津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■暑中お見舞い申し上げます

2017-07-20 12:24:48 | 徒然

          梅雨明けや 水無川の流れかな  津々

暑中お見舞い申し上げます。
九州北部も梅雨明けとなりましたが、時折小雨もぱらつく曇天の空模様です。

すぐ近所にある水無川(健軍川)も、過日の雨の影響で小さな流れを作っていて、魚が泳ぐこともないのに白鷺などが時折うろうろしています。
いよいよ夏本番となりますが何とか元気に乗り切りたいと思います。皆様もお体ご自愛の上お過ごしください。

          風鈴に 稲妻遠き風の来し

            歯痛みの 三時は西瓜二三片          おそまつ
          

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■ガラシャ夫人の御命日に寄せて

2017-07-20 07:08:15 | 論考

 ガラシャ夫人のご命日に寄せてご厚誼をいただいているAN様から一文をお寄せいただいた。ご了解をいただき全文をご紹介する。
ガラシャの父・明智光秀は信長に対する謀反に対し有名な「時は今 雨が下知る五月かな」という歌に心の内を託した。
「時=土岐」だとする考え方は大方が認めているところである。一方ガラシャ夫人は辞世の句に、「散りぬべき時・・」と歌ったが、この「時」も「土岐」だとする識者がある。大いにうなずける事ではある。
AN様はキリスト教の立場から「時」というキーワードに対して、まさに切支丹の信者として死を迎えられたガラシャ夫人の思いを解説された。宗教に対しては全く知識を持ち合わせぬが、高邁な御説として承った。
夫人の死は細川家の家法に沿った避けがたいものであったが、夫人ご自身の思いはそれを乗り越えた深い信心の心が支えたものであり、万人の心に響くのであろう。

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今年2月、明智ガラシャ(1563~1600)最期の地・細川屋敷跡に建つ玉造教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)において「高山右近(1553~1615)列福感謝ミサ」が行われました。玉造教会の大聖堂の正面右側の壁画は「最後の日のガラシア夫人」(堂本印象・画)、大聖堂前には「細川ガラシア像」(阿部正義・作)、隣接地の「越中井」にはガラシャの辞世の歌が刻まれた「ガラシャ夫人顕彰碑」が建っています。

明智ガラシャの死は、400年を超える長きに亘って「夫・細川忠興(1563~1646)の命で、石田三成(1560~1600)の人質になるのを拒んで自害したもの」とされてきました。細川家のみならず徳川将軍家にあっても「明智氏の義死」(徳川吉宗)として称賛されたところです。

しかし、明智憲三郎著「本能寺の変は変だ!」にならえば、「ガラシャの『義死』って変だ!」ということにはなりませんか? 少なくとも私にとっては、これは長年の謎でした。
この春、この長年の謎が氷解した(と思えました。)ので、ご報告いたします。(尤も後述のように、本当は約10年前のことではあったようです。)
その始めは、明智一族とともに滅び去った幻の城=河内の「三箇(さんが)城」です。
三箇城は、「本能寺の変」で明智に与した数少ないキリシタン武将・サンチョ三箇頼照(15??~1595)、マンショ頼連(よりつら;生没年不詳)父子の居城で、本能寺の変の後、羽柴勢に焼き払われた「幻の城」です。明智一族とともに消えた城が、坂本城、安土城の他にもあったことを、私は初めて知りました。
城址とされる処に立つ三箇一族と思われる「四睡軒」という方の墓碑に刻まれた歌は、こう詠っています。

       城は灰 埋れて土となりぬとも 何を此代に思ひ残さん

 昨年夏に亡くなられた野崎キリスト教会(1)の神田宏大(ひろお)牧師によれば、この三箇のキリシタンたちは、オルガンティーノ神父からだけでなく、城主の三箇サンチョ、マンショ父子からもキリシタンの「ドチリナ(=教理問答)」を聞かされていたので、「自分たちの色身(肉体)が、土灰になって滅びても、キリシタンの魂は決して滅びることがなくパライソ(天国)において永遠の生命を与えられ、 ~イエス・キリストが ~ご威光をもってこの地上に再臨される時、 ~栄光の姿に蘇り、イエス・キリストに迎え入れられることを確信していた。」即ち、「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読み、彼らだけが知っている下の句である天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束に励まされていた。」というのです。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、キリスト教の祈りには、祈祷文を音読するほかに「黙想」という祈り方があります。プロテスタントでは特別の場合にしか黙想されないようなので、(プロテスタントの)神田牧師には馴染みがなかったのかも知れませんが、カトリックの場合は、ガラシャの時代も現代も、日々のロザリオの祈りにおいてごく日常的に黙想は行われます。

ですから当時の「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読」み、それとは別に「下の句」を置かなくとも、その碑文を読むのと同時に、「~天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想することが出来ました。
実際、後の世(1622年)に三箇サンチョの孫・アントニオは、長崎での殉教に臨んで残した手紙に、こう書いています。
「~福音の使者としてこの牢屋に捕らわれていることについて、我が主に御礼申し上げます。
 敬愛の炎に焼き尽くすべき死を与えて下さった我が主の御為に、生きながら焼き殺される日も遠くないことを喜んでいます。たとえこの世ではイエズス会の修道士として受け入れられなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」

 この春、ふとしたことから、熊本の郷土史家・徳永紀良氏の10年ほど前の講演録を見付けました。そこには、こうあります。
「~のちに徳川八代将軍吉宗は『徳川家の今日あるは関ヶ原の一戦にあるが、その勝利は明智氏(玉子)の義死があずかって力があった』とたたえているが、玉子の死は徳川家繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。 人の世を捨ててハライソ(天国)へ帰っていったのである。
これこそが、ガラシャの死の真相なのでしょう。

私見ですが、明智ガラシャは、今年2月7日に大阪城ホールで列福式が行われた高山右近以上(?)の殉教者でした!! 
今では高山右近は「無血の殉教者」とされるのですから、石田勢のおかげで流血の最期を迎えたガラシャこそ本物の(?)殉教者と言えるのではないでしょうか?
これが何故「私見」かというと、カトリック教会はガラシャを「殉教者」と認定していないからです。ただそれにも拘らず、教会で営まれたガラシャの葬儀、一周忌(以後も年忌ごとに行われた)ミサにおいては、殉教者と同等の扱いがなされました。また、4年前に日本でも上演されたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、ガラシャの死後一世紀のウイーンで初演されたイエズス会音楽劇(4)は、ガラシャの死を「『丹後王国の女王グラツィア』の殉教」として描いています。
だからこそイエズズ会の「1601年の日本年報」にあるように、夫・忠興の強い要請で京の教会で行われたガラシャの一周忌ミサにおいて、「ヴィセンテ修道士(2)が聖ヨハネの言葉『主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(註3)を主題とし~来世における確かな救済~霊魂の不滅を重々しく説いた。 ~説教の最後に、ガラシャの徳と善き死について述べたところ越中殿(忠興)とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた。」のです。
一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた聖ヨハネの言葉には、「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」に続けて「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」とあります。
そう、ガラシャはその最期を迎えて、まさに「その行いが報われ…」「労苦を解かれて、安らぎを得る。」中で「人の世を捨ててハライソへ帰っていった」のです。

そもそもフロイス神父が「日本26聖人殉教記」に「ガラシャは神父達が殺されると聞いて、 ~喜びと勇気をもって神父達と死ぬために相応しい着物を用意しはじめた。」と書いたように、ガラシャは実際の「散りぬべき時」の3年も前から殉教を望み、殉教に備えていたようです。すなわちガラシャの「善き死」は、少なくともご本人にとっては、望んで迎えた殉教だったのではないでしょうか?
彼女もまた、後の福者殉教者・三箇アントニオと同じく「たとえこの世では修道士(ガラシャの場合は「修道女」に読み替えて下さい。)となれなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」と固く信じつつ、その「善き死」を迎えたものだと思います。「主に結ばれて死ぬ人」として…
キリスト教の主要な祈りの一つで、(カトリックの)ロザリオの祈りでは何十回も唱えられるものに、「アヴェ・マリアの祈り」があります。「アヴェマリア、恵みに満ちた方~」と始まるのですが、ラテン語では「Ave Maria, gratia plena~」となります。「ガラシャ」の名は、この「gratia」をスペイン語にした「Gracia」の当時の日本語表記です。ガラシャは、その最期・「善き死」を、ご自分の名に相応しく「恵みに満ち」て迎えることが出来たのです。
ガラシャの最期を語る時、これまでは、ともすればガラシャがキリシタンとしてその最期に臨んだことが、どういう訳か随分と軽んじられてきたようです。

           散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

このガラシャの辞世の歌に詠まれた「時」についても、聖書に書かれたコヘレトの言葉(5)「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時~」の「死ぬ時」のことなのですが、(キリスト教関係でない方には、)何故かすっかり忘れられていませんか?
そしてまた、ガラシャの辞世の歌は、神田牧師の言われる「上の句」として詠んだものかも知れません。そう言えば、三箇城址の四睡軒墓碑の歌に通ずる趣も感じられますね。きっとガラシャは、三箇のキリシタンたちと同じように、「下の句」である「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を心から信じつつ召天したのでしょう。
さらに言えば、その辞世の歌は、実は「下の句」と別の「上の句」として詠まれたものではなく、辞世の歌と一体のものとして「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想するものだったのでしょう。そしてそれは、ガラシャの一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた「来世における確かな救済」と「霊魂の不滅」とも一体のものだったのではないでしょうか?

(1) 大阪府大東市野崎2丁目。 三箇城址(大東市三箇5丁目)の東方約2.5㎞にあるプロテスタント教会。

(2) ヴィセンテ洞院(1540~1609)。 若狭出身。 医師、文学者でもあり、ガラシャの愛読した「こんてむつす・むんぢ」の訳者としても知られる。

(3) ヨハネ黙示録 14:13  

「1601年の日本年報」の日本語訳では、「主において死する者に幸あれ」となっていますが、より分かり易い現行の「新共同訳聖書」から引用しました。

(4) バロックオペラ「強き女、またの名を丹後王国の女王グラツィア」 脚本:ヨハン・バプティスト・アドルフ、 作曲:ヨハン・ベルンハルト・シュタウト

(5) コヘレトの言葉 03:01、03:02

     以下は「註」と直接関係ありませんが、ご参考まで。 

    http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/23408/image.jpg

    http://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm

 

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