津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■四賢夫人横井つせ子と矢嶋楫子の苦労

2024-05-17 06:00:45 | 徒然

 資料を整理していたら、映画「われ弱ければ」のパンフが出てきた。
主演の常盤貴子さんの舞台挨拶があるということで、公開当日は前から5~6列目に陣取って、お美しい姿を拝見した。
主人公の矢嶋楫子は、「四賢夫人」の一人として著名だが私は詳しく存じ上げなかった。
映画を拝見するとともに、三浦綾子氏の著書も購入して精読した。
                 われ弱ければ(小学館文庫) (小学館文庫 R み- 1-4)

 今日改めて本棚から取り出してななめ読みをしたところだが、横井小楠夫人・つせ子に関わる記述に目が留まった。
その文章をご紹介してみよう。
 
  つせ子の夫は天下に名高い学者横井小楠である。部屋住みの身は、晴れて結婚することができなかった。ところが、長男の兄が死に、
  その子供も幼くして死に、小楠が横井家を継ぐこととなった。百五十石の武家だった。小楠はその以前に内縁の妻を迎えてはいたが、
  男児を出生すると同時に、母子ともども死んでしまった。その後妻に、楫子のすぐ上の姉つせ子が嫁いだのは、小楠四十八歳、つせ
  子二十六歳の時であった。兄も姉たちも、天下の小楠の妻になることを喜んだが、楫子は喜べなかった。年齢差がありすぎるという
  理由からではなかった。百五十石の家に、惣庄屋の娘は正妻として嫁ぐことができなかったのだ。嫁いだとしても、それはあくまで
  も妾であって、正妻ではなかった。しかも小楠には寿加という女がいてひとつ屋根の下に住んでいた。部屋住み時代の、三十代時
  代からの女であった。十何年ともに夫婦のようにしてきた寿加と、つせ子は同じ扱いを受けるわけなのだ。いかに事実上の妻だと言
  いくるめられても、楫子にはもろ手を上げて賛成し得ぬ縁談であった。が、ついにつせ子は小楠に嫁いだ。嫁いだといっても妾の身
  分であったから、婚礼は略された。つせ子は夫を「殿」と呼び、生まれたわが子を「さん」づけで呼ばねばならず、子供たちから、
  「お乳」と呼ばれる存在だった。十年以上も前からいる寿加のほかに、きびしい姑もいた。

 つせ子の苦労は大変だったとは伝えられるが、それは三浦氏が指摘するようなことは違った形で受け止められているのではなかろうか。
寿加という女性がいたことは確かだが、徳永洋氏は「女中」だとされている。姑は結婚から2年後に亡くなっているが、家族は亡くなっ
た兄の嫁と二人の男子(左平太・太平)がいたし、時雄・みや子も生まれ賑やかな一家となったが、いわゆる「士道忘却事件」により帰
国したのち、士席をはく奪され知行も召し上げられたから、無収入となってしまった。
この時期が、つせ子には一番苦労した時期ではなかろうか。
そんなつせ子の苦労と並行して、楫子は酒乱の夫に仕えた。義兄・小楠の死については著者三浦綾子は全く触れていない。
小楠の死から五年後、楫子は夫を捨てて東京にいるあに矢嶋直方の元へ向かうのである。
キリスト教に目覚め、女子教育に携わり名を遺した楫子が賢夫人と称えられるのは、女性の地位向上に大きく寄与したという事であろう。
開明的な思想の持ち主で明治維新の立役者であった小楠だが、こと女性解放については思考がついていかなかったようだ。

 甥の徳富蘆花は、楫子が不義(?)の子を為したことにたいして言葉を極めて痛罵している。その著「竹崎順子」に詳しいが、またい
つかこちらも改めて読んでみようかと思うが、何せの大部であるから心して臨まなければならない。

 

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