津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本山御殿跡地に関する疑問

2023-09-01 07:07:39 | 地図散歩

 徳富健次郎著「竹崎順子」を未だ読了できていないが、まだ連鎖がつづいている。
順子の夫・竹崎茶堂(律次郎)は、熊本県の実学党政権崩壊後、官職を離れ本山に教育塾「日新堂」を開いた。
                    まこと
「大学」にある「苟日新、日日新、又日新(苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)」から名付けられた。
茶堂の沸々とした気持ちの高まりを知るような思いがする。ここから実学党の著名な門下生が誕生した。

さてその「日新堂」があった場所だが、その場所がどこなのか私は良く承知していない。
標識などで周知されているのだろうか?高田泰史編著「平成肥後国誌(下巻・365上段)」の記事によると、本山町631番地と有る。
又、同記事の前に在る「本山御殿跡」の項には、「産物方頭取の石光氏太田黒惟信竹崎茶堂嘉悦氏房などの実学派の人々が集って住んでいた」と記されている。
石光真清の「城下町の人々」を読むと、「藩公から頂戴した御殿跡に居を構えて」とあり、その住所は「本山町南御殿跡674」と記されている。
そもそも濱町様(齊茲)の「本山御殿」の範囲がよく判らないが、「熊本所分絵図 68‐12 飽田・託麻之内屋敷図」にある広大な「柏原要人屋敷と御居間床とある部分」であろうと考えていたが、そうだとすると、石光真清邸跡も竹崎茶堂の日新堂も私が考える「御殿敷地」には入っていない。
68-12図によると、三つのブロックで構成されていて、南に大きなブロックがありその上に二つのブロックが重なっている。
現在では熊本駅方面にいたる県道が走って上二つのブロックを分断している。
松本寿三郎氏編の「熊本地名辞典」(平凡社版)で「本山御殿」の項をみてみると、県道で分断された北側二つのブロックが明治以降本山町に属して「大字御殿跡」となったらしい。
つまり、石光真清邸も日新堂も「濱町様の本山御殿跡」とは、関係ないことが判明した。
「知らぬは私ばかりなりけり」かもしれない・・・・

               

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