津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■住江次郎右衛門殿

2017-07-29 15:39:33 | 史料

住江小右衛門を初代とする丹後以来の住江家の10代である。
初名次郎吉(次郎右衛門)  御留守居御番頭・大組頭 千石
           文政三年十二月(比着座)~文政五年九月 留守居番頭
           文政五年九月~文政十三年六月 番頭
           文政八年三月~文政九年九月 鶴崎番頭
           天保二年七月~天保十三年一月 番頭

初代・小右衛門は「始は明石左近家来にて三百石取しを、先知にて被召抱候、左近身体果候時玄蕃殿御肝煮にて魚住右衛門兵衛・鯛瀬善助と共に三人被召出候、仔細は太閤の御意にて播磨におゐて六ヶ敷城を云付られしかハ、此三人の者忍ひて乗取し故なり、関ヶ原御帰陳後六百石御加増、其後弐百石御加増、丹後にてハ十五挺頭、豊前にてハ三十挺頭なり」

いつの頃からかよくわからないが、住江家は城内二の丸に住した。現在の熊本県立美術館のあたりである。
法華坂から二の丸に入る当たりに門があり「住江門」と称している。

甲立物は朱塗りの牛の角。家紋は「丸に違櫂」、替紋は「松毬」か?


           

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■少年時代

2017-07-29 11:42:55 | 徒然

 過日所用で昭和28年の水害を体験した出水町の住まい跡の前を通った。
家は私達が引っ越したのち取り壊されて現在は駐車場になっている。実はここには裏手に井戸があった。
出水町という町名の通り、当時この辺りは2mほども掘ればきれいな水が湧き出た。
28年の水害の時は、我が家の前が2・3軒流されたのだが、その敷地の突き井戸からこんこんと水が湧き出ていたことを鮮明に覚えている。
我が家の井戸は1.5mほどの深さだったと思うが、湧き水で満たされていて枯れることはなかった。
釣ってきた小魚をそのまま放り込んだりしたものだが、2・3年もすると3倍4倍の大きさに成長した。時折すくい上げては近くの水路に放ったりした。
この井戸は暑い時期は格好のクーラー代わりとなって、スイカや瓜やキュウリ・トマト等が冷やされていた。
汗をかくとこの井戸から水を汲んで行水となった。
お向かいの米屋さん、家を流されたザル屋さん、家が傾いた八百屋さん、同い年の友達がいた魚屋さんなど懐かしく思い出されるが、今では知る人は全くいない。

考えてみるともう5・60年もたっている。齢を重ねるにつけこんな些細なことが思い出されて、思わず眼がしらが熱くなる。
少年時代の思い出に浸ったことであった。

 

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