津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一色五郎義有の死去

2018-09-14 16:08:59 | 史料
 細川家の歴史を勉強していて、一番いやな思いをするのが忠興の妹(伊也)聟・一色五郎義有のだまし討ちである。
ウイキペディアで一色義定(五郎義有)の項を眺めると、亡くなった日を「義定が謀殺された日について、『一色軍記』は本能寺の変以前の2月に殺害されたとしているが、『丹州三家物語』においては9月に殺害されたとしており、また、上宮津盛林寺の「一色満信」の位牌には9月8日と記されている。」から、天正10年9月8日としている。
「細川忠興軍功記」によると、一色氏は、賤ケ岳の戦いで秀吉が敗北したという間違った情報により、細川の留守を狙い襲おうとしたが誤報と判り引き揚げたとしている。
記事にある中川瀬兵衛清秀は天正11年4月20日に戦死している。

そうなると一色五郎の死は瀬兵衛の死去以降の事であり、辻褄が合わなくなる。
綿考輯録の編者・小野武次郎も気づいていたらしいが、あいまいである。
細川護貞様の御著「細川幽齋」などでは、この「だまし討ち」事件については全く触れられていない。
その後忠興による慶長19年の「希首座の誅伐」事件(希首座=一色氏遺児?)などもあり、一連の事件の真相に迫ると何とも気が重くなる。
すくいは、伊也様が吉田兼治に嫁ぎ、多くの子をなし幸せに暮らされたことである。

 「細川忠興軍功記」より該当項
  1. 志津ヶ嶽にて中川瀬兵衛殿打死被成候を秀吉公方御負候様に一色殿御聞被成候て宮津之 御留守を御取候半と武者船を大童沖迄押出し被申候跡より雑説之由申船に追付留申に付ゆ みの木へ舟押戻し被申候然共色々顕申に付忠興様御帰陣之御祝儀へも出不申引籠被申に 付幽齋様御拵みて宮津へ御出仕被成筈に相極申候事
  1. 一色殿御打果被成候御座敷八畳敷にて御座候其間に一色殿同家老日置主殿介忠興様御三 人一色殿と忠興様向合にて御座候主殿介忠興様右の脇に居申候御腰之物左之勝手口より 中島甚允持出申候か柄の勝手悪敷置申候故少被成にくき體米田宗堅見付御肴持参被申御 腰物にさはり被申候を取直し被成御勝手能様に御直しにて扨追取御抜き被成候一色殿も脇 指抜合被申候得共早御切付被成主殿方へ御向候得ハ主殿逃申候一色殿は供之侍両人引立 屋敷之外迄退被申候かたうとたほれ被申候時二に成果被申候事
  1. ゆみの木の城へハ御舎弟玄蕃殿松井殿米田殿其外御馬廻衆被仰付候城中より申候ハ皆共 ハ御打果被成候ハヾ一色殿御内儀生害仕其後皆共腹可仕候御助被成候ハヾ御内儀様無事 渡可被申と申に付何も御助被成に付極り城御請取被成候事
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