津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■歯の治療六日目

2017-07-14 20:11:37 | 徒然

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歯のブリッジ形成のため、両脇二本の歯を削ったり型を取ったりしたのだが帰宅後頭痛がして何とも不愉快な感じ・・・
一晩寝れば明日は治まっていると思うが、どうも歯の治療は苦手である。次は26日、型が出来てくるというからそれで終りかしら?
これで数年は持つだろうから、生涯最後であってほしいと願うばかりである。

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■上妻文庫・書写版「おあむ物語」

2017-07-14 09:20:21 | 史料

 先にご紹介した「おあむ物語」は、熊本県立図書館所蔵の上妻文庫の書写版である。
内容が少々違う旨のご連絡をいただき、一部修正してご紹介したが、その後内容を詳細に読んでみたところ、WEBで紹介されいるものや、岩波文庫の「雑兵物語・おあむ物語」の読み下しとは随分異なっていることが判明した。
先にも記したが上妻文庫の「おあむ物語」は引用元が明らかにされていない。大意はとらえているが相当の差異が認められる。
そこで「上妻文庫・書写版ーおあむ物語」としての読み下し文をご紹介申し上げる。
読み違いなどあるかと思われるが、ご指摘ご叱責を給わりたい。

(おあむ物語
子どもあつまりて)

おあん様。むかし物語りなされませといへハ
おれが親仁ハ山田去暦といふて石田治部少
輔殿に奉公して近江国彦根に居られ
たか其後治部殿むほんの時美濃国大
垣の城に我等も罷りて不思議な事
かおじやつたよふ 夜の九ツ時分誰ともなく
男女三十人程の聲夜々しておしやた
おとましや/\おそろしうおじやつた 其
後 家康公様より攻衆大勢城へむか
はれて戦か夜昼おじやた程に其
よせ手の大将ハ田中兵部殿と申しておじ
やる 石火矢をうつ時ハ城の近所を触廻
りておじやつた。それはなぜならハ石火
矢をうては櫓もゆるる動き地もさけ
るやうにすさまじしいさかいに気の弱き
婦人抔ハ即時に目をまハし難儀する
夫故に前かたに触て置た物しや 其ふ
れがかあれハ光り物かして雷の鳴をまつ

やうに心地しておしやつた 初の程ハ活た
こヽちもなく唯物おそろしくこわやとは
かりわれ人おもふたか後々ハなんともおじやるも
のじやない 我々も天守に居て
鉄鉋玉を鋳ました 又味方へとつる
首を天守へ集めて夫々小札を付て
覚え置さい/\首におはぐろを付て
おじやる それはなぜならハ昔ハおはぐろ
をつけた首ハよろしき人とて賞翫
す 夫故白歯の首ハおはぐろ付て
給れと頼まれておじやつた 首もこわひ物
てハおりない其首共の血臭ひ中に寝タ
事もおじやつた 或日寄手より鉄鉋打
かけて今日ハ城も落候半と申す 事の外騒
ひた事でおじやつた 其處へ長人来
て 敵ハ皆々しさりました 最はやおさ
わぎなされもすなしづまり給へと
いふ處へ鉄鉋の玉来りて我等弟十四 

歳になりし者へあたりて其侭ひり
/\として死ておじやつた 扨々むごい事
を見ておじやつたのふ 其日我親仁の持
口へ矢の来りて去暦事ハ家康公さま
御手習の御師匠と申された訳の
ある者じや程に城を遁れたくハ御助
あるべし 何方へなりとも落候へ 路次
のわづらひも有まじ そのよし諸手へ仰
置たとの事でおじやつた 城ハ翌日中攻落さるゝとて皆/\力を落し
我等も翌日ハうしなはれ候半と心細く
成ておじやつた 親仁ひそかに天守へ参
られて 此方へ来ひとて母人我等もつ
れて北の塀脇ゟ梯を掛て釣縄にて
下へ其人数ハ親たち二人わらハと長二
人計其外家来ハその侭にておじやつた
城を放て五六町程北へ行し比母人
俄ニ腹痛て娘を産たまうた 長人其

時田の水にて産湯をつかひ引揚て
つまにつゝみ母人を親仁肩ニ掛て青
野が原の方へ落ておじやつた 怖ひ事
ておしやつたのう 昔かふ/\南無阿ミた/\
又子供彦根の咄しなされませといへば
おれが親仁知行三百石取ておられた
其時分ハ軍か多くて何事も不自由な
事でおじやつた 勿論用意ハ面々
たくはへもあれども朝夕ぞふすいを
たべておじやつた おれが兄様折々
山へ鉄鉋打に参られた 其時ニ朝めし
を焚て昼飯にも持れた 其時我等
も菜めしをもらうてたべておじやつた
故兄さまをさひ/\すゝめて鉄鉋打に
行とあれば嬉くてならなんだ 扨
衣類もなくおれが十三の時手作の花
染の帷子一ツあるより外になし一ツの
かたびらを十七の年まで着たるによ 

つてすねが出てなんぎにあつた せめ
てすねのかくれるほどの帷子一ツほし
やと思ふたか此よふに昔は物事不自由ナ
事でおじやつた 又めしなと喰といふ
事もなかつた 今時の若ひものハ衣類
の物数寄ニ心を懸て金銀をつひ
やし喰物に色/\の好事めさる
沙汰の限な事とて(此處虫喰)彦根の事
をいふて叱り給ふ故に後々ハ子供等
名を彦根婆といヽし 今も老人
昔の事を引て當世にを示をハひこ
ねをいふと俗説に云ハ此人より始
し事なり 夫故他国の物にハ通ぜず。御
国において可語
右去暦土州親類方へ下り(ムシクイ)山田
喜助後に蛹也と号盲となりお安
ハ雨森儀右衛門へ嫁す 儀右衛門死て後
(ムシクイ)養育となり喜助為にハ叔母 

なり 寛文年齢八十余にて卒す
予其頃ハ九歳にして右の物語を折
/\聞覚て記たり 誠に光陰は矢の
ことしとかや 正徳の比ハ予すで孫共を集
世の中の費を示すをハこざかしき
孫共昔のおあんハ彦根ばゝと今の父
さまは彦根父さまよ 何をハおじやるぞ
世ハ時々じやものをとて鼻にてあ
しらふ故腹も立とも後世おそるべし
又後世いかならん 孫ともまた己か孫
と計にさみせられんと後にハ南まい
だ/\ゟ外にいふべきハなしかしく
右一通之事実勝之筆取なり。誰
人の録せる類や不詳うたかふらくハ
山田氏の覚書なるへし。田中又右衛門
(ムシクイ)直の所持を(ムシクイ)書出叓
尓之。


 享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守

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