津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お遊び相手

2012-02-10 16:05:54 | 徒然

 日本の古本屋をずっとチェックしているのだが、どうしても手に入らない本がある。護貞様の御妹・寺島雅子様(子爵・寺島宗従夫人)が著された「梅鉢草ー思いつくまま」という本である。お嬢様が徳川宗家・恒孝氏夫人、幸子様である。雅子様は護立公の二女であられるが、姉君は敏子様、妹君泰子様である。上記の本に書かれてあったが、敏子様・雅子様は昭和天皇のご長女・照宮様のお遊びのお相手として時折皇居に上がられたらしい。
そんなお二方も立場が替わると細川家のお屋敷では、お遊びのお相手が数人居られたらしい。雅子様の御著にはその一人として私の叔母が写真とともに登場している。そんなこともあって、この本をぜひ手に入れたいのだが、絶望的感じがしている。

 過日、ブログ「徒然(とぜん)なか話」を主催されているNS様からメールをいただいた。 お父様が細川刑部家のお遊びのお相手を勤められたらしい。その方の文章が残されているということであった。当時の状況を知る資料としても貴重であり、お許しをいただいてここに掲載させていただくことにした。

          http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/9f1f5ed7930f4a22849743a41b0edd95

そしてこのブログが秀逸であり、皆様にもご紹介申し上げる次第である。

 

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雨宮十兵衛宛沢村宇右衛門書状

2012-02-10 08:33:19 | オークション

江戸前期 『 熊本藩家老 沢村宇右衛門友好 書簡 』 肥後細川家_画像1

ヤフーオークションに於ける説明文から

熊本藩家老 沢村宇右衛門友好が雨宮十兵衛へ宛てた書簡です。
年代は、寛永から寛文(1633~1667)の頃です。 

○ 沢村宇右衛門友好 1604~1667
 熊本藩家老、1万4千3百石。筆頭家老 松井康之の甥。 はじめ松井庄次郎、右近ついで宇右衛門と改める。 細川忠利の児小姓に召出され五百石。寛永十年 沢村大学吉重の養子となる。五百石加増、島原陣の功により千石加増、寛永十七年若年寄となり、二千三百石加増、 都合四千三百石、のち一万四千三百石老中職、寛文五年六月辞任。同七年十月七日歿。諡晴機院。


  尚々、御書面追っつけ越中へ見せ申すべく候、定て自宅
  御書状申され候と存じ奉り候、山城守様此方へ御光賀
  遊ばされ候儀、一両日は差し合い候儀御座候間、御延引
  成られ候ようこれ又宜しきよう仰せ上げられ下さるべく候、以上

山城守様より成し下され候御書、謹みて頂戴致し候
先日、貴様まで手紙をもって御意を得候ところ、仰せ上げられ候
聞し召され候由、然らば交野道候儀、合力の為
十人扶持遣わし申され候段、御満足遊ばされ候、右
御礼と成られ内々今日御光賀遊ばさるべく候につき
思し召され候ところ雨気故御頭痛気に成られ
御座候につき、その儀御座無く候、越中へ御状
遣わされ候えども、わざわざ遠慮の旨にて仰せ下され候
御書面承知奉り候、早速御紙面の趣
申し聞くべく候えども、ただ今此方内用御座候て
取り紛れ居られ候間、追っつけ見せ申しべく候、御直の
御請旨、恐れ多く貴様までかくの如く御座候ところ、右の通り
然るべきよう仰せ上げられ下さるべく候、頼み奉り候、恐惶
謹言

 三月九日      沢村宇右衛門
 雨○十兵衛様 人々御中

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雨宮十兵衛なる人物は以下のような人物が窺がえるが、沢村友好とは活躍の時代を異にしている様に思うのだが。
さてこの書状の人物は何様なのだろうか・・・

サイト  
http://aammee0807-hp.web.infoseek.co.jp/sakuzaemon/saku_02.html から引用する。

十兵衛家次は甲陽軍鑑によれば信玄の長子太郎義信の家来であった。信玄が義信に逆心ありとしてこれを監禁し自決せしめた事件にあたり、永録八年義信の部下八十騎が成敗され或は追放された。このとき、彼は小田原へ走り北条家に仕えたが、三年の間に七回も大きな手柄をたて、北条氏康・氏政父子から七通の感状をもらい、四たびも一番槍の功名があったので、高坂弾正が「かほどの勇士を追放したままにしておくのはもったいない」と信玄にとりなし、彼は離脱後三年目にして武田家へ帰参した。(雨宮家系図にも重兵衛家次の項に「仕武田義信永禄八年義信違父晴信之命自害故奔相州仕北条氏康度々戦功有氏康賞之賜感書七通同十年高坂弾正申之于晴信家次帰甲州」とある

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