津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「花一輪」 茶道のすすめ

2006-02-12 09:44:41 | 徒然
 文化勲章を受章した数学者岡潔に、ある記者が「情緒とはなにか」と問うた。
答えて曰く「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」と。
「国家の品格」の中にある話。

 茶室に飾られた、一輪の花の生命感には圧倒されるものがある。
そこに亭主のもてなしの心底を見ることが出来る。骨董披露の茶会は御免だ。
只一輪の花が有ればいい。そんな素晴らしい茶会を通して「情緒」は育まれて行く。

 我PCのHDの上に、数輪の莟をつけた菫の一鉢を乗せている。
岡潔先生の言葉が、私の頬を緩ませている。


 
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先週の読書

2006-02-12 08:43:49 | 書籍・読書
  1、お伽衆宮本武蔵 井上智重・大倉隆二共著
  1、猿若の舞(初代勘三郎)東郷隆
  1、国家の品格   藤原正彦
  1、司馬遼太郎と藤沢周平 佐高信
  1、夢酔独言    勝小吉
  * 熊本日日新聞連載 「恕斎日録抄」 150回分

「国家の品格」は、久し振りに「我意を得たり」と感ずる佳作だった。
日本の将来は教育にある。グローバリゼーションに流されては成らない。日本独特の文化(天皇制を含めて)や情緒を、しっかり身に付けた「日本人」にさえなれば、只それだけで「日本人」は世界に通用する。藤原正彦氏の言葉は明快である。



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お理(檻)の中

2006-02-10 20:07:56 | 書籍・読書
 昨日に続いて、勝小吉のこと。
余りにも身持ちが悪い小吉は、父親の手によりお理の中(座敷牢)に入れられた。
21歳の秋から24歳の冬までというから、二年数ヶ月の長きに渡っている。
22歳の時、麟太郎(海舟)が生まれている。そんな中で手習いをしたらしい。写真で見る小吉の文字はなかなかのものである。本も沢山読んだのかもしれない。お理を出た後も、仕官も出来ず刀之見立てなどをして、渡世をしている。坂口安吾が小吉を評価するのは、小吉が達観した「いつでも死ねる」というその魂である。安吾に言わせれば、武蔵にはそれが無かったという。「死なぬためにはどうすればよいか」武蔵はそればかりを考えていた、と手厳しい。

 ホリエモンは檻の中から、百科事典の差し入れを頼んでいるという。
小吉のお理の廻りには、友達が駆けつけて賑やかであったらしいが、ホリエモンのお相手は取り調べ官ばかりである。百科事典を読んで、何を考えるのだろう。小吉ほどの人間として蘇ることが出来るのだろうか。
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夢酔独言

2006-02-09 23:31:06 | 書籍・読書
 昭和50年頃だと思う。東洋文庫の「夢酔独言」という本を購入している。勝海舟の親父さん小吉が書いたものだ。当時、江藤淳が「海舟余話」という本を出した際、一緒に購入したのだろう。

 坂口安吾は「堕落論」の中の「青春論」で、宮本武蔵と勝小吉とを対比して、次のように書いている。
   夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十
  の筆になるという「五輪書」と「夢酔独言」の気品の高低を見ればわかる。
  「五輪書」には道学的な高さがあり、「夢酔独言」には戯作的低さがある
  が、文章にそなわる個性の精神性深さというものは比すべくもない。
  「夢酔独言」には最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ
  個性の深さがあるのである。

 この前後の文章と共に、武蔵を「虚仮」にしたとも思える有名な一文である。
久し振りに「夢酔独言」を読んだ。小吉のこの文章は、放蕩を尽くした故に達した無我の心境なのだろう。しゃべり言葉で書かれて、べらんめえで洒脱な文章は中々面白いのだが、安吾の論評を「お説ご尤も」というには、こちらがボンクラでついていけない。
敬愛してやまない安吾先生は、こんな文章をかいて読者をどぎまぎさせる。
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ちんちんさんの畫

2006-02-08 20:59:27 | 徒然
 「開運・なんでも探偵団」を時々見る。二三週前だと思う(再放送?)が、ある人が畫を持ち込み、作者は「ちんちんさん」だという。達者な司会者が面白おかしく、場をつないでいたが、その結果はよく覚えていない。安河内眞美先生は何だか安い値をつけ、出品者はがっくりしていたように思うが、安河内先生はどうどうと「ちんちんさん」を連発して笑いをとっていた。ちんちんさん、すなわち「椿椿山=つばきちんざん」である。どこかで見た名前だなーと考えて、最近あることに気がついた。島田美術館が所蔵する、宮本武蔵の少年時代の姿を描いた「元祖新免辨之助」の畫だ。あの髪の毛が逆立った、仁王様のような形相の畫だ。本を広げて確認すると、間違いなかった。番組の畫は、花鳥画だったような気がするのだが、「ちんちんさん」の畫はどのようなものだったか・・・忘れる・思い出せない・・・老人病が進んでいる。
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「中村恕斎日録」と上田久兵衛の日録

2006-02-07 09:31:43 | 歴史
「中村恕斎日録」が発刊されたのは2002年の事である。熊本大学が所蔵していた恕斎の日録は、十八巻の内二巻が欠けていたというが、中村家にその二巻が所蔵されていて運命的な出会いがあって発刊の道が開けたのだとお聞きした。まだ一巻のみしか発刊されていないが、全十二巻になるらしい。 
 上田久兵衛については、昭和三年鈴木登氏が「肥後藩士上田久兵衛先生略傳並年譜」を発刊されて識者の知るところとなった。半世紀を経て上田家から貴重な文書類が発見され、当時東京大学史料編纂所の教授であった、宮地正人氏の手により「幕末京都の政局と朝廷--肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た--」となって発刊される。これもまた2002年の発刊である。鈴木登氏の遺志を受けて、ご子息の郷土史家鈴木喬先生が、いろいろな処を得て論文を発表されている。上田家の史料は、散逸を危惧した遺族の手により、東京大学史料編纂所に納められた。

 この二つの日録を知らぬまま語られてきた肥後の幕末史は、大きく塗り替えられねばならない。実学党や敬神党、暗殺者河上彦斎のみが生きていた幕末ではない。

 明治二年以降、刑死するまでの久兵衛の日録のコピーが、上田家から私に託された。白文の日録に目をやると、自らの非力を感ぜざるを得ない。なんとか久兵衛の生き様を知っていただくべく遅々たる作業を進めている。
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星の王子様と熊本

2006-02-05 12:44:58 | 熊本
「星の王子様」の翻訳者であり、「シューベルトの子守唄」の訳詞者として知られる内藤濯(あろう)の父親が、横井小楠の弟子であったことを30年程前(?)の新聞で知った記憶がある。二三年前「ブックオフ」で、小島直記の「一燈を提げた男たち」という文庫本を見つけ購入した。小島直記は純文学を志向した人だが、石原慎太郎と同時期芥川賞の候補に上り、石原が受賞すると憤慨して(?)、純文学の道を断った。反骨の人である。
内藤濯の父親泰吉について、「一燈を提げた男たち」の「六十年」という一文に紹介されている。内容は泰吉の師小楠についてである。泰吉は、小楠の許を訪ねた坂本竜馬と小楠の会話を聞き伝えている。後オランダ医学の勉強をし医者となり、熊本の西洋医学の魁となった。
 反骨の人小島の論調はなかなか激しい。藩主家の浪費に食いつき、時習館の教育方針を叩き儒者を幇間とまで酷評する。実学派擁護論者らしい。私の家等は典型的な学校党だから、なんとも気が晴れない論調だ。曽祖父などは「士は二君に見えず」を通し、生涯を村夫子として生きた。護美公の御側にあった時期もあり、中央への斡旋も有ったらしいがこれも辞退した。肥後もっこすの典型である。そんな曽祖父の血は確実に受け継がれている。古里に身をおき、より良き故郷になることを願っている。
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恕斎日録抄

2006-02-05 09:46:45 | 熊本
 地元熊本日日新聞の夕刊に週一回掲載される、熊本大学教授吉村豊雄氏の「恕斎日録抄」が150回を迎えた。肥後藩士中村恕斎は、弘化二年から明治三年まで、延べ35年に渡る克明な日記を残した。関係者のご努力で「中村恕斎日録・第一巻」が発刊され、我々を楽しませ、且驚きの世界に誘ってくれた。当時の政治・経済・教育、又風俗や庶民の生活等々その内容は詳細を極めていた。熊本の幕末史の再考が必要とも考えられる。吉村教授の「日録抄」の解説を伺い、この「日録」の重要性を改めて感じざるを得ない。ご子孫の中村勝氏は肥後金春流の十三代目、吉村教授と共に「中村恕斎日録」の発刊に尽力された。不思議なご縁でご厚誼をいただいているが、多方面に渡り大変精力的に走り回っておられる。昨日は吉村教授の「恕斎日録抄」の書籍化について電話でお願いをした。単なる新聞の連載で終わるのが残念に思われたからだ。なかなか難しい話なのだが・・・「何か出来ないか・・」思いはつのる。

 中村恕斎の先祖を遡ると中村一氏に至る。田辺城に篭城した中村甚左衛門は一氏の子。歌舞伎の名優中村勘三郎氏も一氏の血を引いている。「功名が辻」にその一氏がいよいよ登場、久し振りに真剣に見る大河ドラマ、さてどのような展開になるのか楽しみである。
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ハーマン号沈没事件

2006-02-04 13:40:34 | 歴史
 「肥後藩國事史料」にある「ハーマン号沈没」に関する記事を、わがサイトにアップしようと思い立ってから、随分の時間が流れた。今般ようやくアップすることができて、心底嬉しい。細川藩政の終焉期に起きた悲しい事故は、130数年を経過した今日に於ては忘却の彼方にある。五稜郭にこもる榎本武揚軍を鎮圧すべく、函館に出兵した津軽藩(藩主津軽承昭は細川斎護の四男)の事態を憂慮して派遣された350名の肥後藩士は、明治二年正月二日乗艦したお雇米艦ハーマン号が座礁破艦して多数の死傷者をだした。地元勝浦の漁民の献身的な救助の様子は、地元では今でも語り継がれ顕彰されている。(官軍塚)
我が家に於てもT家に養子に入った某の二男が死去した。母方の伯父の家だが、このような事実も今回始めて知ることとなった。よくよく検証すると、父子や兄弟が共に死亡といったことが処々見られる。古里のご家族の悲しみは如何ばかりであったろうか。時代は大転換し、すがるべき藩さえもが消滅してしまい、これらの補償などはどう成されたのだろうか。胸が痛む。

  官軍塚に有る俳人中村汀女の句碑から 「香焚けば 情こまやかや 春の海」
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細川伊也

2006-02-03 09:20:46 | 歴史
 藤孝の長女である。永禄十一年五月生まれだと云うから、忠興にとっては八つ年下の妹と云う事になる。天正九年五月伊也は、弓野木城主一色五郎義有に嫁す、十五歳。両家和睦の絆として、幽齋が持ちかけた話である。その年の暮れ男子を出生している。

 司馬遼太郎の著作「余話として」所収の短文「謀殺」は、藤孝・忠興親子が壻である義有を殺害する事件を主題としている。義有と伊也の婚儀の三日後、幽斎の居城宮津城に「婿入り」した義有を謀殺したとしている。事実とは随分かけ離れていて、司馬氏の取材の甘さを指摘せざるを得ない。

 事件が起きたのは天正十年九月である。義有の謀叛を察知しての事だと云うが・・・。綿考輯録には詳しい処であるが、細川護貞氏はその著「細川幽齋」に於ては記述を避けておられる。余り気持ちのいい事件ではないからだろう。

 伊也はのち吉田兼治に再嫁し女子をもうけた(徳雲院、長束大蔵大輔正家の子、田中半右衛門に嫁した)戦国時代を生きた女の悲しい話である。
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河上彦斎という人

2006-02-02 23:01:51 | 歴史
 この人は志士なのか、暗殺者なのか? 例えば角田政治の「肥後人名辞典」などをみても、暗殺にかかわる記述は一個の文字も見えない。尊皇攘夷に徹した志士としての扱いだろうか。地元熊本の評価はどうも好意的に見える。熊本の過去の研究者や、歴史家たちが一つの彦斎像を作り上げているように思える。佐久間象山を殺してから、その人の偉大さを知るに及んで、暗殺者を辞めたという彦斎。悔悟の念なのか?
司馬遼太郎に於ての論評は大変手厳しい。「愚かで狂気だけが財産の暗殺者」とする。新渡戸稲造は著書「武士道」の中で、勝海舟の話として、彦斎の「あなたは何故人を殺さないのか、南瓜や茄子をあなたは取って食べるだろう、あいつらはそんなもんだ」という言葉を紹介して、「それはひどい奴だったよ」と述懐させている。「武士道の教育を受けた者」として海舟を紹介しているが、反語として彦斎がある訳だ。幕末の藩体制が揺らぎ軋んでいる時とはいえ、藩の処分にも頭を傾げざるを得ない。王政復古と共に、藩は彼を釈放し外交の役を与えている。いい加減なものだ。
 このいい加減さが、彼の評価のいい加減さに繋がっているように思える。
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着更月

2006-02-01 16:41:20 | 徒然
 灯油が一昨年に比べると5割ほど上がって、「節約節約」とウォームビーズを心がけてきたが、昨日は随分暖かくて暖房なしで室温が18度ほどまで上がり有難い限り・・・・。さて今日から如月二月、きさらぎは「着更月」とも書くそうだが、今日は一転冷え込んで、暦通りに着込んでしまった。

 熊本の春は、恒例の植木市と共にやって来る。天正年間に隈本城主、城親賢が開いたとされる古ぃ行事である。白川河川敷で数十万本の植木が持ち込まれ、賑わいを見せる。【サイト「くまもと春の植木市」をどうぞ】
三日は節分、最近は豆まきよりも恵方巻きの方にお株を取られたようだけど・・・(熊本にはこんな風習はなかったと思うんだが・・・)
四日は立春、「春は名のみの、風の寒さや・・」で、まだまだ寒さは続く。
 
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