津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■山頭火の店「雅楽多」は、旧有吉家屋敷の一部だった。

2022-03-05 07:02:26 | 地図散歩

 白川が大蛇行していた時代には現在の熊本市役所の場所はどうやら流れの中に在ったようだ。
現在熊本市は現在の市役所庁舎の耐震性を理由に建て替えを目論見、市議会などを巻き込み、賛否揺れ動いている。
白川の河道の跡だということになると、あまり良い地盤ではないことは確かなようだ。
藩政時代この場所は御厩があった所で、裏手に出るとお花畑の馬場に繋がっている。
御厩の前の坪井川に架かる橋を「厩橋」と呼んでいる。


 その御厩の裏手には、三卿家老の有吉家の分家の広大な屋敷が広がっていた。
市役所の裏手から下通まで、表は市電の通りから裏手はかっての太陽デパートがあった広大な一角である。

本邸は重臣の屋敷が軒を並べた城内二の丸内の、西大手御門前右手にあった。二の丸の屋敷群が解体された後も有吉邸は残され、明治の一時期熊本県庁となった。
(ちなみに本家は現・国立病院の場所にあった)

「熊本城下町図-安政比」を引っ張り出して眺めてみると、下通筋にはその有吉市左衛門邸の先に宇野貞雄、その先に堀内三瞱、道を挟んでその先には益田弥一右衛門の屋敷が並んでいる。
明治維新後(5年)御厩あとに獄舎が作られた。いろいろ変遷があるが表通りには「研屋」という旅館が出来、有吉家の池や庭つくりなどを利用して「精養軒」という高級料亭が作られた。
いずれも庶民には手の届かない、官民のお大尽の利用する処となり大変賑わったようだ。

                                   

 井上智重氏の著「いつも隣に山頭火」を読むと、「雅楽多の場所は?甲斐青萍の絵図に探す」(p196~199)という項があり、この絵図のなかに山頭火の店「雅楽多」が描かれていることが紹介されている。
同著には大正五年の地図と甲斐青萍・熊本街並画集から該当絵図も紹介されている。
早速とりだして眺めてみると、「熊本明治町並屏風-部分十一・熊本監獄」(p35~36)及び、「昭和町並屏風-手取本町と市役所付近」(p44)で同様の場所が描かれていてその「雅楽多」の場所も良くわかる。
p36に於いては、お客を乗せた人力車が「精養軒」に入っていくのが伺える。「雅楽多」はその入り口の左手の二階屋らしい。

商店街として発展していく下通の一等地ともいえる所に、山頭火は店を構えた。
そして両絵図に共通して精養軒入り口の二軒隣には屋根の上に時計塔みたいなものを乗せているのも伺える。明治期の絵図では「山田時計店」、昭和期の絵図では「マルタ號」とある。
「マルタ號」とは私が若い頃までは営業していたし、良く通った洋品店であった。現在は同地に「マルタ號下通ビル」が存在する。
確か友人のT氏の何代か前は親戚筋だということを聞いていたから、電話をして古い写真でもないかと尋ねてみたが、こちらは叶わなかった。
処が話は思いがけない方向に飛んで、氏は昭和43年ころ、新町の有志が山頭火の映画を作ったことがあったそうで、これに深くかかわっていたらしく、話はそちらに移り、能弁に語る相手の長電話に引きずりこまれてしまった。
「甲斐青萍・熊本街並画集」は持ってないという。大いに推薦したことは勿論である。

 ちなみに井上智重氏は■東京銀座博品館にて上演「きょうも隣に山頭火」の公演準備のために超ご多忙の御様子である。
成功裡に終る事を願っているが、皆様のご来場を乞い願うものである。
お問い合わせ等はお気軽に井上智重氏の方にメールでどうぞ tomo12@alpha.ocn.ne.jp

 

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