津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■泰勝寺・長岡度世さまのご先祖様

2024-05-16 06:44:54 | 人物

 「開かずの段ボール」ならぬ「開けずの段ボール」を久しぶりに開けてみたら、朽木家の史料や古文書が顔を出した。
ひところヤフオクで朽木家や朽木定彦なる人物に関する文書を五点ほど手に入れたものである。
一緒に朽木家と長岡與三郎家の先祖附も出てきた。

そのころ一生懸命これらの文書を読んだのだが、定彦氏が刑部家に入ったいきさつが解明できないままでいた。
この朽木定彦なる人物は朽木昭信なる人物の嫡子である。「細川藩主要家臣」をみると、この朽木昭信は朽木家7代・昭恒の
養子として朽木家に入ったが「病身につき実方に引取る」という記載がある。

それゆえ8代は、八代松井家から営之の末子・昭久が入っている。
昭信の実方とは宇土細川家であり、「細川和泉守の伯父」とあるが和泉守とは宇土細川家の8代目の「立之」のことである。
つまり、7代細川立禮(宗家相続して齊茲)の末弟・左膳である。

定彦は朽木昭恒の娘である生母と共に朽木家に残ったらしい。
そして、父が朽木家当主を継いでいないために、他家に養子に出ることを望んだらしい。
それが、数年前ヤフオクで手に入れた朽木家関係の文書にいろいろ書かれていたのである。

 結果として定彦は刑部家に入っている。しかし嫡家ではない。
実は刑部家の6代は細川重賢の末弟・隼人が入って興彰を名乗っている。5代に男子があり興禎という人があってこれが嫡家
の後を継いでいる。

一方6代興彰の後は惣領の興度が別家を興した。定彦はこの別家の2代目となったのである。
細川宗家・宇土細川家の濃いDNAがこの別家に入った。
半世紀ほど前、泰勝寺にお住まいになっておられた、長岡度世様がそのご子孫であった。
私の姓が少々珍しいから、祖父のことを御存知で親しくしていただいた。

 長岡與三郎家の先祖附を精読してみると、朽木定彦氏が大叔父・細川齊茲公の配慮によって、宜紀公の末子(重賢公末弟)
である與三郎家の2代目として養子となったことがよく理解できた。

略系図にしてみると以下の如くである。

       +ーーー細川重賢ーーー治年==齊茲     
       +ーーーーーー左膳
                                ⇩  分家創立・初代
 細川刑部家5代・興行==興彰ーーー與三郎ーーー●
                                                       ‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川與三郎家                                   
                  定彦                           

             7代
  宇土細川家6代・興文ーーーー+ーーー立禮(宗家に入って齊茲)     
            +ーーー昭信(病身ニテ実家へ引き取る)
              ‖-------定彦 細川刑部家・分家-與三郎家に入り2代      
     朽木昭恒ーーー+ーーーーー女
            +ーーーーー女
              ‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朽木家
      松井営之・弟 昭久 

         ■定彦さん、順養子なるか
         ■定彦さん、順養子なるか・2
         ■その後の定彦殿
         ■定彦さんのこと、謎解き  
         ■定彦氏のこと
         ■定彦さんにこだわって
         ■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」
         ■定彦殿のこと・2「文化十四年七月十日付・米田監物書状」
         ■朽木家の血脈
         ■八代朽木家取扱之扣写(一)
         ■朽木家のこと「閑話休題」
         ■朽木内匠・定彦関係略系図
         ■八代朽木家取扱之扣写(ニ)
         ■八代朽木家取扱之扣写(三)
         ■先祖附にみる定彦殿
         ■八代朽木家取扱之扣写(四)御尋ニ付口上覚(一)
         ■懐具合と相談の上・・・    

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