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AI革命後の社会で人間がやるべき事

2024-06-28 04:33:19 | 暮らし


 将棋の8冠だった絶対王者藤井聡太叡王に、伊藤匠七段が挑戦した第9期叡王戦五番勝負第5局で、伊藤七段が156手で藤井叡王に勝ち、3勝2敗で叡王を奪取した。伊藤新叡王の登場は正に、AI将棋を意味している。藤井聡太7冠がAIを駆使して、今までの将棋を一新した。

 昔からの定石というものが、通用しなくなった。将棋のことわざ「桂馬の高飛び歩の餌食」というような考え方が、むしろ邪魔になった。そのAI将棋を誰よりも生かした伊藤叡王が藤井将棋に勝った。AI登場で社会常識が変化する。過去の教訓も忘れなければならなくなる。

 なるほどAIはこういう形で時代を変えて行くのかと実感した。伊藤叡王の特徴は記憶力だという。記憶力が人間離れしていると言われている。AIから学ぶと言うことは、記憶すると言うことらしいのだ。将棋のトップ棋士の間では、記憶能力の大きさが争われていると言われている。

 そのいみで、藤井・伊藤時代以前の棋士の将棋で、藤井7冠や伊藤叡王に勝る将棋は極めて出にくい状況になっている。人間の記憶能力はマサチューセッツ工科大学 ハーツホーン氏の研究では、一般的に情報処理能力や記憶力は、10代後半にピークを迎えることを発見した。と書かれている。

 そのことを考えると、21歳の藤井、伊藤両氏を越えるためには、さらに若い人が表れるのでなければ無理と言うことになる。しかも記憶能力が、生まれつき際立つ人である。努力法で記憶能力は高まるらしいが、どれだけ努力しても、天才的な棋士になれるほどの記憶力は先天的な要素が高い。

 さらにハーツホーン氏の研究によると、50歳で基本的な計算能力がピークに達するとある。同じく、歴史的な出来事や政治的な思想といった一般的な情報を学び、理解する能力は、50歳前後までピークにはまだ達しない。 本当かなと思うが励まされる。

 複数の選択肢の中から答えを選ぶ、多肢選択式の語彙テストの結果、語彙力がピークに達するのは、60代後半から70代初めとされた。この辺りは実におもしろい。私のブログの語彙力は、今がピークかも知れない。過去の文章を読むと確かにそんな気がしてくる。

 しかし、肝心な発想力は失われた気もする。将棋はゲームの世界の話だから、良いのだが、人間が生きると言うことでは、この先AI利用できなければ、通用しなくなる。AIが人間の能力を超えた世界では、「人間は何をやるべきなのか」と言うことだ。例えば記憶力が良い人間と言ったところで、AIに較べることも出来ないほどの低能力である。

 大学の受験競争では、AIに勝る人間の受験生はいない。現在の受験では記憶力と、努力が出来る能力を計ることになっている。学問を行う、研究や新しい発見が出来る人間の試験方法を見つけなければならない。学問研究の性格が、AIの登場で全く様相が変るに違いないからだ。早く対応した国が次の世界をリードするのだろう。

 私は子供の頃から記憶力はとても低かった。漢字など覚えることが出来なかった。意味の伴わないことを覚えると言うことが出来なかった。漢字のテストで、0点ばかり取って、勉強してこいと怒られてばかり居た。自分でも訳が分らないように、覚えられなかった。

 それがある種の記憶障害だったのだ。と考えるようになったのは、最近のことだ。精神障害と言うことで、聖路加病院の精神科で見て貰っていたのだから、どこかに異常があったのだろう。今になって思うのは、発達記憶障害があったのだと思える。ある期間の記憶を失うところもあった。

 意味の無いことを記憶するという能力が欠けていた。多分今も同じで、人の名前は覚えられない。それで不愉快な思いをさせているのだが、最近は年寄だから仕方がないと、許されている。本当は年とは関係が無く、記憶能力が低いのだ。

 いわゆる記憶障害とは違うようだが、ともかく英語の単語を記憶するというようなことは、全く困り切るほど出来なかった。記憶方法を学び、努力すれば、記憶力が高まると言われるから、若い頃にそういうことを教えてくれる人が居れば生き方も変ったかも知れないと思う。

 若い頃は記憶で争うことはやっても無理だと考えていた。だから受験勉強も困難で、努力はしたがそれなりのものでしかなかった。それでも、好きなことの努力は出来る方だと自覚していた。強いベイゴマを作るとか。鶏の新品種を作るとか。川にダムを造るとか。絵を描くとか。大きなクワガタを探すとか。人に負けない努力が出来た。。

 AIの登場で将棋が変ったように、AIで人間がやるべき事が見つかるかも知れないと思う。鶏の新品種を作るという夢はやりきったつもりはある。その鶏が産んだ卵を孵化すことで次の世代を育てられる鶏種笹鶏を作った。ビルゲイツに笹鶏の意味を伝えたかった。アフリカで配った鶏は一代で鶏を飼うことが終わりになる。笹鶏であれば、日本の昔の地鶏のように、飼い続けることが出来るのだ。

 何十年もかけて作ったのだが、鳥インフルエンザで地域から排除を受けて終わりになった。あの頃は未熟で、木偶の坊と言われて耐える能力がなかった。歳をとった今なら少し違う。雨に負けてしまった。コロナの風に吹き飛ばされてしまった。宮沢賢治をあの頃知っていれば、笹鶏を止めることは無かったのだが。

 AIには好きと言うことが無い。人間がやるべき事は好きなことを見付けることだ。生涯やり続けられる好きなことだ。それは無意味なベイゴマではない。人のためになる好きなことで無ければ、人間は耐えられない。鶏の作出が世界のためだと思って人生をかけたのだが、もっと続けるべきだった。

 絵を描くことであれば、社会的価値があるような、ないようなものだが。絵の中には、深い哲学が存在している。哲学のある絵画はAIには描けない。真似をする絵は完璧であるが、AIには私がないから、人間存在の意味は個々のものだ。私絵画は生み出せないのだ。

 言葉にもできない。行動でも表わせない。音楽とも違う。絵画という表現法でのみ可能なものがある。図像として、そこにある自分に出会うことだ。これこそ人間がやるべきものを表わしているような気がする。AI革命の世界ではこの大切な、私という人間を忘れてはならない。

 AI革命後の世界では、人間は変わらざる得ない。人間がどのように生きるのかに特化する。人間がより人間らしくならなければ、生き残ることが出来なくなる。機械でもできることを人間が追及することは無くなる。AIが出来ない事こそ、人間がやるべきことになる。

 人間が生きるという味わいは、その人自身が感じることだ。その生きる刻々をどこまで深く感じて、好きになって生き尽くすか。より人間らしい生き方を生きることになる。芸術というものが、創作活動をする自分のためのものになる。他者と較べない、私芸術の時代が来るのかもしれない。

 
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