津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御供立被減候覚

2017-07-31 15:38:02 | 史料

 つい最近ヤフオクで手に入れた「天明四年御供立被減候覚」である。
当時の藩主は重賢公であるが、例年の御供立の人数211人を三年間115人とする届け出書の控えである。

             一、天明四年ゟ三ヶ年御省略ニ付御供立御道
               具御人数等御減被遊候付而左之通
               公義江被仰達候事
                      御用番之御老中
                       田沼主殿頭様江

以下近年の天候不順による作毛不熟による損毛などを理由に、農民扶助の手当必至でありこのような措置を取りたいとする文章と、共ぞろいの人数を例年のものと比べるように並記記載されている。
かって細川家は光尚公の時代2700人余の大行列で参勤したことが記録されている。
細川家の経済状態は重賢公の時代、宝暦の改革により随分改善されたというが、この人数には驚かされる。
この115人の人数には藩士が伴う家士や旅家老などの引き連れる人数などは加算されていないように思えるが、それにしても3倍4倍にはなるまいから、驚くべき倹約行列である。
しかしながらこの届出は空手形になっている。「熊本藩年表稿」によると、この年は帰国の年であったが、足痛のため重賢は熱海で療養していたが、12月まで滞府願を出している。重賢に代わってか、息・治年が翌年2月に帰国予定が、是も何故か3月に延引された。
重賢の病状によるものと考えられる。天明五年十月二十九日重賢は江戸で卒した。

ちなみに天明四年の損毛高は114,200石、五年は143,800石であり、飢饉の記録が見受けられる。

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