津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■近衛家と細川家

2024-05-07 10:01:05 | 歴史

 昨晩TVで「英雄たちの選択-近衛家と細川家」が放映されていてあわててしまった。連休が続いて曜日がピンとこずにいた。
さて劇中の二人は、近衛家熙と細川綱利、同時代の人とは言え面白い取り合わせで、話がどのように進行するかと興味深く拝見した。
前を少し見落としたから、再放送を待ちたい。

       +ーーー後陽成天皇ーーー+ーーー後水尾天皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・+ーーー昭和天皇
     |          |                         |
   +ーーー八条宮     +ーーー四宮                      +ーーーーー三笠宮ーーーー靖子
                 ⇩                               ‖
    近衛前久ーーー信尹===信尋ーーー尚嗣ーーー基熈ーーー家熈・・・・・・・・・・・・・・文麿ーーー+ーーー文隆=====忠輝
                                                                                                             |         ⇧
                                     +ーーー温子       ⇩
                                         ‖ーーー護熙・忠輝 
     細川藤孝(幽齋)ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚ーーー綱利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・護貞

 後陽成天皇のお子・四宮、信尋が近衛家に入られたから近衛家は皇別摂家となったが、細川家と近衛家のつながりは、信尋女が水戸光圀に嫁いでいるから、光圀の実妹(松平頼重養女)を室とした綱利も縁をつないでいる。
私は公家としては破天荒ともいえる前久・信尹の行動に大変興味を持っているが、天皇家出身の信尋の行動もまた興味深い。
近代に至り、護貞さまが近衛温子さまと結婚され、そのお子である忠輝さまが近衛家を継承され強い絆が生まれている。
まさに貴種と呼ばれる所以である。

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■「参勤」変じて「述職」となる

2024-05-07 07:09:05 | ご挨拶

細川韶邦夫人峯・先代細川斎護室・顕光院、それに韶邦の兄・慶前未亡人鳳臺院などが、文久二年の参勤交代制の宥免に伴い、大名夫人の江戸住が御免となり熊本へ帰国された。
これはまさに横井小楠が国是七論にのべた「 一、大名の妻子を国許に帰す。 一、大名の参勤交代をやめて述職に変える。」が実行されたことによる。
このことが決定される会議の席上で、政事職の松平春嶽は同席した儒者の林某に「書経にある述職」の意はどういう意味かと尋ねたといわれる。
聞きなれない「述職」という言葉は、表向き参勤にかわる「将軍への領内政治報告」だとされるが、本来の意味は「諸侯が天子に朝謁して職事の状況を上申すること。」であり、儒者の林某は十分その意味は承知していたにもかかわらず「取り調べの上」としてその場を濁したと伝えられる。
春嶽夫人・勇姫は言わずと知れた斎護女であり生母は顕光院である。
江戸にあったころは、母子の交流も妨げとなる者もなかったであろうが、顕光院も勇姫もそれぞれ肥後・越前へ帰国するにあたってはつらい別れであったろう。
御三方それぞれが大国とはいえ初めてのお国入りで、心細いものであったろうが、南関の関からのお国入りに関しては玉名郡代・中村恕斎らの心配りで大いなる歓迎を受けて心安ら叶事であったろう。
細川韶邦夫人は花畑邸、顕光院と鳳臺院は二の丸屋敷には入られ、顕光院はのちには砂取邸(現熊本県立図書館)に入られた。
晩年病気になられると、娘である春嶽夫人・勇姫は初めて肥後国入りされて顕光院を見舞われている。
女性たちにとっての「大名妻子の帰国」は、母子の寂しい別離を生んだ。


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