津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■家老米田邸絵図

2017-07-08 11:23:26 | 史料

 最近代々家老米田家の間取り図をヤフオクで手に入れた。建築に関わる人間ととしても大変興味あるもので少々値が張ったが頑張って落札した。
ただしこの建物が熊本城内二の丸なのか、坪井見性寺前の下屋敷(現・熊本市立 必由館高等学校)にあったものかは判然としない。
藩主の居館花畑邸よりも梁間の大きい大広間や、御成り御門、能舞台などがあり、さすが大名並みの家禄を有する家老の居館である事を実感させる。

興味深いのはその書き方である。横315㎜縦465㎜の和紙二枚をつないで書かれているが、よくみると和紙に縦横に7㎜間隔でへらで線が引かれている。7㎜を半間(3尺)としているから凡その縮尺は1/135ほどである。
へらで刻まれた升目に2.5㎜角の判を押して柱の位置を記し、それを間取りに準じて線でつないでいる。
写真資料では全く分からないが、なるほどと思わせるやりかたである。

また同様のやや小さまな図面があり、こちらはどうやら御能が催された時の役者の控間の配置のようだ。
こちらはさすがに藩主邸のように専用の役者の間はなく、通常は別の用途に使われている部屋を臨時に割り振っていることが判る。
舞台の正面(南面)に1、5間巾の入側の奥に8+16帖の広間(公)があり、東面には30帖の裏の大広間(私)が配置されており、高級武家の屋敷の間取り構成が能舞台を中心になされていることが良く理解できる。藩主が度々訪れていた米田邸だから、御成り御門が南面して配置され大広間に誘われている。
こういうことからすると二の丸の米田屋敷はまさに南面する敷地だから、この間取り図の建物は二の丸にあったものではないかと推測している。
また図面はもう一枚あったのではないかと推測しているが北側に続く建物の絵図がなく、残念ながら建物の全体像が見えない。
しかしながら一日中眺めていても飽きない図面である。

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■長谷川新右衛門殿

2017-07-08 09:14:28 | 史料

 この文書の主・長谷川新右衛門は、上杉景勝の家老直江山城守兼続に仕え者頭を勤めた長谷川仁右衛門景隆を祖とする長谷川家の別家筋(忠右衛門家)の三代目である。長谷川氏はその先は由良氏であるとされる。
新右衛門は三百石で御使番(宝暦二申十二月四日当役ー御国中御侍以呂波寄)を勤めた。
「肥陽諸士鑑」によると、長谷川家は本家・分家とも「蛇の目紋」を家紋としているが、本家には「右二つ巴」「右三つ巴」紋も記されている。
ところが旗印には「左二つ巴紋」を使用していることが判る。

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