
エルピディオ・キリノ第6代フィリピン大統領(1890-1956)

東京・日比谷公園に6月、ある顕彰碑が建立された。在日フィリピン大使館や日本政府、両国関係者の協力で建てられたこの碑は、エルピディオ・キリノ第6代大統領(1890-1956)の功績を讃えるものだ。皇居や省庁に近いこの公園の一角に、半世紀以上前のフィリピン大統領の顕彰碑が建てられたのは、なぜか。
話は、日本軍がフィリピンに攻め入った第2次世界大戦にさかのぼる。
妻子失ったマニラ市街戦
1941年12月、真珠湾攻撃と時を合わせ、日本軍はアメリカの植民地だったフィリピンに上陸。米軍との激しい戦闘が始まった。当初は日本軍が優勢で米軍は撤退した。しかし、3年にわたる日本の占領期間を経て、太平洋での勢力を盛り返した米軍が逆襲。フィリピン中部レイテでの激戦を経て、首都マニラでの市街戦が始まった。
1945年2月、キリノ大統領は当時まだ上院議員だった。キリノ大統領の親族らの証言によると、当時の状況は以下のとおりだ。
マニラ市内にあったキリノ家は、米軍の砲撃で邸宅の一部が破壊され、一家は近所にある親族の家への避難を決めた。砲弾が飛び交う中で一家が避難を試みた直後、キリノ大統領の妻アリシアと長女が日本兵の銃弾に倒れた。妻に抱えられていた2歳の三女も亡くなった。キリノ大統領は、妻とは違うタイミングで避難したため、直接目撃することはなかった。しかし、この悲劇はキリノ大統領の心に癒されない深い傷を残した。
このマニラ市街戦では、民間人約10万人が犠牲になったといわれる。「東洋の真珠」と称されていたマニラは廃墟と化した。
キリノ大統領は、妻子を含む親族計9人を亡くした。
BC級戦犯105人への恩赦
戦後、戦争指導者らがA級戦犯として、東京で裁かれたように、フィリピンでも日本軍に対する裁判が始まった。兵士らは「BC級戦犯」として、殺人や虐待などの罪に問われ、計137人が有罪となって処刑されたり、懲役刑を受けたりした。3年間の占領期間とその前後の戦闘で、日本軍に対するフィリピンの人達の怒りは非常に強かった。
そんな中で、1948年にキリノ大統領が誕生。日本との国交回復の交渉に臨んだ。1953年、再選を目指していた大統領は大きな決断を下す。BC級戦犯への恩赦だ。マニラの刑務所に服役していた元日本兵ら105人を釈放し、日本へ帰国させた。恩赦決定の報を受け、日本では喜びの声が上がった。マニラからの船が横浜港に到着した際は、祖国に戻った元戦犯と遺族の再会が大きく報じられた。一方、反日感情は根強く残っていた。元戦犯らが刑務所からマニラの港へ移動する際には、地元の人たちからの襲撃を防ぐため、フィリピン軍が護衛したという。
@色々書いてありますが、キリノ大統領に一番影響を与えたのは、渡辺はま子さんの慰問であり”ああモンテンルパの夜は更けて”であります。
こうした史実を、日比の友好の証を、後世に伝えるべく、きちんとした映画を是非つくって欲しいものです。
参考:曲誕生まで
1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いたことから始まる。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。
「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。
封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。
『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。
吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。
渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。
慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』は披露された。
この曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。
作詞者の代田も、作曲者の伊東も涙を流していた。その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯の帰国が計られた。