津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ガラシャ夫人御生害 ・9  (霜女覚書)

2013-05-09 10:10:31 | 史料
       しうりんいん様御はて被成候次第之事
  一、石田治部少乱の年七月十二日ニ小笠原少さい・河きたいわミ両人御台所まてまいられ候而
    私をよひ出し被申候ハ、治部の少かたよりいつれも東へ御立被成候大名衆の人しちを取申候よ
    し風聞仕候か、いかゝ仕候ハんやと申され候故、則(すなわち)秀林院様へその通申上候へハ、秀林院様御
    意被成候ハ、治部の少と三斎様とハ兼々御あいたあしく候まゝ、定めて人しち取初にハ此方
    へ申参へく候、はしめにてなく候ハゝよそのなミもあるへきか、一番ニ申来候ハゝ御返答いかゝ
    被遊能候ハんやせうさい(少斎)・いわミふんべつ(分別)いたし候やうにと御意被成候故、其通私承、両人
    へ私申渡候
  一、せうさい・いわミ被申候ハ、かの方より右のやうす申来候ハゝ、人しちニ出候ハん人無御座候
    ハ、与一郎様・与五郎様ハひかしへ御立被成候、内記様ハ江戸へ人質ニ御座候、唯今爰元にて人
    質ニ出候ハん人壱人も無御座候間、出し申事成ましきと可申候、せひ共ニ人質取候ハんと申候
    ハゝ、丹後へ申遺 幽斎様御上り被成御出候ものか、其外何とそ御さしつ可有候まゝそれまて
    待候へ、と返事いたすへきと申上られ候へハ、一段可然よし御意御座候事
   一、ちやうこんと申ひくに(比丘尼)御上様へ御出入仕候を、彼方より此人を頼ミ、内せうにて右之様子申こし、
    人しちニ御出候様ニと度々ちょうこん申候へ共 三斎様御為ニあしく候まゝ、人質ニ御出
    候事ハいかようの事候とも中々御とうしんなきよし仰られ候、また其後参り申され候ハ、左様ニ
    候ハゝうきた(宇喜田)の八良殿ハ与一郎様おくさまニつき候而御一門中ニ而御座候間、八郎殿まて御出
    候へハ、其分にてハ人質ニ御出候とハ世間にハ申ましく候まゝ、さやうに被遊候へと申まいり候事
   一、御上様御意被成候ハ、うき田の八郎殿ハ尤御一門ニ而候へ共、是も治部少と一味のやうに被聞
    召候間、それまても御出候ても同前に候まゝ、是も中々御同心なく候ゆへ、内せうにての分に
    てハ埒明申不申候事
   一、同十六日かの方よりおもてむきの使参候而、是非々々御上様を人質ニ御出し候へ、さなく候ハ
    押かけ候て取候ハんよし申越候ニつき、少斎・石見申され候ハ、余り申度まゝの使にて候、
    此上ハ我々共是にて切腹いたし候共出し申ましき由申遺候、それより御屋敷の者共覚悟仕り申候事
   一、御上様御意にハ誠押入候時ハ御自害可被遊候まゝ、其時少斎を奥へ参、御かいしやくいたし候様
    ニと被仰候、与一郎様 御上様へも人しちニ御出し有ましく候まゝ、是ももろ共二御しかい
    なさるへきよし内々御やくそく御座候事
   一、少斎・石見・稲富此三人たんこう有之、いなとミハおもてにて敵を防き候へ、其ひまに 御上
    様御さいこ候様ニ可仕由談合御座候故、則いなとミは西の門へ居申候、左候而其日の初夜の比
    敵御門前までよせ申候、稲富ハ其とき心かハりを仕り、敵と一所ニ成申候、其様子を少斎聞、もはや成
    ましくと思ひ長刀をもち 御上様御座所へ参り、只今か御さいこにて候由申され候、内々仰合
    候事にて御座候故、与一郎様奥様をよひ、一所にて御はて候ハんとて御へやへ人を被遣わ候へハ、
    もはやいつかたへやらん御のき被成候ニ付、力なく御果被成候、少斎長刀にて御かいしゃくいた申され候事
   一、三齋様・与一郎様江御書置被成、私へ御渡し被成被仰候ハ、おくと申女房と私と両人ニハおち
    のき候て御書置を相届、御さいこのやうす 三齋様へ申上候やうにと御意被成候故、御さいこ
    を見すて候てハ落申ましく候まゝ御供いたし候ハん由申候へとも、二人ハせひおち候へ、さな
    く候ヘハ此やうす御存知なされましく候まゝひらにと被仰候故、せひなく御さいこを見届しま
    ひ候て出申候、内記様御ち人にハ内記様への御かたミを被置遣候事 
   一、私共御門へ出候時ハもはや御やかたに火かゝり申候、御門の外二ハ人大せい見へ申候、後に承候、後に承
    候へハ、敵二てハ御座なく候由、火事故あつまりたる人にて御さ候と申候、敵参り候も一ちゃう
    にて候へ共、いなとミを引連御さいこ以前ニ引申たるよし、是も後ニ承候、則御屋にて腹を
    切申候人ハ少斎・石見、いわミおい六右衛門、同子壱人、此分をハ覚え申候、其他も二三人もはて
    られ候よしニ申候へ共是ハしかと覚不申候、こま/\しき事ハ書付られす候間あら/\ハ大か
    たハ如此にて候、以上     
             正保五年二月十九日               しも
右自筆の書付御花畑御蔵ニ于今有之、しもは明暦三年五月病死いたし候、忰仁兵衛重延ハ於豊前御知行弐百五拾石拝領、其子伝右衛門初名平八政重一ニ重正原城にて功有、其子伝右衛門初名嶋之助政氏、其子伝右衛門初名半七豊允、其子平之允初名嶋之助久敦、其子今の伝右衛門初名半七豊花なり、代々弐百五拾石無相違拝領仕来申候
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霜女覚書はいろんな形で世に紹介されているが、その大意は変わらぬもののその訳文については随分違いがある。
例えば細川護貞様の御著「魚雁集」にも紹介されているが、これもこの「綿考輯録」の文章とは微妙な違いが見受けられる。
当サイトでは、日本基督教会宣教教師:山本秀煌の著による「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」でその中にある同文をご紹介しているがこれも同様である。一言記して置きたい。

   


 
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