として詠んだものかも知れません。そう言えば、三箇城址の四睡軒墓碑の歌に通ずる趣も感じられますね。きっとガラシャは、三箇のキリシタンたちと同じように、「下の句」である「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を心から信じつつ召天したのでしょう。
さらに言えば、その辞世の歌は、実は「下の句」と別の「上の句」として詠まれたものではなく、辞世の歌と一体のものとして「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想するものだったのでしょう。そしてそれは、ガラシャの一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた「来世における確かな救済」と「霊魂の不滅」とも一体のものだったのではないでしょうか?
(註1) 大阪府大東市野崎2丁目。 三箇城址(大東市三箇5丁目)の東方約2.5㎞にあるプロテスタント教会。
(註2) ヴィセンテ洞院(1540~1609)。 若狭出身。 医師、文学者でもあり、ガラシャの愛読した「こんてむつす・むんぢ」の訳者としても知られる。
(註3) ヨハネ黙示録 14:13
「1601年の日本年報」の日本語訳では、「主において死する者に幸あれ」となっていますが、より分かり易い現行の「新共同訳聖書」から引用しました。
(註4) バロックオペラ「強き女、またの名を丹後王国の女王グラツィア」 脚本:ヨハン・バプティスト・アドルフ、 作曲:ヨハン・ベルンハルト・シュタウト
(註5) コヘレトの言葉 03:01、03:02
以下は「註」と直接関係ありませんが、ご参考まで。
http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/23408/image.jpg
http://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm
一少斎・石見・稲富此三人たんこう有て、いなとみハおもて
にて敵を防き候へ、其ひまに 御上様御さいこ候様ニ可
仕よしたんこう御座候ゆへ、則稲富ハ西の門へ居申候、左候て
其日の初夜の比敵御門前までよせ申候、稲富ハ其とき心替り
を仕り、敵と一所ニ成申候、其やうすを少斎聞、もはや成ま
しくと思ひ長刀をもち 御上様御座所へ参り、只今か御
さいこにて候由申され候、内々仰合候事にて御座候ゆへ、与一
郎様奥様をよひ、一所にて御はて候ハんとて御へやへ
人を被遣わ候へは、もはやいつかたへやらん御のき被成候ニ付、
御力なく御一人御果被成候、少斎長刀にて御かいしや
くいたし申され候事
一三齋様・与一郎様江御書置被成候、私へ御渡し被成被仰候は
おく加賀と申女房と私と両人ニハおちのき候て御書置を
相届、御さいこのやうす 三齋様へ申上候やうにと御意
被成候ゆへ、此御さいこを見すて候てハ落申ましく候まゝ
御供いたし候ハんと申候へとも、二人ハ是非おち候へ、さなく
候ヘは此やうす御存知なされましく候まゝひらにと被
仰候故、甚是非なく御さいこを見届しまひ候ておち申、内記様
御ち人には内記様への御かたミを被置遣候事
一私共御門へ出候時分ハ、最早御やかたに火かゝり申候、御門の
外にハ人大せい見へ申候、後に承り候へハ、敵にてハ御座な
く候由、火事ゆへあつまりたる人にて御さ候と申候、敵
参り候も一ちやう見候にて候へ共、いなとミを引連御さいこ以前
に引申たるよし、是も後に承申候、則御屋にて腹を
切申候人は少斎・いわミ、石見おい六右衛門、同子壱人、此分をは
覚え申候、其外も二三人もはてられ候由申候へとも是ハしかと
覚不申こま/\しき事ハ書付られす候間あら/\
大かた如此にて候、以上
正保五年二月十九日 志も(御判)
右自筆之書付御花畑御蔵に今に有之由
方(彼)方より此人を頼ミ、内しようにて右之様子申こし、人
しちに御出候様にと度々ちやうこん申候へ共 三斎様御
為にあしく候まゝ、人質に御出候事ハいかやうの事候とも
中々御とうしんなきよし仰られ候、また其後まいり
申され候ハ、さ様に候ハゝうきた(宇喜田)の八良殿ハ与一郎様おく
さまニつき候て御一門中ニ而御座候間、八郎殿まて御出
候へハ、其分にてハ人質ニ御出候とハ世間にハ申ましく候
まゝ、さ様に被遊候へと申まいり候事
一御上様御意被成候ハ、うき田の八郎殿ハ尤御一門にて
候へ共、是も治部少と一味のやふに被聞召候間、それまて
御出候ても同前に候まゝ、是も中々御同心なく候ゆへ、
内せうにての分にてハ明埒申不申候事
一同十六日かの方よりおもてむきの使参候て、是非/\
御上様を人しちに御出し候へと、さなく候ハ押かけ候て
取候ハんよし申越候につき、少斎・石見申され候ハ、餘り申
度まゝの使にて候、此上ハ我々共是に切腹いたし候共
出し申ましき由申遺候、それゟ御屋敷中の者共覚悟
仕り居申候事
一御上様御意にハ誠押入候時は御自害可被遊候まゝ、其時
少斎奥へ参、御かいしやくいたし候様ふと被仰候、与一
郎様 御上様へも人しちに御出し有ましく候まゝ、是も
もろ共に御しかいなさるへきよし内々御やくそく御座候事
明日17日はガラシャ夫人が亡くなられて417年目の御命日である。その最後の様子は、ガラシャ夫人の命により館を脱出した侍女のおしもが正保四年時の藩主・光尚の命により翌年五月二月十九日付の覚書によって知ることになる。この資料を元に数多くの作品が生まれた。
私も三浦綾子をはじめ、森田草平、田畑泰子、ヘルマン・ホイヴェルス・小山寛二、司馬遼太郎、安廷苑等の作品を所蔵している。
最近は読むこともなくほぼ死蔵状態、今日は「おしも覚書」を再読してみた。
しうりんいん様御はて被成候次第之事
一石田治部少乱の年七月十二日ニ小笠原少さい・河喜多
石見両人御台所まて参られ候て私を呼ひ出し被
申候ハ、治部少かたよりいつれも東へ御立被成候大名衆の
人しちを取申候よし風聞仕候か、いかゝ仕候ハんやと申
され候ゆへ、秀林院様へ其通申上候へハ、秀林院様
御意被成候ハ、治部少と三斎様とハ 一本三斎様と治部少とは 兼々御
あいたあしく候まゝ、定て人質取初にハ此方へ申参へく候、
はしめにてなく候ハゝよ所のなミもあるへきか、一番に申来
候ハゝ御返答いかゝ被遊能候ハんや少斎・岩見ふんべつ
いたし候やうにと御意被成候ゆへ、其通りを私承り候て、
両人へ私申渡候
一少斎・岩見被申候ハ、かの方より右のやうす申来り候ハゝ、
人質に出候ハん人無御座候ハ、与一郎様・与五郎様ハひかし
へ御立被成候、内記様ハ江戸へ人質ニ御座候、唯今爰元に
て人質に出候ハん人壱人も無御座候間、出し申事成まし
きと可申候、せひ共ニ人しちとり候ハんと申候ハゝ、丹後へ申遺
幽斎様御上り被成御出候ものか、其外何とそ御さしつ
可有候まゝそれまて待候へ、と返事いたすへき由(イと)申上ら
れ候へハ、一段可然よし御意御座候事
一ちやうこんと申ひくに(比丘尼)日比御上様へ御出入仕候を、かの
熊本における細川家の菩提寺は泰勝寺と妙解寺、泰勝院殿の諡名がある幽齋公をお祀りする為に建てられたのが泰勝寺である。
今日はその泰勝寺が寛永十四年下立田に建立された日とされる。現代においては「お盆」の今日であるが奇しきことではある。
下の絵図は時代が相当下ってからのものと思われるが、これだけの建物が寛永十四年にすべて整えられたとは考えにくい。
左手上に「泰勝寺」という書き込みがある左上の建物が慈眼庵、刑部家の菩提寺である。この辺りは下方から来た道が万石へ抜ける道が通って様変わりしているが、残地部分に宮本武蔵の墓などがある。右手上に幽齋公・同夫人麝香さま、忠興公・同夫人ガラシャ様の四つ御廟がある。その奥に歴代藩主のお墓もあるが、その方々は次のとおりである。泰勝寺と妙解寺
泰勝寺の絵図史料が熊本県立図書館の「中路文庫」に下のようにある。まだ拝見していないので、デジカメ撮影をしたいと思いながらもいまだ果たされていない。
(145) 泰勝寺御廟之図 安惟新/写
(146) 泰勝寺御廟絵図
(147) 泰勝寺御法事之図
(148) 泰勝寺御法事之節
(149) 泰勝寺御居間之図
(150) 泰勝寺御惣廟之図 安惟新/写
歯のブリッジ形成のため、両脇二本の歯を削ったり型を取ったりしたのだが帰宅後頭痛がして何とも不愉快な感じ・・・
一晩寝れば明日は治まっていると思うが、どうも歯の治療は苦手である。次は26日、型が出来てくるというからそれで終りかしら?
これで数年は持つだろうから、生涯最後であってほしいと願うばかりである。
先にご紹介した「おあむ物語」は、熊本県立図書館所蔵の上妻文庫の書写版である。
内容が少々違う旨のご連絡をいただき、一部修正してご紹介したが、その後内容を詳細に読んでみたところ、WEBで紹介されいるものや、岩波文庫の「雑兵物語・おあむ物語」の読み下しとは随分異なっていることが判明した。
先にも記したが上妻文庫の「おあむ物語」は引用元が明らかにされていない。大意はとらえているが相当の差異が認められる。
そこで「上妻文庫・書写版ーおあむ物語」としての読み下し文をご紹介申し上げる。
読み違いなどあるかと思われるが、ご指摘ご叱責を給わりたい。
(おあむ物語
子どもあつまりて)
おあん様。むかし物語りなされませといへハ
おれが親仁ハ山田去暦といふて石田治部少
輔殿に奉公して近江国彦根に居られ
たか其後治部殿むほんの時美濃国大
垣の城に我等も罷りて不思議な事
かおじやつたよふ 夜の九ツ時分誰ともなく
男女三十人程の聲夜々しておしやた
おとましや/\おそろしうおじやつた 其
後 家康公様より攻衆大勢城へむか
はれて戦か夜昼おじやた程に其
よせ手の大将ハ田中兵部殿と申しておじ
やる 石火矢をうつ時ハ城の近所を触廻
りておじやつた。それはなぜならハ石火
矢をうては櫓もゆるる動き地もさけ
るやうにすさまじしいさかいに気の弱き
婦人抔ハ即時に目をまハし難儀する
夫故に前かたに触て置た物しや 其ふ
れがかあれハ光り物かして雷の鳴をまつ
やうに心地しておしやつた 初の程ハ活た
こヽちもなく唯物おそろしくこわやとは
かりわれ人おもふたか後々ハなんともおじやるも
のじやない 我々も天守に居て
鉄鉋玉を鋳ました 又味方へとつる
首を天守へ集めて夫々小札を付て
覚え置さい/\首におはぐろを付て
おじやる それはなぜならハ昔ハおはぐろ
をつけた首ハよろしき人とて賞翫
す 夫故白歯の首ハおはぐろ付て
給れと頼まれておじやつた 首もこわひ物
てハおりない其首共の血臭ひ中に寝タ
事もおじやつた 或日寄手より鉄鉋打
かけて今日ハ城も落候半と申す 事の外騒
ひた事でおじやつた 其處へ長人来
て 敵ハ皆々しさりました 最はやおさ
わぎなされもすなしづまり給へと
いふ處へ鉄鉋の玉来りて我等弟十四
歳になりし者へあたりて其侭ひり
/\として死ておじやつた 扨々むごい事
を見ておじやつたのふ 其日我親仁の持
口へ矢の来りて去暦事ハ家康公さま
御手習の御師匠と申された訳の
ある者じや程に城を遁れたくハ御助
あるべし 何方へなりとも落候へ 路次
のわづらひも有まじ そのよし諸手へ仰
置たとの事でおじやつた 城ハ翌日中攻落さるゝとて皆/\力を落し
我等も翌日ハうしなはれ候半と心細く
成ておじやつた 親仁ひそかに天守へ参
られて 此方へ来ひとて母人我等もつ
れて北の塀脇ゟ梯を掛て釣縄にて
下へ其人数ハ親たち二人わらハと長二
人計其外家来ハその侭にておじやつた
城を放て五六町程北へ行し比母人
俄ニ腹痛て娘を産たまうた 長人其
時田の水にて産湯をつかひ引揚て
つまにつゝみ母人を親仁肩ニ掛て青
野が原の方へ落ておじやつた 怖ひ事
ておしやつたのう 昔かふ/\南無阿ミた/\
又子供彦根の咄しなされませといへば
おれが親仁知行三百石取ておられた
其時分ハ軍か多くて何事も不自由な
事でおじやつた 勿論用意ハ面々
たくはへもあれども朝夕ぞふすいを
たべておじやつた おれが兄様折々
山へ鉄鉋打に参られた 其時ニ朝めし
を焚て昼飯にも持れた 其時我等
も菜めしをもらうてたべておじやつた
故兄さまをさひ/\すゝめて鉄鉋打に
行とあれば嬉くてならなんだ 扨
衣類もなくおれが十三の時手作の花
染の帷子一ツあるより外になし一ツの
かたびらを十七の年まで着たるによ
つてすねが出てなんぎにあつた せめ
てすねのかくれるほどの帷子一ツほし
やと思ふたか此よふに昔は物事不自由ナ
事でおじやつた 又めしなと喰といふ
事もなかつた 今時の若ひものハ衣類
の物数寄ニ心を懸て金銀をつひ
やし喰物に色/\の好事めさる
沙汰の限な事とて(此處虫喰)彦根の事
をいふて叱り給ふ故に後々ハ子供等
名を彦根婆といヽし 今も老人
昔の事を引て當世にを示をハひこ
ねをいふと俗説に云ハ此人より始
し事なり 夫故他国の物にハ通ぜず。御
国において可語
右去暦土州親類方へ下り(ムシクイ)山田
喜助後に蛹也と号盲となりお安
ハ雨森儀右衛門へ嫁す 儀右衛門死て後
(ムシクイ)養育となり喜助為にハ叔母
なり 寛文年齢八十余にて卒す
予其頃ハ九歳にして右の物語を折
/\聞覚て記たり 誠に光陰は矢の
ことしとかや 正徳の比ハ予すで孫共を集
世の中の費を示すをハこざかしき
孫共昔のおあんハ彦根ばゝと今の父
さまは彦根父さまよ 何をハおじやるぞ
世ハ時々じやものをとて鼻にてあ
しらふ故腹も立とも後世おそるべし
又後世いかならん 孫ともまた己か孫
と計にさみせられんと後にハ南まい
だ/\ゟ外にいふべきハなしかしく
右一通之事実勝之筆取なり。誰
人の録せる類や不詳うたかふらくハ
山田氏の覚書なるへし。田中又右衛門
(ムシクイ)直の所持を(ムシクイ)書出叓
尓之。
享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守
寛文五年七月十三日幕府による江戸証人制度が廃止された。細川家においては忠利公を最初とする。
細川忠興の二男・興秋は弟(三男)・忠利の代わりに忠興によって指名されたが、興秋はこれを拒否して出奔大坂の陣においては西軍に加担する。のち忠興により自刃の命を受けた。
これに変わったのが五男・興孝(刑部家祖)だが長く江戸に詰め、天草島原の乱への出陣も認められず、父忠興との仲が悪くなった。
興孝に代わったのが生母を同じくする四男・立孝(宇土細川家祖)である。この人は忠興が溺愛したが、逆縁で亡くなった。
また忠興の母麝香が70歳で江戸証人となっているが、家老有吉家では4歳の「しゃみ」が証人となつている。
家臣団においてはすべてを把握できていないが、これ等の人たちは後に藩主の側近として重要な役を勤めている。
以下過去に取り上げたものをご紹介しておく。
昨晩68件目の落札に及んだのは、忠利公代の「御鷹場」を記したものらしい。
実は67件目の「寛永年中御鷹場御許領以来之趣下しらへ」でつい先ほど手元に届いたものだが、67・68件目は対とはいかないまでも寛永期熊本入国後の忠利公の御鷹場に関する史料であり68件目が届くのが待ち遠しい。
68件目
67件目
寛永年中御鷹場御許領以来之趣下しらへ
一妙解院様御代寛永十六年三月
御三家様江益城託摩之内ニ而御鷹場
被進御分ケ御許領被
仰出候共節御家中江之御沙汰左之通
覚
一託摩益城両郡ニ而御家老中
御三人江御鷹場之内分御遣候其内■ハ
御鷹をも仕り申間敷候勿論御家中之
鷹一切御かい申間敷事
歯の治療四回目にしてようやく左上の奥歯を抜歯した。これで歯の痛みとはお別れである。
「お酒と長風呂と強いうがいは駄目ですよ」「二時間ほどは食事も避けてください」と言われたが、朝食のトースト半枚で空腹気味の腹がなっている。昼飯抜きで夕方まで我慢することにしよう。
奥方も半年かけて歯の治療を終え、私も続いたということもあって奥方が不思議な歯ブラシを購入した。
注文前に一応了解を求めてきたが、奥方の心は決まっているから反対するわけにも参らぬ。
柄の長い羽山の小さなブラシだが、羽山の中央が山のように尖がった不思議な形をしている。歯間ブラシ不要の歯ブラシだといううたい文句、使い始めて3日目だが、まだ慣れないもののなかなか都合が良い。歯垢が残らないようによく工夫されている。
これで歯の治療は生涯最後としたいものだと願っている。
今年に入ってからのヤフオクの落札が67件になった。今月も半月ほど残っているから70件を超すことは間違いない。
平均10件/月といったところだが、これは米田家文書が大量に放出されていることが大いに影響している。
こんな数を落札しているが、何とかこれは止めおきたいという想いである。どうも商売をしている方の落札もあるようで、又ヤフオクに出品されることが有るかもしれない。
爺様のささやかな小遣いはほとんどこれに費やしたから、ほかに欲しいものがあってもひたすら我慢である。
そしてこれを読み下す作業が増えて、最近では毎日何をしているのかよくわからない状態である。
みんな中途半端になり、本来の「新・細川藩侍帳」の再編集も遅々として進まない。
Dr.高田先生の「平成肥後国誌」の膨大な史料(段ボール20数箱)を過日整理の手伝いをした際拝見したが、先生の60年にも及ぶご努力の痕跡を眺めると、まだまだ努力不足を感じる。時間が欲しいという想いが募るとともに、オークション落札のためにさく時間とエネルギーがもったいないなーと思う昨今である。
この文書は家老・長岡監物が家老職を辞したいとする願出書(案文)である。監物とは米田家11代の是豪(これひで)の事である。
是豪の父・是容(これかた)は実学をもって藩政改革に勤めたが、守旧派学校党の筆頭家老松井佐渡の抵抗もあって職を辞している。
実学派で是容と袂を分かった一方の雄・横井小楠は越前藩・松平春嶽に認められて国事に奔走している時期である。
但し、この年文久2年12月19日吉田らと飲食中暴漢に襲われ遁走する事件を起こしている。
幕末期の混乱した世上の中での、この辞職願はいささか含みあるものではないのかと私は勘繰ったりした。
熊本藩年表稿によるとこの願出の詳細な日にちは判らないが、閏八月のこととする。病気が快気したのか同年11月11日是豪は家老職に復任している。
時世がそれを求めたのであろう。
1:04 宮部鼎蔵ら形勢探索の為熊本発、2月5日帰国
1:18 小国郡代・荻角兵衛自刃す
2:05 木村哲太(万延元年遣米使節に随行)死去・34歳
2:24 藩主慶順(韶邦)江戸発、4月1日熊本着
4:27 藩主、朝幕に対する心事、又藩内人心動乱について告諭、家老以下謹慎す
5:06 在府本藩家老は、長岡護美の出府がもし公武合体の周旋のためであるならば、暫くその期を延ばすよう藩政府に通牒す
6月 幕府、諸侯の妻子国許へ引取勝手次第とす
7:01 井口呈助、熊谷嘉左衛門に対し、薩長の公武斡旋に関する観察および藩内松井・米田両派の分争に関する意見を述ぶ
7:06 横井平四郎、再び越藩に召される
7:08 横井平四郎、幕吏大久保忠寛に諸侯の参勤を述職に易え、其室家を国に帰し、かつその固場を免ずべしとの三策を献策す
7:17 横井平四郎、慶喜・春嶽起用後の幕府の状況を吉田平之助に告ぐ
8:27 横井平四郎、幕府大監岡部長常を訪ね時事を論ず、その論大いに幕廷を動かし、横井登用さる
8:28 大久保忠寛、横井平四郎に春嶽も速やかに出仕せんことを慫慂
閏8:06 鍋島閑叟、内勅降下に関し、慶順の意向を問う (鍋島閑叟は慶順弟・護久夫人宏子の実父)
閏8:18 横井平四郎、幕府の登用を固辞す
閏8:19 横井平四郎、一橋慶喜に謁し時局を意見、将軍の上洛の必要を説く
閏8:22 幕府、諸侯参勤の期を緩め、且つ妻子の就国を許し、其の他行装、服色、貢物等の制度を改む
同月 家老長岡監物、退任
9:25 長岡刑部、内勅奉承の答礼使として上京す
同月 国家周旋の儀につき、一条様より直書到来
10:06 山田十郎・佐々淳次郎相伴って、国老小笠原備前を訪う、これより本藩の勤皇家二派に分裂す
11:01 住江甚兵衛・魚住源次兵衛上京命ぜらる
11:11 長岡監物、家老に復任す
11:13 長岡護美熊本発、12月5日京都着、京都警衛
12:03 横井平四郎、攘夷実行に関し三策を幕府に建白す
12:14 朝廷、長岡監物の上京を促さる
12:17 宮部鼎蔵等、伏見より淀川を初め大坂川口海岸地理視察として出張を命ぜらる
12:18 顕光院および鳳台院江戸を発し、2月16日熊本着
12:19 吉田平之助・都築四郎・横井平四郎暴漢に襲われる
12:22 慶順室江戸発、2月18日熊本着
12:23 慶順、長岡監物を従えて上京す
續 亀助を祖とする「續家」は五家が明治に至った。この文書の主繁弥は本家筋・續少助家の六代目、1,800石番頭などを勤めた。
本家筋ながらこの少助家は亀助から五代目の団右衛門を初代としている。
なにが原因なのかしれないが、団右衛門の父・十助(250石)が寛文八年十二月廿八日乱心したことによる。
初代団右衛門は時の藩主・綱利から、島崎に「釣耕園」という屋敷を拝領するほどのお気に入りで、知行も七人扶持廿九石(寛文四年六月・御侍帳)から二千石(御侍帳・元禄五年比カ)になったほどである。
指物の絵柄は梵字か?、兜の立物はいかにも御番頭を勤めた家にふさわしく勇壮である。
幕紋は紋帳では伺えないが、定紋は「丸に揚羽蝶紋」として描かれている。
「肥陽諸士鑑」が記す續家の家紋は正式な名称を知らないが、轡菱紋が隅立て角に近い形である。(下に参考図をあげる)
その他楓紋も記されている。續家のお墓を拝見する必要がありそうだ。
参考:これは宮部鼎蔵のお墓にある同じ家紋。