明日17日はガラシャ夫人が亡くなられて417年目の御命日である。その最後の様子は、ガラシャ夫人の命により館を脱出した侍女のおしもが正保四年時の藩主・光尚の命により翌年五月二月十九日付の覚書によって知ることになる。この資料を元に数多くの作品が生まれた。
私も三浦綾子をはじめ、森田草平、田畑泰子、ヘルマン・ホイヴェルス・小山寛二、司馬遼太郎、安廷苑等の作品を所蔵している。
最近は読むこともなくほぼ死蔵状態、今日は「おしも覚書」を再読してみた。
しうりんいん様御はて被成候次第之事
一石田治部少乱の年七月十二日ニ小笠原少さい・河喜多
石見両人御台所まて参られ候て私を呼ひ出し被
申候ハ、治部少かたよりいつれも東へ御立被成候大名衆の
人しちを取申候よし風聞仕候か、いかゝ仕候ハんやと申
され候ゆへ、秀林院様へ其通申上候へハ、秀林院様
御意被成候ハ、治部少と三斎様とハ 一本三斎様と治部少とは 兼々御
あいたあしく候まゝ、定て人質取初にハ此方へ申参へく候、
はしめにてなく候ハゝよ所のなミもあるへきか、一番に申来
候ハゝ御返答いかゝ被遊能候ハんや少斎・岩見ふんべつ
いたし候やうにと御意被成候ゆへ、其通りを私承り候て、
両人へ私申渡候
一少斎・岩見被申候ハ、かの方より右のやうす申来り候ハゝ、
人質に出候ハん人無御座候ハ、与一郎様・与五郎様ハひかし
へ御立被成候、内記様ハ江戸へ人質ニ御座候、唯今爰元に
て人質に出候ハん人壱人も無御座候間、出し申事成まし
きと可申候、せひ共ニ人しちとり候ハんと申候ハゝ、丹後へ申遺
幽斎様御上り被成御出候ものか、其外何とそ御さしつ
可有候まゝそれまて待候へ、と返事いたすへき由(イと)申上ら
れ候へハ、一段可然よし御意御座候事
一ちやうこんと申ひくに(比丘尼)日比御上様へ御出入仕候を、かの
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